2.金星

 

 マックスウェル号副長の桜井が、通信衛星に張り付いて最後の点検を行っている。彼の宇宙服には、今回のミッ ションのために桜井の個人スポンサーとなったさまざまな企業のマークが全身に貼り付けられている。太陽光が強いので、レンズにフィルターをかけたり画 像補正をうまくやらないとスポンサーロゴの色や形が正確に再現されない。

 平田はシフ号艇内から複数のリモコンカメラを操って、三つ目の中継衛星の設置を撮影していた。衛星の向こう に、まだまだ小さな円盤でしかない金星が薄黄色に光っている。金星の自転周期は地球の時間で243.02日と極めて遅いため、それに合わせて静止衛星 を回すには金星から153万キロも離さないと遠心力と重力の釣り合いがとれないのだ。これは地球と月の距離の四倍ほどになる。また、画面で見ると宇宙 空間にただ衛星を浮かべているように見えるが、それは精密に調整された速度をもって移動しており、金星の自転速度と同じ角速度で動いているのである。

 いまシフ号はマックスウェル号から分離して、マックスウェル号と人工衛星の間に位置していた。

「平田、マックスウェル号と太陽をきれいに見せられないか」

 カメラの数だけあるモニター画面を見ながら斉藤ディレクターが腕を組んでいた。金星から見て、中継衛星、シフ 号、マックスウェル号の順に太陽方向に並んでいるため、マックスウェル号の姿は完全に逆光になっている。

 平田はコントロールパネルを調整してみた。

「うーん、絞りがうまく行かないですね。太陽と星が見えるように絞り込みますから、文さんのほうで、マックス ウェル号の影に3DCGを貼り付けてみてください」

「OK」

 黒田はライブラリからマックスウェル号の3Dモデルを呼び出してサイズと角度を調整し、2Dカメラの画像に貼 り付けた。逆光の中で手前から照明が当たっているような光の効果も付け加える。ある意味偽物ではあるが、マックスウェル号の船体がはっきりと見えてき た。緑と青のラインが船首からエンジン部へ続き、その2本の線に挟まれてMATSUKAZEとロゴが入っている。そのほか、出資額に応じた大きさでス ポンサー各企業のマークがあちこちに入っている。

「あっ。やべえ」斉藤が叫んだ。

「シフ号が分離してんだから、グラ号の前に穴がなきゃいかんだろう。文っ、修正しゅうせい!」

 黒田の素早い操作で、貼り付けたマックスウェル号の画像からシフ号のデータが取り除かれた。無事、船体にぽっ かりとシフ号が抜けた穴を見せるマックスウェル号の映像が送出された。

「えー、われわれが設置した三つの人工衛星は一辺266万キロほどの正三角形を形作っております。その中心に金 星があるわけです」音声モニターから桜井の緊張気味の声が聞こえてきた。

「この衛星によって、金星の昼の側、地球から見ると裏側ということになりますが、そこに着陸した場合でも、映像 や音声を地球に送り届けることが出来ます。また、地上班とマックスウェル号との通信にも利用されるわけです。これから、衛星同士の回線をテストしま す。この第三衛星から試験電波を第一第二衛星へ発射すると、それぞれの衛星は受け取ったものと同じ電波を地球へ送り、さらにとなりの衛星に中継しま す。ですから試験電波は最後に第三衛星に戻ってくるはずです。地球からも金星に向けて受信確認信号を送ることになっているので、われわれは初めに送っ た二種の電波と地球からの電波を受け取ることになるのです。実際はその他にも複雑なチェックを多数おこなうのですが、それはコンピュータの領分です。 果たして金星の裏側からの中継はうまくいくのでしょうか」

 Q太郎が書いた原稿通りに、固い口調ではあるがしっかりしゃべっている。

「いま我々がいる軌道は金星からかなり離れているので、金星に掩蔽されることなく地球へこの放送をお届けしてお りますが、着陸するとそうはいきません。中継衛星を経由しないと通信できない地域があるわけです。そのほか、これは安定した大容量通信を行うために必 要なものでもあります。さて、試験電波として送るのはどのような映像でしょうか。」

 などと盛り上げているが、衛星を設置する段階で地球とのやり取りや隣の衛星との通信状態は確認済みなのであ る。中継衛星を使って音声や映像を送るのは初めてであるが、成功しないほうがおかしいぐらいだ。

「さて、これがうまく行けば、金星圏のどこにいても個人メールが受け取れるようになるぞ」斉藤が妙にそわそわし ている。いままではミッションコントロールとの通信しか許されていなかった。

「十秒前。……五、四、三、二、一」黒田文が送信スイッチを押した。

「斉藤さん、テストで何を送ったんですか?」

 平田が尋ねても斉藤は答えない。「文、言うなよ」と黒田に釘を刺しただけだ。その様子を見ていたQ太郎が、

「だいたい斉藤さんの考えることは判るもんね。クルーにも内緒にするほどのことじゃないでしょ」とからかう。

「るせー、Qっ」

 電波の速さでも中継衛星間を一周するのには三十秒近くかかる。グラ号でも「探検隊」の面々が固唾を飲んでモニ ターを見つめていた。

「どおなってんだ。電波だろ。一秒30万キロだろ。まだなのかよ」

 山西悟がいらついている。それを煽るように太田摩湖が、わざと軽い調子でいやなことを言う。

「失敗したんじゃないかしら。ねえ」と矢部百合子の顔を見ると、百合子は無重量状態での髪のまとめ方を研究して いてそれどころではない様子だ。

「摩湖くんも、そんなに山西をいじめるな。きみは結果が出るまで三十秒ぐらいかかることを知ってるんだろ」

 バーニー服部が苦笑いしたとき、ミーティングルームの壁面に取りつけてあるメインスクリーンに「試験電波」と いう文字が映し出された。

「お、来たきた」投票でリーダーに選出された土屋紘一は真正面に陣取っている。リーダーといっても放送中だけの ことで、やはり取りまとめ役は服部なのだが、土屋の態度は少しだけ大きくなっているようだ。

「なんだろね。この映像は…」土屋が首をかしげるのも無理はない。文字が消えたあとに一面の星空が映り、金星の イメージ映像が出てくるのかと思いきや、画面を圧倒するように巨大な縞々の惑星がフレームインしてきたのだ。

「あれー、木星でしょ、これー」百合子にも木星ぐらいは判るらしい。

「ん? んん。でもなんか変じゃねえか」山西は画面の木星に輪がないことに気がついた。

 木星の衛星軌道上に宇宙船らしきものが浮いている。黒い板が漂うように、一直線に並んだ衛星のほうへ消えて いった。

「あ、あ、あ、あ。これはエイガではないか。昔、美術館で見たことがあるぞ」

 服部はタイトルが思い出せなくて、「あー、あれあれ」と自分の頭を掻きむしっている。

 シフ号のモニター画面にも無事、試験映像が届いていた。

「なんすか、これ」平田の気のない声に斉藤はちょっと傷ついた様子である。

「なんだ、平田はこの名画を見たことないのか。お前、勉強不足じゃないのか」

「名画って、ゴッホかなんかですか?」といいながら、さすがに平田も多分これが映画だということには気がついて いた。そして、ゴッホが映画監督だったかどうかに自信が持てなくて、斉藤の顔色をうかがった。

「この馬鹿たれが。ネットだテレビだって、映像に関わる仕事してるなら、二十世紀の映画ぐらい勉強しておきやが れ。もー、お前とは話ししないぞ。あっち行け、青二才」

「まあまあ、斉藤さん。しょうがないでしょ、ヒラちゃんが知らなくたって。あなたが映画好きなだけでしょ。もう 何十年も前になくなったメディアなんだからさ」

 Q太郎が宥めても、斉藤は納まらずに「地球で見ている人にはわかってくれる人がきっといるんだ。ちくしょう め」とぶつぶつ言っている。斉藤的には、試験映像で「2001:a space odyssey」を流せば拍手喝采のはずだったのだが。

「斉藤さーん。第二衛星への試験電波出しますよ」

 場を和ませるつもりなのか、珍しく黒田が明るい声を出した。こういうしゃべりかたをすれば、やさしいお姉さん に見えないこともない。

「おう。やってくれ、やってくれ」

「それでは、『風とともに去りぬ』より、スカーレットの決意のシーン、発射します」

「あやっ、この、ネタばらして楽しいか。覚えてやがれ」と怒る斉藤に、黒田は顎で平田とQ太郎を指し示した。

「Qさん、わかりますか?」「さあねえ。また映画だと思うけどねえ。ぼかあ、映画ネタはやめるように言ったんだ けどねえ」どうせ斉藤以外に映画のタイトルを聞いて、その映像まで浮かぶ人間はマックスウェル号に乗っていないのだ。

 

「我々は明日九月二七日に金星上空1000キロの軌道に乗ります。そして、いよいよあさって九月二八日には着陸 です。最初に降り立つのはどこでしょうか。まだ投票は間に合いますから、皆さんの意見をどんどんネットに送ってください。それでは良い週末を」

 中継態勢が整ったところで、さっそくグラ号からの生中継番組が放送された。これは、時間帯が金曜の夜(日本時 間)ということもあって、ネットとテレビの同時放送となった。

 スタッフの乗るシフ号もマックスウェル号にドッキングして送出作業に追われていた。

「よーし。終了」斉藤はグラ号に通じるマイクのスイッチを入れた。

「はーい、みなさんお疲れさまあ。土屋くん、最後のコメントちょっと固かったかもねー。君のキャラクターはもっ と軽くていいんだからさ。ま、力抜いていこうね」

 今日の仕事はこれまでである。斉藤とQ太郎は打ち合わせのためにグラ号のほうへ移動した。黒田は機材の調整を やっているようだ。

「文さーん、俺、なんかやることありますかね」

 平田の問いに、黒田は少し考えてから、「なんにもないわね。斉藤さんたちもいないし、<お疲 れ>ってことでいいんじゃない」と答えた。

 先輩のお許しも出たということで、平田は個室に引き上げることにした。「それじゃ」と軽く頭を下げて、肩をほ ぐしながら調整室兼ミーティングルームをあとにする。

 着陸艇の個室は、寝台のほかに個人用の通信端末があるだけの狭苦しい部屋である。いざというときには脱出カプ セルになるらしいが、そんな事態にならないことを祈るのみである。

「いやー、疲れたつかれた」と誰もいないのでわざとらしく顔をしかめて個室に入ってみると、端末の画面に《受信 メールがあります》マークが光っていた。

「お? さっそく来てるね。だれかなー」と着順再生にしてみると、画面一杯に半笑いの男の顔が映った。

「ひらたー。元気でやってるかあ。いいよなあ、お前は金星行きでよー。おれは相変わらず近所を回って小ネタを探 す仕事をやらされてるよ」

 なんだ、中沢の奴か。金星行きったって、軌道を回って帰ってくるんじゃないんだぞ。着陸したって、何にもない しなあ。こいつわかってんのかな。

「…で、帰ってくるのいつだっけ? 十月の半ばぐらいだよな。十八日の土曜日、空けとけ。飲みに行こうな。もち ろん、平田の奢りで、な。出張手当つくんだろ。頼むぜ相棒」 勝手なこと言ってら。なにが相棒だよ。お前とコンビ組んだ覚えはないぞ。

 中沢のメッセージが終わり、次のファイルが再生された。どうやら映像はないらしく、画面にはマックスウェル号 のイラストが表示されたままだ。

「さんちゃん、久しぶり。元気?」

 スピーカーから、愛しい声が流れ出てきた。平田は端末に向き直ろうと体をひねり、あらぬ角度で回転してしまっ た。

「私はまだジュピター三世に乗っています。マックスウェル号のことは船のなかでも話題になっていて、放送は全部 見るつもりだったんだけど、おじいちゃんが怒り出しちゃって、途中から見れなくなっちゃいました。うちに帰ったらネットで前の分を見ます。そうそう、 おじいちゃんはしょっちゅう本社へメールを送ってます。会社の誰かを怒鳴りつけないと気が済まないんだって。でも、会話が出来ないのでいらいらしてい ます。怒鳴られた相手の顔を見れないのが物足りないって言ってます。わたしはマックスウェル号の放送はおもしろいと思ったんだけど、やっぱりおじい ちゃんはだまされたと思ってるみたい。もう今日はさんちゃんは、金星の裏側にいるはずですね。予定通りならもうすぐ着陸ですね。大丈夫だと思うけ ど、…無事に帰ってくることを祈っています。あまりメールも送れないと思うけど、頑張っていい仕事してください。このメッセージが無事に届いたら、衛 星回線もちゃんとつながったってことよね。お返事下さいね。…ジェニファーより。うそうそ、瑠奈でした」

 笑い声を最後にメッセージは終わった。

「三十郎、元気でやってるようだな」続いて、父親の顔が映ったが、平田は父の言葉など聞いていなかった。

 ルナーっ。会いてえー。抱きてえー。と、歯を食いしばって体を丸め、ぐるぐる空中回転を続けるのであった。

「…試験電波で『2001年』を流すとは、なかなかやるのお。あれは、誰のアイディアかな? もしお前の考えで あったら、父さんはうれしいぞ」

 父のメッセージはまだ続いていたが、それに被さるように船長の野々山が船内放送で告げた。

「本船はこれから金星へ向けて加速します。二十秒後に慣性制御フィールドが励起完了するので、乗員の皆さんは身 のこなしに注意してください。加速時間はおよそ十分。以上連絡終わり」

 マックスウェル号は慣性制御フィールドによって、慣性質量を大幅に減少させた。これで、わずかのエネルギーで 加速することが出来るのである。ただし、推進剤まで慣性質量が減っては元の木阿弥なので、エンジンの反応炉はフィールドの外へ出るようになっている。 そして、慣性制御フィールドからはみ出した部分の構造強度が船全体の加速限界になっていた。

 空中回転を続ける平田は、慣性制御フィールドが励起されたことに気がつかなかった。そして回転しながら肘が寝 台の縁に当たった。大幅に質量を減じられている平田の体は運動量をほとんど持っておらず、肘が触れただけでぴたりと回転が止まった。ところが、平田が 身じろぎしたために肘がぴくりと動き、その「震え」の初速で丸めた体が個室内を跳ね回った。壁にぶつかれば、体と壁の弾性で見事に撥ね返されるのであ る。室内の空気も質量が減っているため、相対的に空気抵抗は通常と変わらない。そして平田の体を構成するすべての物質が慣性質量を失っているので、彼 はぶつかっても痛くないし、回転しても遠心力を感じない。平田は自分の「運動」にも気がつかず、心の中で「ルナーっ」と吠えつづけていた。

 金星を正面に捉えたマックスウェル号は、プラズマの白い尾を曳いてほぼ10Gという加速度を発生させた。しか し慣性質量が数千分の一に減少している船体、および船内では重力を感じることがない。確かに10Gという加速度で後方に押し付けられはするが、人間一 人の体重が10グラム程度の重さにしかならないので、重力を受けているとは感じられないのだ。それどころか、慣性質量が減少したことで、体を動かすと きにはほんの僅かの力で足りる。ただし、支えを失えば船の後方へ10Gですっ飛んでいくことになるのだが。

 操縦席では船長と副長が計器を見て異常がないか、神経を尖らせていた。エンジンや進路よりAIに異常が起こる ことが怖いのである。

「で、どうだったすかね、あっしは」

 すべてのチェッカーがグリーンのままであることに安心して桜井が口を開いた。

 船長は計器から目を離すことなく、「なにが」とぼそりと言った。

「え? そんな聞き返さないで下さいよ。第三衛星のセットアップやったっしょ。放送も見てたんでしょ。なんか感 想ないですかって、聞いてんですよ」

 野々山は、ふん、と鼻を鳴らした。

「あんなもん、全部コンピュータ制御ではないか。お前が出ていってやったことなど、衛星本体のアラームランプを 見ただけだろう。いまやってることとおんなじだっつーの」

 第一第二衛星のセットは船長が担当していた。この模様も地球へ向けて放送されたのだが、メディアに出演するの が初めてだった野々山は、第一のときは個人スポンサーのマークが付いていない宇宙服で出ていってNGを出し、第二のときにはQ太郎に渡された原稿の間 違ったところを覚えていて、しゃべりが全部カットされてしまったのである。それで次は桜井に押し付けたのだが、予想以上にうまくこなされて、船長の面 目丸つぶれなのだった。

「船長。着陸艇の降下んときはあっしらと地上班のやりとりが放送されるみたいだから、そのときもびしっと決めま しょうよ。くー、地球に帰還したらモテモテだ、こりゃ」

「なーにがそのときも、だ。浮かれおって。それなら宇宙船乗りなんかやめちまえ。メディアタレントにでもなるが いいさ」

「お、それもいいですね」と桜井は手を打った。

「ばかもーん!」

 秒速七〇キロほどまで加速したマックスウェル号は、エンジンを切り慣性制御フィールドを解除した。これで数時 間航行したのちに再び慣性制御フィールドを発生させて、減速を行い、さらに半径七〇〇〇キロで金星を回る衛星軌道に乗った。

 船内時間―日本時間に合わせてある―の午前六時ごろ、マックスウェル号は安定した軌道に乗った。メディアス タッフもタレントたちも就寝中の時間だ。操縦席には船長だけが待機していた。副長は仮眠をとりに個室へ消えている。

「船長、周回軌道に乗りました。慣性制御フィールドを解除します」

 マックスの報告に、野々山は無言で頷いた。マックスは身振りも理解できる。

 野々山の目の前には、星々の散らばる空間を切り取るような巨大な弧が、発光する雲のようにぼんやり黄土色に広 がっている。地球のように宇宙から大陸や海を見ることは出来ない。硫酸の雲が宇宙から地表を覆い隠しているのだ。もっとも、金星には海などないのだ が。

 前方から明暗境界線がじりじりと迫ってきた。この軌道では、およそ一時間五〇分で金星上空を一周する。

 さて、あとは副長に任せて、私は寝るとするかな。慣性制御も解除されたし、もう心配はないだろう。野々山はそ う考えて、座席のベルトを外し、ゆっくりとコックピットを抜け出した。桜井の個室を覗いて交代するように声をかけ、自分の個室で寝台にもぐりこんだ。

 体が漂い出さないようにするネットの圧迫感が心地よくて、すぐにうとうとしたのだが、ものの十分も経ったころ だろうか、副長がドアをあけた。

「船長、ちょっと」なにやら首を傾げている。緊急事態ではなさそうだが、船長の判断が必要であるらしい。

「なんだ、寝かしてくれないのか」などとぶつぶつ言いながら、寝台を出て操縦室へ向かった。

「すいませんね、船長。マックスが、金星上に電波源を発見したっていうんですよ」

 電波源? 何のことだ、と訝りながら野々山はマックスを呼び出した。

「マックス、電波源について報告せよ」

 マックスは慌てず騒がず、落ち着き払って説明した。

「北緯六〇度から七〇度、東経一〇度前後の地点から強力なマイクロ波が発信されています。周波数は変動している ようです。私が観測したときは、1.3ギガヘルツから1.4ギガヘルツへ変化しました。既知の有意信号ではないと思われます。私はこの電波源の調査を お勧めします」

 野々山はかぶりを振った。

「そうか。科学的な発見というわけか。しかしな、この船の行動を最終的に決めるのは、私じゃないんだよ。まあ、 マツカゼグループの役員会が何と言うかだな。そして、その意見を代表しているのが、斉藤ディレクターということになる。ま、彼も予定外の行動は上司に 相談して、さらにその上司が役員会にお伺いを立てなければ許可されないだろうしな」

 船長の強権が使えるのは、船の安全と人命にかかわるときだけだ。

 野々山と桜井が顔を見合わせて肩をすくめたとき、再びマックスがしゃべりだした。

「調査方法としては、軌道上から私がセンシングすることと、シフ・グラ両艇を降ろして探査することが出来ます。 また、現在のエネルギー残量から考えて、4.5時間までなら上空一〇〇キロに静止する強制軌道をとってセンシングすることが…」

 しゃべりつづけるマックスを桜井がさえぎった。

「おい、マックス。船長は、調査するかどうか決められないと言ったんだ。ごたごた言うな」

「申し訳ありません。船長の発言から意味を汲み取ることが出来なかったようです。それでは、調査が決定しました ら、お知らせ下さい」そう言って、マックスは押し黙った。

「船長、どうします? 斉藤氏に知らせますか」

 桜井は斉藤がおよそ科学には興味がなさそうだと踏んで、教えるだけ無駄だなと感じていた。

「まあ、教えるべきだろうな。あとでやっこさんが目を覚ましたら、どうするか聞いてみるんだな。それでは、私は 寝かせてもらうよ」

 さっさと個室に引き上げる野々山を見送りながら、桜井は内心悪態をついていた。

 なんだよー。面倒なことはおいらに押し付けるのかよォ。あいつ、ちょっと苦手なんだよなー。やだなー。

 

「電波源の調査は却下だ。一応、科学関係の機関には通知するし、ネットにも発表する。あとは興味のある人たちが やるだろう。マックスウェル号のミッションは科学調査ではない。娯楽だよ。わかってるのかね。大いなる無駄。これがコンセプトだ。何の利益も見返りも ない、しかし、困難な計画を実行すること。これが目的だ。もちろん、斉藤君が考えている《笑い》の要素は認めている。これまでのところ、評判はいい。 その路線を踏み外すようなことはしないでくれ給え。……」プロデューサーの説教は延々と続いた。

 シフ号のミーティングルームでメディアスタッフと桜井は、斉藤宛に送られてきたプロデューサーのメッセージを 聞いていた。斉藤は無言で副長のほうを見た。そして、「くふーん」と鼻から息を抜いた。

「…まあ、やっぱり、その」桜井は斉藤の顔色をうかがいながら言いにくそうに口を開いた。

「電波が出てるからって、おもしろいことがあるわけじゃないですもんね」

 斉藤はそれには応えず、黙ったままだ。桜井の申し訳なさそうな様子を見かねた平田は、助け舟を出すことにし た。

「あのお、俺たちが着陸した後で軌道上から観測すればいいじゃないですか。どうせ、着陸艇には大した観測装置も 積んでないし。マックスが観測したほうが、きっといいデータがとれますよ」

 それを聞いた斉藤は、平田のほうをちらりと見てから、桜井に視線を戻した。

「平田くんの提案がいちばん妥当な線だな。ただし、マックスウェル号の軌道を変えたり、観測のために余計なエネ ルギーを使うのは止めてもらいましょう。ま、そういうことで。船長によろしく伝えてもらいましょう」と、話はこれまで、と桜井から目をそらした。

 桜井がシフ号から出て行くと、斉藤は大袈裟に顔をしかめた。

「あーあ。余計なことをPに訊かなきゃよかったよ。俺がノーと言えば済んだ話じゃないか。これで、俺の評価が下 がっちまったよ。科学調査は学者に任せておけばいいんだ。まったくマックスもいらないことに気づいてくれるぜ」

「わたしはいらないことだとは思いません」

 突然耳元でマックスの声がして、斉藤は飛び上がった。

「こら、マックス。お前さんを呼んだつもりはねえぞ。おどかすな」

 斉藤が怒るのにも構わず、マックスは発言を続けた。

「今回の決定は、非常に残念なことと言わざるを得ません。今計画の目的に合致しないことであるのはわかります が、人類全体の知識を高めるためには、どんな些細なことでも未知の現象を調査することは無駄ではないと思います。私の意見はみなさんの行動を規制する ものではありませんが、…」

「黙れ、マックスっ」斉藤が一喝した。

「はい」とおとなしく応えて、それきりマックスはしゃべらなかった。

 Q太郎が、何事もなかったかのようにメインスクリーンに金星の地図を呼び出して、

「さあて、明日はいよいよ着陸だけど、どこに降りますかね」と地図上を見まわした。

「投票ではアフロディーテ大陸に票が集まっているみたいね」

 黒田もごたごたは忘れて仕事を進めたいようだ。

「ん? アフロディーテ? 大陸だぞ。アフリカの半分ほどもあるところを指定されたって、結局どこに降りたらい いのかってことだ」斉藤も気を取り直したらしい。

「おい、平田。〝探検隊〟を呼んで来い。協議だ」

「はい」と平田がグラ号艇内に通じるマイクを手にすると、斉藤に怒鳴りつけられた。

「こら。横着するな。俺は呼んで来いと言ったんだ。走れ、飛べっ」

 

 西暦二〇九八年九月二八日(日曜日)、いよいよ人類初の有人金星着陸の時が迫っていた。マックスウェル号本体 から分離したシフ号、グラ号はかまぼこ型の船体からアンテナや安定翼、推進ファンを突き出して大気圏突入に備えていた。両艇の乗員はミーティングルー ム下にある操縦室で座席に着き、ベルトで体を固定している。

 船のコントロールはすべてコンピュータが行うが、メディアスタッフはグラ号内部の様子を生放送するために、グ ラ号から送られてくる3Dデータや2Dカメラの映像を調整し、中継衛星へ送る仕事に忙殺されていた。

「これからグラ号は、逆進エンジンで軌道速度を殺し、金星の重力に引かれて降下します」と語る土屋紘一の顔と、 平田がシフ号のカメラで捉えているグラ号の外観を斉藤がスイッチングして切り替える。これはテレビ用の操作である。ネット向けにはシフ号が受け取って いるすべての映像・音声が同時に配信されており、利用者が自分で見たいものに切り替えるのだ。

「逆進エンジン点火」という土屋の声とともにグラ号の前部からまばゆい光がほとばしった。土屋の号令で化学ロ ケットエンジンが噴射を始めたように見えるが、これは演出である。実際はコンピュータがロケットを噴射するタイミングに合わせて、土屋が号令をかけた に過ぎない。

 いま、グラ号もシフ号も慣性制御フィールドを発生させているので、グラ号はあっという間に減速して後方へ飛び 去った。あとを追うようにシフ号もエンジンに点火して減速する。カメラは遠ざかっていくマックスウェル号を追った。二機の着陸艇の抜けた穴が、がらん と空いて寂しげである。

 シフ号は推力を調節してグラ号に追いつくと、金星に向けて垂直に機首を下げた。目の前に黄色い雲が広がる。す でに垂直降下に移っているグラ号の主エンジンの噴射ガスが霞を通してぼんやりと光っていた。

 地表へ向けて規定の速度まで加速した後にエンジンを切り、慣性制御フィールドを大きく展開して機体をすっぽり と包んだ。機体の一部でもフィールドの外に出ていると、大気の抵抗をまともに受けて姿勢が乱されるのである。いまは、機体の大きさを僅かに上回る範囲 で慣性制御が効いているので、大気が機体に接触するときにはその分子も質量を減じられていることになり、相対的に通常時の抵抗と変わりがないことにな る。また、こうすることで、機体の耐圧性も上がる。慣性制御フィールドは、物体の質量に影響を及ぼすが、その「硬さ」には影響がないので、軽くなった 気体分子による圧力には耐えやすいということだ。

 それでも、濃硫酸で出来た雲の層付近は西向きに秒速一〇〇メートルという高速の風が吹いているため、着陸艇は 激しく揺さぶられた。風に流されないように安定翼が姿勢を制御し、推進ファンが稼動して風の流れに対抗していた。

「グラ号を見失いました」平田はレンズの倍率を変えたり、可視光以外の領域に変えてみたりしたが、グラ号の姿は 見えない。

 艇内には分厚い断熱壁を通して、軋むような音が聞こえている。激しく揺さぶられているはずだが、体に揺れは感 じられない。これも慣性が弱くなっているためだ。

「グラ号内部の映像は届いているか」斉藤が叫ぶ。

「だめです。アンテナが追尾しきれないようです」と黒田。

「こっちの電波は衛星に届いているか?」

「それは大丈夫です」という黒田文の答えを聞いて、ずーっと歯を食いしばって椅子の肘掛をつかんでいたQ太郎が 搾り出すように言った。

「さいとーさあん、ディレクターのリポートで、い、き、ま、しょ、お、よ」

「おおし、そうだな。文、すべてこっちの船内カメラに切り替えろ」

 斉藤の指示でモニター画面にシフ号艇内各部が映し出された。それを平田が調整して、操縦室全景や一人一人の顔 にフレームを合わせる。

「こちらはシフ号艇内であります。金星大気の激しい動きに翻弄され、われわれはグラ号を見失ってしまいました。 再び彼らを見つけるまで、わたくし、斉藤浩二がお届けします」

 そこへいいタイミングでマックスウェル号からの連絡が入った。

「マックスウェルからシフへ。こちらのレーダーにはグラ号が映っている。すこし予定のコースを外れたようだが、 修正しているようだ。着陸予定地点には無事辿り着くと思われる」

 副長の声だ。放送を意識して妙に自信たっぷりである。

「了解、了解。こちらはそろそろ雲を抜ける。濃硫酸で機体がやられないか、心配だ」

「大丈夫。自分の船を信頼してください。着陸までにそちらはマックスウェルのレーダー圏から出てしまいますが、 通信は出来るので問題があったら連絡してください」

 二人の会話を聞いて平田は含み笑いで顔をひきつらせた。

 普段は仲が悪いくせに、放送されてるとなると二人とも別人だね。桜井さんもまるで船長気取りじゃないか。

 雲の層を抜けると激しい風は止んだ。安定を取り戻したシフ号は硫酸の雨の中を螺旋を描いて降下していった。雨 は地表に達する前に蒸発して再び雲となる。

 雨の領域を抜けると、船外カメラで地表の様子が見えてきた。硫酸の雲を通りぬけた太陽光はオレンジ色で、地表 もオレンジ色に染まっている。

 平田が船外カメラを広角目一杯に広げると、遥か下方にグラ号らしき点が見えた。シフ号と同じように螺旋状に降 下している。慎重にズームするとオレンジ色のアルマジロの甲羅のようなボディにMATSUKAZEのロゴが入っているのがわかった。松田老人は着陸艇 にもマツカゼのイメージカラーを入れろ、とうるさかったのだが、金星のオレンジの光の下では色を判別することは難しいので、白一色に黒い文字でロゴを 入れることになったのだ。

「グラ号からの電波が復帰しました」という黒田の報告を聞いて、

「お聞きの通り、グラ号を発見しました。では、グラ号艇内へ戻します」と、斉藤は回線を切り替えろ、の身振りを した。

 モニタースピーカーから百合子の声が響き渡った。

「へー、何にもないんだー。見た感じ、あったかそうなのは気に入ったけどねー」

 みんなで船外カメラの映像を見ているらしい。土屋がリーダーとして報告する。

「金星の地表は、思いのほか平坦なようです。金星の地図を見ると、クレーターがあちこちにあったり山や谷があっ たりで、すごく険しい土地のような印象を受けてましたが、地形の勾配はなだらかで、なんというか、すごくぺったりした感じです」

 それを山西がからかう。

「なんだよ、その言い方は。もうちょっと気の利いた表現はねえのかよ」

「おーっほっほっほ。紘ちゃんに無理言ってもしょうがないでしょ。文句があるなら、山西さんがリポートすればい いじゃない」

 太田摩湖も軽口をたたいているが、シフ号のモニター画面に映し出されている彼らの表情はどことなく硬い。金星 の苛酷な環境にこれから降り立たなければならないということに緊張しているのであろう。

「まずいなあ」斉藤が渋い声を出した。

「みんなこわばってるよ。怖がるなら、演技でやってくれなきゃ、視聴者が《引く》よ。あいつらマジじゃん」

 斉藤の心配を感じたのか、グラ号ではバーニー服部が口を開いた。

「ところで、これからわしらが着陸する場所だがな、そろそろ明かしてもいいんではないかな。ん?」

 これは段取り通りである。降下の途中で着陸場所を発表することになっていた。

「服部さーん、そーでしたー」と山西がわざとらしく頷く。

「んじゃ、リーダーくん頼むよお。なはなはなはははは」

 服部に肩を叩かれて、土屋がしゃべりだした。

「えー、それでは着陸地点の発表を行います。われわれが着陸するのは、東経132.89度、南緯23.3度、ア フロディーテ大陸の南側に位置するマリコクレーターです」

 すると一同が、またぶーぶー言い出した。

「つっちー、へたくそ」「もっと溜めろよなあ」「あらあらあら、これじゃ、斉藤ディレクターもSEつけられない じゃないの」

 それを服部が宥めるように話し始めた。

「まあ、まあ、まあ。まあ、わしの話を聞きなさい。こないだみんなでどこに着陸するか話し合ったな。そのとき、 視聴者投票でアフロディーテ大陸にすることまでは決まっていた。でな、金星の地名は基本的に女の名前がついているのは知ってるだろう。金星はヴィーナ スと呼ばれるぐらいで、美の女神だからな。それで、ちょいと探してみたんだよ、地図を見てな。そしたらあったんだねえ、偶然にもアフロディーテ大陸に さ。あっはっはっは」

 土屋は腑に落ちないという顔で服部を見ていた。

「そういえば、マリコクレーターにしようと言い出したのは服部さんでしたね」

「そういうこと。マリコてえのはわしの初恋の人の名前でな…」

「服部さああああん。いいんすか、そんな、あんたの個人的な思い出のためにこんな大事なことを決めちまってええ ええ」山西が吼える。

「そうですよ。あなた、あのクレーターは景色がいいとかなんとか言ってたじゃありませんか」太田も憤慨して見せ る。

「なはははーん。景色がいいかどうか、誰も行ったことがないのに、わしに判るはずがないだろ。…それよりな、そ のマリコという娘はな…」

 

   3.ロケット?

 

 グラ号の姿を確認したシフ号は、螺旋降下を止めて急降下した。推進ファンの推力も使ってグラ号をかすめるよう に下へ回りこむ。金星の濃密な大気は着陸艇を上下左右に揺すろうとするが、可動式の安定翼が姿勢を保ってくれた。平田が操作するシフ号の外部カメラ が、空中のグラ号をあらゆる角度から捉えていく。

「あーん、どうも背景がよくねえな」斉藤はモニター画面をみながら、鼻に皺を寄せている。金星の大気は透明度が 低く、あまり遠くまで見えないのだ。

「どうなんだ、この角度ならダイアナ地溝のしわしわが見えるんじゃねえのか?」

 ただ霞の中を降りていくような画がお気に召さないらしい。

「レーダー画像と合成すれば、そんな映像も作れると思いますよ」

 平田の提案にも渋い顔だ。

「…それも手だが、…ここはやっぱりリアルにいかないとな。良いや、これで行こ」

 眼下にマリコクレーターの姿がおぼろに見えてきた。はっきりした円形ではなく、腫れ物を潰したあとのようだ。 シフ号はその中心にぐんぐん降りていく。グラ号より先に着陸して、その着陸の瞬間を放送するためである。

 シフ号は慣性制御フィールドの範囲を調整して、推進ファンと安定翼を通常空間にはみ出させると、ファンの推力 で激しく減速した。そして、ゆっくりとマリコクレーターの中心に着陸した。

「I C減衰します」黒田の報告とともに、じんわりと体が重くなってきた。重力加速度を感じるのは地球を出て以 来だ。金星の表面重力は地球の九割ほどなので、ほぼ十日ぶりに重力を感じる彼らにとっては地球上と変わりがないような気がする。

「うわー、重いや」とQ太郎が悲鳴を上げている。彼は宇宙から地球に帰るたびに、ダイエットを決意するのだが、 成功したためしがない。

 慣性制御フィールドが消失すると、船殻がみしみしと軋んだ。船にぶつかってくる気体分子が本来の質量に戻った ため、金星地表の九〇気圧という圧力がまともに懸かってきたのだ。慣性制御フィールドを使うことで大気からの伝導熱も減るのだが、ICフィールドは大 量の電力を消費するので常時励起させておくことは出来ない。

「熱電池稼動開始」

 着陸艇にはもちろん艇内を冷却する装置が備えられているが、まずは外気温を艇内に伝えないことが大事である。 断熱壁には断熱材や真空層が幾重にも仕込まれているが、その中でもっとも有効なのが、熱電池である。これは熱エネルギーから電力を取り出す素子で、電 力の逃げ場さえあれば熱容量は無限といってよい。着陸艇の表面はこの熱電池で覆われている。発生した電力はバッテリーに蓄えられ、余剰分はレーザー ビームとして空中に廃棄される。熱電池にかける電気的負荷の調整で、艇内に伝わる熱を調整するのだ。

 シフ号に遅れること数分で、グラ号が降下してきた。こちらは螺旋降下を続けている。

 メディアスタッフは狭苦しい操縦室から、送出調整機のコントロールをミーティングルームに移していた。全員操 縦室の階上へ移動して、グラ号の降下を見守る。

 いま放送ではグラ号艇内の様子が流されていた。シフ号のメインモニターにグラ号操縦室が映し出されている。

「うーん、ついに金星に着陸だ」土屋が興奮気味に船外モニターを見ている。着陸艇には熱対策のため窓がない。

「なーんか、プラスチックの地面みたーい」矢部百合子の感想も仕方ないことである。マリコクレーターの内部はほ とんど平坦で、ひび割れも少なくのっぺりしている。おまけにオレンジ色に染まっているので、地球的な感覚ではとても岩盤には見えない。

 斉藤は平田が操作しているグラ号を捉えた映像を確認して、そちらに切り替えた。

 四基の推進ファンを調整しながら、螺旋運動を止めてゆっくりと降下してくるグラ号が真上から覆い被さってくる ようだ。そこで、シフ号もファンを稼動させて、水平に移動した。平田のカメラはグラ号を追尾しながらパンダウンする。

 グラ号はすべてがオレンジ色になった薄暗い金星の地表にようやく着陸した。厚い雲によって太陽光線は弱めら れ、地球の曇天ほどの明るさしかない。遠くは霞んでよく見えず、濃密な大気はちょっとした温度差で陽炎をつくるので、加熱中の風呂桶に沈めたおもちゃ の潜水艇を見ているようだ。その風呂には入浴剤が投入されている。

 着陸艇の外部カメラによる映像と〝探検隊〟の艇内からのコメントでこの日の放送は終わった。グラ号内部からの ネット生中継が残されているが、これにはたいして手間がかからない。

 次の日、いよいよ人間が金星地表に足を踏み入れることとなった。本番は日本時間の夜八時からである。その前に 一通りリハーサルすることになっていた。グラ号からのネット生中継のない時間帯を使って、グラ号の乗員とハンディカメラ担当の平田が艇外へ出て最終テ ストをするのだ。

 平田は、とても「服」とはいえない金星服の中に納まった。金星大気の高圧と四五〇度を超える気温、地表温度に 耐えるため、金星服はかなり大型になっている。重量もかなりのもので、人間の力で動かすことは困難なほどである。そこでミクロなレベルで各部に動力装 置が仕込んであり、中の人間の動きを感知して「服」が自分で「動く」ようになっていた。

 外観は某タイヤメーカーのイメージキャラクター、タイヤ男ことビバンダムくんによく似ていた。全身真っ白で、 胴体や腕、脚に節がある。頭の部分には宇宙服のような透明なフェイスプレートはなく、人間の両目の幅で二つのカメラが仕込んであるだけだ。このカメラ が捉えた映像を再構成してヘルメット内部の立体スクリーンに3D映像を投影するのである。使用者にとってはガラス越しに外を見ているのと変わらない視 覚を得られる仕組みだ。また、平田が着ているカメラマン用の金星服は右腕の先にカメラが内蔵されていて、これを放送用に使う。モニター画像は視覚用の スクリーンの一部にワイプで表示されるようになっている。

 身長二メートルを越す大男になった感覚で、平田はエアロックにのそのそと入っていった。三段階に加圧するの で、なかなか外へは出られない。一段加圧するごとに金星服のどこかが軋み音をたてるので、なんとも不安である。

 ようやく最後の加圧が終わり、外へ通じるハッチが開いた。そこは着陸艇の先端上部であった。地面から十数メー トルの高さである。ハッチの前に手摺の付いたちょっとした踊り場があり、そこから地上にタラップが続いている。平田は慎重に足を踏み出した。金星服の 動力のお陰で足取りは軽い。

 階段を降りながら、隣のグラ号のほうを見ると同じように五人のタイヤ男(女)がおっかなびっくりタラップを降 りる様子が見えた。金星服はそれぞれの体に合わせて作られているので、微妙に身長が違う。先頭で小道具の入ったケースを持っているのが土屋だろう。

 平田は階段の途中で右腕カメラをグラ号のほうへ向けてみた。この角度の映像はシフ号からは撮れないはずだ。横 から見ると着陸艇は両端が下がったかまぼこのように見える。その四隅から推進ファンのユニットが突き出していて、前後にはロケット噴射ノズルがある。 見ようによってはだんご虫のようでもある。ただ、その甲羅に当たる部分には大小さまざまな可変ウィングが取り付けられており、整流フィンと相俟って棘 を逆立てたヤマアラシにも見える。

 グラ号の向こう、地平線がやけに近い。マリコクレーターは半径が六キロほどなので、その縁が地平線のように見 えるのだろう。

〝探検隊〟がグラ号前に整列した。それを正面から捉え、背景にグラ号を入れて撮影するのは平田のカメラである。

「それじゃ、リハーサルをいっちょぶちかますか」ヘルメットに斉藤の声ががんがん響いた。「グラ号から降りると ころ、もろもろあって、金星に降り立ちました、の続き。5,4,3,2,…」ADがいないので、カウントも斉藤が数える。

「さ、ついにやってまいりました。前人未踏の金星の大地であります」

 土屋が元気よくしゃべり出した。

「今日はその第一日目。金星をよく知ろう、のコーナー!」

「よっ」「おやんなさい」「いいぞー」「やりましょ、やりましょ」とあとのメンバーが騒ぐ。

 それを一通り聞き流してから、土屋は持ってきたケースを開けた。まず、ダイヤルを回して空気抜きの穴を開く。 これで、ケースの中が金星の外気に開放されるのである。それからバックルを起こして蓋を開ける。するとケースの中からもうもうと陽炎が立ち昇った。

「なんだ、浦島太郎か?」と山西が突っ込む。

「や、しまった。後で飲もうと思って、コーヒーのパックを入れておいたのが、こんなことに…」と土屋が取り出し たのは、くしゃくしゃに潰れて煙を上げている紙パックであった。中身はすでに飛び出して蒸気となっている。

「さあて、こんな金星にわれわれが居られるのはあと一時間」

「どーしてー。もう地球に帰っちゃうのー?」百合子が鼻詰まりの声をあげた。それをいやいや、と押しとどめる身 振りをして土屋が続ける。

「そうじゃありません。われわれが着ている、この金星服、通称ヴィーナススーツ、(ここで、「なに? よけい長 いぞ」と服部が突っ込む)こいつの耐久性が一時間ということ。よーく見てください。ヴィーナススーツの表面から湯気が立っているでしょう」

 そう言われて、一同は互いのスーツを見比べた。たしかにうっすらと白い煙のようなものが見える。

「なんだこれは」「あ、これは、溶けているんじゃありませんこと」「ど、ど、どういうことだ」とみんなが騒ぐと きに、斉藤が、ヘルメット内部に仕込んだ出演者の顔を捉える小型カメラ―スタッフは顔カメラと呼ぶ―に切り替えてそれぞれの表情を見せることになって いる。

 騒ぎを押さえる大声で、土屋が説明した。

「金星の高温をスーツ内部に伝えないために、分厚い特殊樹脂で覆ってあるんです。これは、溶けて蒸発するのに大 量の熱を使います。この樹脂が残っているうちは熱が内部に伝わってくることはありません。まあ、樹脂層が薄くなってくれば、それなりに暑くなってくる でしょうけどね。熱電池や冷却装置の装備はとても大掛かりになるので、スーツには取り付けられなかったんです」実際は人間の体温で中からも暑くなるの を防ぐために保冷剤が仕込まれていて、内張りに張り巡らされた細いパイプを循環している。その保冷剤の効果にも限界があるのだ。「そこで、…」と土屋 はケースの中から、金属製の人形を取り出した。

「このヴィーナスちゃん人形の出番です。これは鉛の合金で出来ていて、ヴィーナススーツの耐久時間とほぼ同じ時 間でどろどろに溶けることになっています」

 ヴィーナスちゃん人形はボッティチェリ作「ヴィーナスの誕生」から貝殻とヴィーナスの部分を立体化したもの だった。全裸の女性が右腕で胸を隠し、長く伸びた髪の毛と左手で股間を押さえて巨大な貝殻の上に立っている。大きさは七〇センチほどだろうか。

「視聴者の皆さんは、このヴィーナスちゃんの状態を見て、われわれがいま《どれぐらい》なのか知ることが出来る わけです」

 平田のハンディカメラがヴィーナスちゃんにぐっと寄る。着色はされていないが、精巧に出来た人形だ。ただし、 よく見ると眉毛が一本につながっていて、鼻毛が飛び出している。

「というところで、みなさんにやってもらうのは……」

 土屋が次の段取りを説明しにかかったとき、平田の視界の隅で何かが動いた。探検隊はグラ号を背にして全員平田 のほうを向いているので、この動きに気がついたのは平田だけだった。反射的に平田はハンディカメラをそちらへ向けた。グラ号の上空、オレンジ色の空に 白い光の筋が動いている。しかし、かなり高空のようで、小さくぼんやりしている。慌ててズームをかけたが、見失ってしまった。

「こらあ、平田っ。どこに振ってんだよ。訳わかんないもの撮ってんじゃねえ」インカムを通じて斉藤が怒鳴り散ら した。

「すいません」と答えて、あとはリハーサルに専念するしかなかった。

 リハーサルはまったく本番と同じというわけではなく、スーツの耐久性に余裕があるところで打ち切られた。これ は、金星服の内部が熱くなってきたときの感覚に慣れることがないようにである。本番では限界を知らされていない出演者が、本気で熱の恐怖を表現するこ とが要求されていた。

 シフ号に戻った平田は、エアロックで徐々に減圧しながらスーツを冷ましている間も斉藤に説教されっぱなしだっ た。

「いいか、指示されない方向へ勝手にカメラを振るな。こっちは全体の構成を考えてスイッチングしてるんだから な……」

 変な光を見た、と言ってみても取り合ってもらえるはずはない。平田にも、自分の気のせいだったのではないかと 思えてきた。

 数時間後、直前ネット生中継も終わり、金星地表からの放送本番となった。金星服の耐熱樹脂は新しいものに張り 替えられており、さらに本番用にはそれぞれの頭の部分に本人の似顔絵が描かれていた。これは写実的なものではなく、特徴を強調した線画である。そし て、耐熱樹脂が蒸発するにしたがって、似顔絵が薄れていく趣向である。

 放送は順調に進み、土屋がヴィーナスちゃん人形を取り出すところまで運んだ。

「というところで、みなさんにやってもらうのは…」

 と土屋が溜める。

「金星をよく知ってもらうために、」

 みんなが注目しているのを確認して、

「地球クーイズ!」と叫ぶ。

 あとの四人は、どどどと倒れた。

「なんで地球なんだよ」「金星クイズじゃないのか」「もお、金星のことならいろいろ勉強したのにぃ」「おふざけ でないわよ」と騒ぐ四人を無視して土屋はルール説明を始める。

「これから、地球に関する問題を出します。わかった人は挙手してください。指名されてから答えることができま す。十問正解したらグラ号に戻ることができます。いつまでも正解しないと、だんだんスーツの中が熱くなってきますよ。いっひっひっひ。それから、お手 つきにはマイナスポイントがつきますから、気をつけてちょうだーい」

 一同は位置を変えてシフ号のカメラに見えやすい並びをとった。その背後や横からの映像を狙うのが平田の役目で ある。

「第一問。地球の内部の問題です。地殻とマントルの境目を何という?」

 すかさず山西が手を上げた。

「はい、山西さん」

「思春期!」

「なにそれー」と百合子が呆れると、服部が「あー山西よ。それは子供と大人の境目だ」と指摘する。

「あ、そうか。さすが服部さん。こんな判りにくいボケによくぞ突っ込んでくれました。服部さんに三ポイント」と 土屋。

「リーダー、何ですか。クイズに正解しなくてもポイントがもらえるんですの」と太田摩湖が文句をつける。

「いいんです。ぼ、く、が、ルールです。さ、まだ、正解は出てませんよ。はい、百合子ちゃん」

「ちょっと自信ないんだけどー、ホモ面じゃない?」

「うーん、惜しい。ホモじゃない!」

 服部と太田が同時に手を上げた。土屋は二人を見比べて、服部を指名した。

「よーし。正解してやる。…カマ面だろう」

「なんすか、服部さん。ホモが惜しいからって、カマですか」山西が自分を棚に上げて馬鹿にする。

「いまの不正解でバーニーさんはマイナス五ポイントです。それじゃ、摩湖さん」

「ほっほっほっほ。ホモが惜しいって言ってるんですよ。みんな土屋くんのヒントをちゃんと聞かなきゃあねえ。正 解しちゃいますよ。レズ面でしょ」

「あっ、そうかあ」と山西が悔しがる。

「全員不正解です。正解はモホ面、またはモホロビチッチ不連続面です」土屋が告げると全員がそれぞれオーバーに リアクションする。

「えっ。そうなの? だめだよ、摩湖ねえさん。すぐ自分のこと言うんだから」「えー、ホモとモホって違うのおお お」「わたしはレズじゃなくって、どっちもOKなんです」「んー、全員だめか。これは先が長いのお」

 こんな感じで、斉藤とQ太郎が考えた、下らないクイズ大会が延々続いた。

 ヴィーナスちゃん人形が相当とろけだして、首ががっくり右に傾き、胸を隠す右手が肩から溶け落ちてしまったこ ろ、クイズにはバーニー服部と矢部百合子の二人が残っていた。

「おまえら、いい加減に十問正解しやがれ」すっかり土屋は荒れている。

「暑いんだよー。ちくしょー、司会がいちばん大変じゃないか。全員が終わるまで、帰れねえんだぞ。スタッフに騙 されたー」

「つっちー、早く次の問題だしてよー。あたし、あと何問?」百合子もぜーぜー言っている。となりで服部は座り込 んでいた。その服部の後ろ姿を平田のカメラが狙っている。

 平田用の金星服は耐熱樹脂の厚みが違っており、出演者たちのものより長持ちするようになっていた。

「あちっ」と叫んで立ち上がるバーニー服部の臀部を平田カメラがアップにする。岩盤に座ったため、樹脂の溶解蒸 発が進んで丸く型が出来ている。

「えー、いくぞ、次の問題。一年は365日ですが、一年で地球が太陽のまわりを」と言いかけて、土屋紘一は動き を止めた。なにかの間を計っているのかと、あとの二人はしばし待ったが、なにか様子がおかしい。

 咄嗟に斉藤が平田へ指示を出した。

「映像をマックスウェル号からの金星像に切り替えるから、おまえ、土屋のやつをなんとかしろ」

 平田が土屋に歩み寄ろうとしたとき、その土屋が叫びだした。

「んがー、なんだありゃ」

 そのとき地表に出ている四人は、シフ号とグラ号の間に斜めに並んで立っており、服部と矢部の二人は概ねグラ号 を背にしていた。平田はその後ろで土屋の方を見ていたので、土屋以外の三人は反対の方を向いていたことになる。叫ぶ土屋に驚いて、三人が振り向くと、 左手にグラ号のボディがあり、その右側、マリコクレーターの縁で出来た地平線の上にこちらへ向かってくる巨大な物体が見えた。

 金星の弱い日差しを浴びて金属的に鈍く輝いている。まだ、数キロは離れているようだが、どんどん近づいてくる のがわかる。多分、音速に近いスピードだろう。

 あっ。平田は気が付いた。リハーサルの時、上空を飛んでいたのはあれではないのか。そうだ。ロケットのように 白熱したガスを後方に吹き出しているではないか。

「斉藤さん、見て下さい」と、自分のカメラを物体の方に向けて拡大する。

 丸みを帯びた本体に三角形の翼のようでもあり放熱板のようでもあるものが二枚ついている。それは頂点で本体に 接している。そして、先端には十本前後のチューブのようなものが突きだしていて、そのチューブはそれぞれがゆっくり動いているようだ。

「宇宙船か?」服部がつぶやいた。「羽があるから、鳥じゃないの?」百合子も茫然と見ている。

 平田は、はっと気が付いた。まずい。あんなでかい物が飛んできたら…

「みんな、着陸艇へ逃げ込め!」と叫んで、あとの三人を小突いた。そして自分もシフ号目指して走り出した。タ ラップの手摺に飛びついて、ちらりと振りかえると土屋と服部はグラ号のタラップに取り付こうとしていたが、矢部百合子だけがまだ突っ立ったままだ。

「ちっ」と舌打ちすると、平田は百合子の方へ駆け戻った。

「おい、逃げるぞ」と腕をとる。しかし、もう間に合わない距離だ。物体は数百メートルの高さを通過した。平田 は、百合子の体を抱え込むようにして地面に伏せた。そのとき見上げると、本体は太い円柱状で左右に翼のように見える板が突き出している。前方のチュー ブは入り乱れる蛇のように一本一本勝手な曲がり方をしている。全体に金属のような光沢があった。

 二,三秒後、耳を聾する大音響とともに激しい乱気流の渦が巻き起こった。平田と百合子は互いの金星服にしがみ ついて岩盤の上をごろごろと転げまわった。

 二機の着陸艇もその乱流の影響を受け、ボディがぐらぐらと揺れた。気流を調節する安定翼がなければ、もっとひ どいことになっただろう。

 平田たちの金星服はなんとか風による気圧の変動と衝撃に耐えた。もし、どこかに亀裂でも入ろうものなら、即死 に近い。

 大気の乱れはかなり長い間続いたが、最初の十数秒が過ぎると立って歩けるぐらいに治まった。

「百合ちゃん、怪我はないか?」平田が百合子の手を取って立たせると、彼女は荒い息のまま、なんとか一言だけ言 葉を発した。

「ありがと、平田っち」

 

 予定の内容を消化しきれぬまま、金星からの生放送は、着陸艇内で機材の点検や怪我人がいないかの診断をする様 子を流して、ぐだぐだのまま終わった。