3.イーター地球侵入

 

 頭上に広がる太平洋が鮮やかに陽光を反射して、青い光が室内に満たされていた。実験船タイタンはその操縦室の ほとんどが透明なシールドで覆われており、宇宙服なしで軌道上を遊泳しているような錯覚を起こさせる。

 タイタン実験チームリーダーのハント博士が、操縦室中央にしつらえられたインタビュー席に着いて瑠奈と向き 合っていた。

「慣性制御というのは、簡単に言うと空間の粘り気を変えるということなんです」

 ハントは英語で話しているが、瑠奈が耳に付けている翻訳機が、ある程度の時間差はあるものの正確な日本語に変 換してくれる。声質もハント氏のものを再現していて、肉声で聞こえてくる英語の言葉がなければ、本人が日本語を喋っているとしか思えないほどだ。

「物体に力を加えると加速度が生じます。このとき力に抵抗しようとするのが慣性です。重いということは、慣性が 強いということです。同じ力を加えても、より重い物の方が加速度は小さくなるわけです。あくまでもイメージとしてですが、物体が加速しようとするとき に空間が粘り着いて力をロスさせていると考えて下さい。慣性制御で空間の粘りを少なくすると少しの力でたくさん加速できるわけです」

 瑠奈は視聴者のために質問した。

「でも、一度加速してしまえば、ICフィールドを切っても減速しませんよね。粘り気が元に戻ればスピードも落ち るんじゃないですか」

 ハントは頷いてにっこり笑った。綺麗に刈り揃えられた金髪が自由落下による無重量状態でゆらりと揺れた。

 若く見えるなあ、と瑠奈はハントの表情に見入った。プロフィールによれば四十代の半ばのはずだが、三十歳と いっても通用するだろう。医療が進んだお陰で誰もが若々しい外見を保っていたが、年齢は眼に出るもので精神的にくたびれてしまうとやはり老けてみえる のだった。

「もっともな疑問ですが、動いているかどうかというのは相対的なもので、たとえばいま私とあなたは向き合って 座っていますが、われわれは動いているのでしょうか。二人の間に限れば、静止していますよね。でも、地上の人がわれわれを見れば、毎秒何キロという速 度で移動しているわけです。ちょっと難しい考え方ですが、等速直線運動では空間に対して変化しているとはいえないのです。速度を変えるとき、つまり加 速したり減速したりするときにだけ空間の粘りが作用するのです」

「あ、いま等速直線運動っておっしゃいましたね。わたし、以前から不思議に思っていたんですが、衛星軌道って、 直線運動じゃないですよね。それなのにどうして遠心力を感じないんでしょう」

 ハントは、慣性制御とは関係ない質問にも丁寧に答えた。

「えー、そうだな、どの考え方で説明しましょうか…。衛星軌道は重力と遠心力が釣り合った状態だと考えればいい んですが、重力というのは質量を持つ物全てに働く力なので、宇宙船はもちろん、中に乗っている人間や装置など全ての物質が遠心力と重力に引っ張られて 宙釣りになっているわけです。もし特定の物体に重力が働かないとすれば、衛星軌道上でも遠心力で外側に飛び出そうとするでしょう。別の考え方をすれ ば、真空状態でただ落ちているとも考えられます。自由落下状態ですね。自由落下では無重量状態になるのはわかりますか? そうです。支える物がないか らふわふわ浮いてしまうわけですが、衛星軌道にある物体というのは、実はただ落ちているだけなんです。ただし、放り投げたボールのように放物線を描い ていて、前へ進みながら落ちている、と。投げる速度が速いほど遠くまで飛びますが、その初速を充分な早さにすると地面に落ちる前に投げた所に戻ってく ることになります。するといつまでたっても地面に落ちることなく地球の周りを回り続けることになるのです」

 判ってもらえたかな、とハントは瑠奈の顔を覗き込んだ。彼女は大丈夫です、と軽く頷いて、

「すいません。話を横道にそらしちゃって。では、このタイタンではどんな実験をなさるんですか?」と軌道を戻し た。

 実験船タイタンは全長一.五キロもの大きさを誇るが、そのほとんどは鋼管を組み合わせた骨組みで、船首の居住 区と船尾の主エンジン以外にはウェイトを積んでいるだけだ。従来の慣性制御装置ではこれほどの大型船を十分な出力のフィールドで覆うことが出来ず、ま たあまり複雑な形状にフィールドを変化させることもできなかったので、無駄な空間にまでフィールドを広げざるを得なかった。タイタンは大きさもさるこ とながら、縦横一.五キロ×五〇〇メートルの船体には様々な突起や凹凸があって、その形状に合わせて慣性制御フィールドを発生させることを目標にして いた。

「まずは手始めに月を一回りしてみようというのが今回の実験です」

 ハントの説明が終わったところで、瑠奈がインタビューを締めくくった。

「トーマス・ハントさんにお話を伺いました。それではより詳しい内容は、月への道中でまたリポートします。次の 内容更新は日本時間の十月二十日午後六時ごろです。またアクセスしてね」

 そして、テーブルに置いた3Dレコーダーのスイッチを切って立ち上がった。

「ハントさん、どうもありがとうございました。お忙しいところ時間を割いてもらって」

「おっと、トムと呼んで下さい。メディアで紹介してもらうことで予算増額にも繋がりますからね。僕で良ければど んどん取材して下さい。…それにこの船は定員が少ないものでメディア関係の方は一人しか同乗できなかったんですが、抽選であなたに決まって良かった。 美しい女性と一緒ならきっと実験もうまくいきます」

 あら、調子のいいこと、とちょっとだけ肩をすくめた瑠奈だったが、この手の男は大嫌いといってもいいぐらい だ。これから先が思いやられる。

 ハントは瑠奈の3Dレコーダーをすっと掴み上げると、通信係に渡してルナネットマガジンにアップするように指 示した。

 戸惑う瑠奈に、ハントは笑顔でウィンクして見せた。

「いいんですよ。レコーダーに設定は入ってるんでしょ。タレントは技術の仕事はしないって聞きましたが、定員が 少なくて技術さんが乗れなくなったのは僕の責任ですからね」

 タイタンには瑠奈も含めて七人しか乗っていない。実験から得られる膨大なデータは地球に転送され、その分析は 地上班が行うのでタイタンに大人数で乗り込む必要はない。

「リーダー、緊急通信が入っています。スクリーンに出します」

 通信係がそう言うと、正面の窓が不透明になって地上の管制官が映った。

「地球よりタイタンへ。ヴィドラとイーターに警戒せよ。数日来地球に接近しつつあったヴィドラとイーターが衝突 コースで地球に向かっている。こちらのレーダーでも捉えられたが、このままではあと三十秒ほどで奴らは太平洋上空の大気圏に突入する。奴らの速度は秒 速一〇〇〇キロ前後だ。君たちに衝突することはないだろうが、タイタンが太平洋上空にいる間に奴らも来ることになる。ヴィドラの光線が飛んでくること も考えられるから、十分に警戒したまえ」

 瑠奈は平田の顔を思い浮かべた。

 さんちゃん、ずいぶん心配していたけど、わたしだってヴィドラやイーターをこの目で見てみたいわ。衝突するこ とはなさそうだっていうけど、近くに来てくれないかなあ。でも秒速一〇〇〇キロじゃ一瞬かあ。

 ハントは忙しく動き回っていた。IC担当に励起が間に合うかを確かめ、レーダー係にヴィドラとイーターの動向 を探るように指示している。

「リーダー、慣性制御は間に合いませんね。しばらく前から作業は始めているんですが、なにしろタイタンはでかい ですからね」

「イーターはまっすぐ地球を目指しているようです。それをヴィドラが追っているんです。このコースならタイタン に危険はないでしょう」

 報告を聞いて安心したのか、ハントは瑠奈に声を掛けた。

「この船は、マックスウェル号ほどの撮影設備がないので、きっとヴィドラやイーターの姿を撮影することは出来な いでしょうね。それが出来れば、あなたのネットマガジンにも記事が増えることになるんですが」

 その時、レーダー係が「あっ」と声を上げた。

「イーターが転進しました。減速しながら、…こちらに向かってきます」

 タイタンの周りには同乗できなかったメディアの取材船が数隻飛び回っていたが、それらによるネット生放送をモ ニターに出すと、どの放送もタイタンそっちのけで、興奮したリポーターがヴィドラとイーターの動きを伝えていた。映像にはヴィドラとイーターの姿が分 割画面で捉えられている。ヴィドラはイーターの急激な減速と転進に付いていけなかったらしく、激しく主エンジンで減速しながら胴体側面の小型ロケット を噴射して方向を調整していた。

 イーターはタイタンの真上、十キロほどのところでタイタンの速度に合わせた。行き過ぎたヴィドラは地球方向に 深く入り込んでいる。地球に対して背面飛行をする形になっているタイタンの窓からヴィドラの噴射ガスの光が見えた。

「これはまずい。全員退避だ」

 ハントは、そう叫んで瑠奈の元に飛んでくると、

「脱出カプセルに入りましょう」と手を引いた。あとの実験員たちは窓際近くの操作卓でシステムの終了作業などを 行っている。

 瑠奈とハントが操縦室から通路に出たとき、背後から熱風に突き飛ばされた。ハントが彼女を抱きかかえて体を丸 め、隔壁に頭を打たないようにしてくれたが、回転する視界に、焼けただれた操縦室が一瞬だけ見えた。

 

「私はね、イーターは地球起源の生物じゃないかと思うんですよ」

 斉藤が得意げに話している。MMCの朝のテレビショーにマックスウェル号のクルーたちが呼ばれて、この十日ほ どしゃべり続けている話を繰り返しているのだ。

「それはどうしてですか?」

 司会の女性タレントは斉藤の答えを知っているくせに、初耳の振りをして問いかけた。

「見て下さい」と斉藤は目の前に置かれたイーターの模型を持ち上げた。

「生物学者に聞くまでもなく、イーターは我々がよく知っている生き物の特徴をたくさん持っています。四本の脚、 尻尾、頭がありそこには口と眼がある。眼も二つですね。地球の生物と全く関係なくして、これほどの類似が生じるとは考えにくいということですよ」

 ここで平田が口を挟むのがお約束になっている。

「でもね、斉藤さん。地球の生き物は岩石で出来てないし、あんなに馬鹿でかい物もありませんよ」

「そりゃそうだ。がははははははは」

 今回のテレビショーには、斉藤と平田にあとはマックスウェル号副長の桜井と太田摩湖が来ているだけだ。あとの メンバーは、本業が忙しかったり他局の番組に引っ張られたりしている。

「ヴィドラについては、どうお考えですか」

 という司会の問いに桜井が軽く手を挙げた。

「見た目はイーターよりはるかに異質なんですが、宇宙船乗りとしては、ヴィドラの方が理解しやすいですな。奴は ちゃんと反動推進で移動している。そのエネルギー源は計り知れないですが、我々の知っている物理法則に従って運動していますからね」

 一同がそれぞれに頷いた。

「イーターがどうやって動いているのか、どなたかご意見ありませんか」

 司会者が見回した。誰も口を開かないのを見て取って、太田摩湖が間を埋めようとしてくれた。

「あたくしは科学的なことはあまりよく存じ上げませんけど、テレなんとかっていう超能力の一種だとおっしゃって る人もいるようですわね」

「超能力ですか…」

 司会の女性がきょとんとしているので、平田が付け加えた。

「超能力なんて言っちゃうと、ちょっと胡散臭いですが、多分、まだ我々が発見していないエネルギーというか、力 があるんじゃないですかね。それをイーターは利用している、と」

「そうですなあ。ヴィドラの方が、たくさん観察できたせいもありますが、いろいろ判っていることが多いようで す」

 斉藤は、今度はヴィドラの模型を手にして説明を始めた。

「通称首といわれている十二本のチューブですが、やはりこの先端は頭と言っていいんじゃないですかね。脳味噌が 入っているかどうかはわからんですが、この三日月型の膨らみは感覚器官でしょう。その隣にある小さな発光体が光を発して、反射光を〝見る〟んでしょ う。シフ号やマックスウェル号に浴びせたフラッシュライトは、対象をよく見ようとした結果じゃないかと思われるんです。さらに金星大気を吸引していた 穴は口と考えるのが妥当じゃないですかね。嘴状に尖っているので、武器かもしれんですが。実際、この嘴を使って、イーターの背中に突き刺さりましたか らな。それと、もう一つわかっていることが…」

 斉藤が得意のフレーズをぶちかまそうとすると、司会者が血相を変えて遮った。ディレクターからなにか指示が出 たらしい。

「ちょっと待って下さい。このあと慣性制御実験船タイタンの出航の模様をお伝えする予定でしたが、タイタンに非 常事態が起こったようです。現場からの映像に切り替えます」

 タイタン! 平田の頭の中がぐるぐる回った。非常事態って何だ。事故でも起こったのか。瑠奈は大丈夫なのか。

 ついさっき聞いたばかりの、今朝平田宛に発信された瑠奈からのメールが思い出される。「無事タイタンに乗り込 みました。ほんとに大きい船です。でも、居住区は狭苦しいらしくて、あ、これは客船と比べての話ね。マックスウェル号並みの広さはあるらしいから、月 に行って帰るぐらいならぜんぜん問題なし……」

 出演者の前に置かれたモニタースクリーンにも、タイタン取材に飛んでいる放送宇宙船からの映像が流れてきた。

 画面の上から太陽光が照らし、下から地球光が当たって巨大宇宙船タイタンがその平べったい全体像を見せてい た。しかし、タイタンの上に山並みが連なっている。強い太陽の光で灰色に見えるいびつな岩塊はタイタンの全長より少し短いようだ。

 取材船に乗り組んでいるリポーターが絶叫していた。

「ああっ。いま、イーターがタイタンに取りつきました。ヴィドラがこちらに向かって上昇しています。タイタンの 乗員の安否が気遣われます」

 タイタンの下側があちこちで火花を散らした。ヴィドラの光線が当たっているらしい。

 平田は、モニターを凝視して固く拳を握りしめた。肩がぶるぶると震える。

 イーターの奴、タイタンを盾にしやがった。くそ、くそ、くそ。

 斉藤が平田の肩を叩いた。平田は微動だにしない。

「おい、平田。イーターってあんなんだったか。ずいぶん痩せてねえか。俺たちが見たときは、もっと背中が盛り上 がってたろう」

「え?」呆然として顔を向ける平田に、斉藤は軽く舌打ちをして「ぼけっとすんじゃねえ」と呟き、腕にはめたコ ミュニケーターを操作した。

「あー、もしもし。斉藤です。タイタンのニュース見てますか? はいはい。え?」

 斉藤は上司のプロデューサーに電話したのだが、話の途中で事態が動いた。

 モニターには真上から見たタイタンと地球が映っている。リポーターが状況を説明した。

「タイタンが、いや、イーターが急激に高度を下げ始めました。このまま大気圏に突入するのでしょうか。先ほどか らタイタンとの通信は途絶えたままです。我々も出来うる限りの速度でイーターを追いかけますが、耐熱の限界とヴィドラからの攻撃を避けなければならな いので、どこまでお伝えできるかわかりません」

 それを聞いて斉藤は、電話の向こうと激しくやりとりし始めた。

「そうです。…そんなこたあ、わかりませんよ。でも、準備しなきゃいかんでしょ。やりますよ。やらせてもらいま す!」

 コミュニケーターを切った斉藤は、すっくと立ち上がった。

「行くぞ、平田」

 斉藤に引きずられるようにスタジオを出たものの、平田はタイタンがどうなったか気になってしょうがない。

「斉藤さん、どこへ行くんですか」

「馬鹿。仕事だよ、し・ご・と」

 二人がMMC社屋屋上のヘリポートに着くと、格納庫から一機の取材ヘリが引っぱり出されているところだった。 その牽引車を運転しているのは中沢だった。

「あ、どうも斉藤さん。機材の準備は出来てますよ。よお、平田、俺も一緒に行くぜ」

 中沢はすっかり張り切っている。ヘリの扉が開いていて中で黒田が作業しているのが見えた。

「よ、文も来れんのか。いいねえ。カメラ以外はベストメンバーだね」

 そう言って斉藤がヘリに乗り込むと、黒田はおもしろくなさそうに調整卓のスイッチをいじりながら、

「プロデューサー命令だから行かないわけに行かないでしょ」と気のない返事をする。

「ちぇっ。いつもの調子に戻ってやんの。金星じゃもうちょっとやる気あっただろ。…プロデューサー命令…、そう かちゃんと考えてくれてんじゃねえか。…おい、平田。いつまでそこに突っ立ってるんだ。早く乗れよ」

 斉藤が促し、牽引車を車庫に入れてきた中沢に押し込まれるように平田もヘリコプターに乗り込んだ。

 専属のパイロットが斉藤の指示を受けてヘリを東の空に飛び立たせた。MMC本社ビルがどんどん小さくなって、 都心のビル群の中に飲み込まれていく。

 取材ヘリには外部を撮影する複数のカメラと簡単な編集機材、中継衛星への送出アンテナなどが備えられており、 テレビとネットへの生放送に対応できる設備が整っている。もし、イーターが地球に降りてきたら、その様子をなんとか撮影しようというのが斉藤の考えで ある。

 ヘリに装備されている放送モニターには、イーターとタイタンを追いかけている放送宇宙船からのリポートが映っ ていた。

「これまでのスピードに比べると、極めてゆっくり落ち始めました。イーターはどうやって速度を調節しているので しょうか。そして、イーターは大気圏に高速で突入すると激しい熱にさらされることを知っているのでしょうか」

 平田はタイタンの様子だけが知りたくてモニターにかじりついた。どうやらイーターはタイタンのカウルを破り鋼 管フレームに四肢を食い込ませてしがみついているらしい。そして、周りを飛びながら光線を浴びせてくるヴィドラに対して、くるりくるりと回転して常に タイタンがヴィドラと自分の間にはいるように向きを変えている。確かに、タイタンを盾にしているのだ。

 タイタンの背面は、かなりの面積に渡って表面が焼けて穴が開いたり、熱で歪んだりしている。そこにさらに光線 が当たって、まばゆい光とともに被害が増えていくようすが見える。先端の操縦室の辺りは真っ黒に焦げているようだ。

 平田は、すべてを打ち消すように激しく頭を振った。彼の脳裏に、バーニー服部が溶岩に飲み込まれた時の映像が しつこく浮かんでは消える。

 あれで、バーニーさんは、死んだ。こんなことになって、瑠奈は生きていられるのか?

「おい、平田よ。カメラのチェックとかやれよ。いま斉藤さんが情報収集してるから、もうじきスタッフ打ち合わせ だぜ」

 中沢が平田の背中をどついた。その様子を斉藤が見ていない振りをして見ている。

「中沢…」

 平田は迷ったが、自分がまともではいられないのは判っているので、友人には知っておいてもらうことにした。

「タイタンに、瑠奈が、乗ってる」

 中沢は、「うっ」と息を漏らして固まった。取材ヘリのメンバーでは中沢だけが瑠奈と平田のつきあいを知ってい る。

「斉藤さんは知ってるのか」

 中沢の問いに平田は黙って首を傾げた。もし、斉藤Dがタイタンの実験にそれなりの興味を抱いていたなら、瑠奈 がメディア関係者として唯一人の搭乗者であることを知っていただろうが、地球に帰還してからヴィドラとイーターのことばかり考えている風でもあるので なんともいえないところだ。

 中沢は放送モニター前に平田を残して、機首寄りの座席へ移動した。

 操縦席の後ろで斉藤がコミュニケーターを相手にメディア各社の対応やイーターとヴィドラの動きを調べていた が、そこへ中沢がやってきた。

「斉藤さん、知ってますか。タイタンにはルナが乗ってるそうですよ」

 斉藤は、うるせえな、という顔で中沢を睨んだが、すぐに顔色を変えた。

「ルナ? タレントのルナか」

 中沢が激しく頷く。斉藤は泣き笑いのような表情をぴくぴくとひきつらせた。

「社長の娘の松田瑠奈が乗ってるってか。ちきしょー」なにが「ちきしょー」なのか。

 斉藤の虫の良い考えによれば、地球に降りてきたイーターの姿を捉え、かつ社長令嬢である瑠奈の救出もやっての ければ、社会的にも社内的にも大手柄ということになる。

「やるぞお」「やりましょう」と手を取り合って興奮する斉藤と中沢を横目で見ながら、平田は深い溜息をついた。

 中沢の奴、俺の気持ちなんかなんにもわかってないな。手柄、か。そんな問題じゃないんだよ。瑠奈の身に危険が 降りかかっているんだよっ。待てよ。動機はともかく、瑠奈を救出する話じゃないか。そして、俺はここにいる。何も出来ないというわけじゃない。何が出 来るかわからないが、何か出来るはずだ!

 ヘリは曇天の下をひたすら東に向けて飛び続けた。

 

 イーターはタイタンを抱えたまま北緯二十九度、東経一六九度の海上に降下した。そこは東京から東へおよそ二八 〇〇キロの太平洋上である。イーターは着水することなく、高度を数百メートルにとって西進し始めた。追いすがるヴィドラもイーターの上に下に、前に後 ろにと回り込んで光線を撃ちまくった。

 大気圏に入ってからイーターの速度はかなり遅くなっていたが、その巨体が巻き起こす乱気流によってヴィドラも あまり近づくことが出来ないようだった。さらにヴィドラの攻撃を避けるためにタイタンを盾にして振り回すので、その都度激しい乱流が起こってヴィドラ の体勢は乱された。

 軌道上からあとを追ってきた放送宇宙船たちは、何キロも距離をとって見守ることしかできない。

 平田の乗る取材ヘリでは一同がもどかしい思いで放送を見守っていた。イーターは時速四〇〇キロほどでこちらに 向かっており、ヘリは時速三〇〇キロで現場に向かっているというのに、まだ二〇〇〇キロも離れているのだ。

 放送でリポーターが告げている。

「イーターが水平飛行に移ってから一時間ほど経とうとしています。ヴィドラの執拗な攻撃で、タイタンの表面を 覆っていたカウルはほとんど剥がれてしまいました。先ほど国際レスキュー隊が向かっているという情報が入りましたが、到着にはいましばらく時間が掛か りそうです。…ここ、日本から二〇〇〇キロあまり離れた太平洋上はよく晴れ渡っておりますが、海上は激しい波が荒れ狂っています。上空の怪物が巻き起 こす風によって海面が乱されている模様です」

 画面にはイーターと平行して飛ぶ取材船が捉えた映像が映っている。かまぼこ板にトカゲが張り付いているように も見えるが、その大きさは一キロを超えるのである。骨組みを露わにしたタイタンは、ときどき内部で火花を散らしている。電気系にも損傷があって当然だ ろう。

 ヴィドラは明るい日差しに全身を銀色に輝かせて、狂ったように飛び回っていた。主エンジンから白く光る噴射ガ スを噴き出して、胴体の小型ロケットの力で方向を変えながらイーターの背中に回り込もうとしている。乱れ動く首は後方を向くものや上下に開くものに混 じって、常にイーターを向いているものがある。その光線の数発に一回は、イーターの表面をかすっている。

「平田、よく見ろよ。やっぱりイーターの奴痩せてるだろ」

 斉藤は画面の中でロールしているイーターを指さした。確かに全長は変わらないようだが、胴体の太さが細くなっ ているようだ。

「え? はあ」

 要領を得ない平田を押しのけるように中沢がしゃしゃり出てきた。

「そうっすね。マックスウェル号が送ってきた映像は何度も見ましたが、あのときはもっと太かったですよ」

「そうだろ、中沢。やっぱ演出部の人間は違うねえ」と言いながら、斉藤は平田の頭をぱしっと叩いた。

「斉藤さん、気が付かなかったんですか」

 黒田文が斉藤と中沢を馬鹿にするように横目で見た。

「イーターの表面て、どう見ても岩石でしょう。金星近傍でもイーターが激しく動いたときは少しづつ剥がれ落ちて たじゃないですか。あれは岩を着てるんでしょ。この何日かヴィドラから攻撃されてたんだから、たくさん剥がれたんでしょ」

 斉藤は「えーっ」と口だけ開けてから、あはははははと笑った。

「岩を着てるってか。文ちゃんよ、面白いこと考えるねえ。岩の服ってどうやって作るの?どうやって袖通すの。馬 鹿言うな」

 斉藤が、なあ、と中沢に視線を送ると、

「あ、おれ、黒田の姉御に一票入れます。まさか全部岩で出来た生き物なんてないでしょう」

 演出部の若手はあっさり上司を裏切った。

「ん。あっ」

 ずーっと画面を注視していた平田が声を上げた。後の三人がモニターを見ると、カメラはぐーっと引いており、タ イタンはフレームの三分の一を占めるだけだ。そして、ヴィドラの姿がない。と思ったとき、カメラが切り替わった。どうやら上空を向いたカメラらしく、 画面一杯に真っ青な空が映っており、中央にヴィドラがいた。首をぴんと上に向けてまっすぐ上昇しているらしい。

「ついにヴィドラは攻撃を諦めたのでしょうか。大爆発を起こしたかのような激しいロケット噴射とともに垂直に上 昇していきました」

 リポーターのコメントに合わせて、ヴィドラがイーターから離れる瞬間がスローモーションで再生された。

 決して安心できる状況ではなかったが、ヴィドラが去ったことで光線攻撃はなくなった。いまレスキュー隊が来て くれれば、空中からでも乗員を救助することができるはずだ。という平田の祈りを打ち砕くような出来事が起こった。

 イーターはタイタンを下にして飛んでいたが、両者の間隔がすーっと開いてきた。

 タイタンはイーターから離れて落ちている。イーターがタイタンを離したのだ。

「あ、ち、え、なんてことすんだっ」

 混乱した平田の叫びも虚しく、タイタンの機体は海面に叩きつけられた。ゆっくり落ちていったように見えるが、 それはタイタンのサイズが大きすぎるからであり、空気抵抗をいっぱいに受ける方向であるとはいえ、ウェイトまで積んで重くしている機体は少なく見積 もっても時速一〇〇キロには到達しているだろう。

 着水した瞬間は形を保っているように見えたタイタンだったが、その衝撃はフレームをばらばらにしていた。円形 に広がる大きな波の中心で、粉々になった巨大実験船タイタンは海中に没していった。

「あ、あ、ああ」

 めまいに襲われて平田が後ろにひっくり返ろうとするのを中沢が支えた。中沢は何も言わなかった。

 斉藤のコミュニケーターにプロデューサーから連絡が入った。ここまでイーターを追いかけてきた取材船はタイタ ン落下の現場に着水させ、間もなく到着するレスキュー隊の作業を引き続き放送する。斉藤たちはイーターを迎え撃って、その映像を送れということだっ た。

「なんでおれたちがタイタンの所に行っちゃいけないんですか。機動性は取材宇宙船のほうが上でしょう。こっちに は慣性制御装置も付いてないんですよ。移動してるイーターを追うんだったらあっちを使えばいいんだ。このヘリは着水できるんだから、いま宇宙船がやっ てることはこっちで出来るんだ。イーターなんかどうでもいい!」

 わめき散らす平田を斉藤は怒鳴りつけた。

「うるせえな。このヘリじゃ、レスキューの到着に間に合わねえんだよ。レスキューがロケットで飛んでくるの知ら ねえのか。MMCだけがタイタンとイーターの両方を押さえる布陣が出来てんの。ぎゃーぎゃー言うな」

 そして、中沢を見て「どうなってんだ」と首を傾げた。

「あー、斉藤さん。タイタンに平田の、知り合いが乗ってたらしいんですよ」

 中沢が遠慮がちにそう言うと、斉藤は眉を寄せ鼻から息を抜いて、

「それを早く言えよ」と囁いて平田の肩に手を置いた。

 タイタンを離したイーターは荷重が軽くなったためか、スピードを上げてさらに西へ突き進んだ。このままでは日 本列島のどこかに到達する見込みである。

 平田たちのヘリがイーターに出会う前に、タイタン墜落現場には国際レスキュー隊のロケットが数機到着した。こ の組織は世界企業であるパナール自動車が社会還元事業として結成したもので、宇宙・空中・海上・海中など特殊な環境下での事故や災害が専門である。世 界にはそのほかにも各企業の社会還元活動として様々な救助隊や消防隊が存在する。

 レスキューロケットのカーゴコンテナから潜水艇が発進して、海中に潜っていく様子まで放送されたとき、取材ヘ リのレーダーにイーターの姿が映し出された。

 テレビではタイタン墜落現場からの放送が続いているが、ネットには斉藤班によるイーターリポートも流すことに なった。

「これまでは衛星レーダーからの情報でイーターの位置を調べていましたが、ついにこの取材ヘリのレーダーにイー ターが映ってきました。あと数分でその姿をお見せできることでしょう。他社では、タイタンの現場に取材船を残さずにイーターを追いかけているところも あるようですが、タイタンとイーターを同時に見られるのは、このMMCニュースサイトだけ! お届けするのは金星にも行ってきた、この斉藤浩二であり ます」

 平田は2Dカメラの操作を担当しているが、まったく上の空である。タイタンの乗員救出のことしか頭にない。

 ヘリはイーターの正面から接近していたが、横へ回り込むように旋回してその後ろについた。そこで温存していた ジェットエンジンに点火して速度を増すと、ローターの回転を止めた。これからは固定されたローターが飛行機における翼の役割を果たすのだ。これで通常 のヘリコプターでは不可能な速度を出せるというわけだ。

 イーターは時速六〇〇キロもの速度を出しているので、やはり後方への乱気流が激しく、真後ろにはつけない。ヘ リは高度をとって、まずは上空からの映像を捉え、それから前に回ったり左右に回ったりしてみた。二機残っている他社の取材ロケットは、イーターの左右 で距離をとっていた。

 大サンショウウオ型の巨大な岩の塊は、火山島が空を飛んでいるように見える。あの子ヴィドラをばくばく食べた 大口は今は閉じられていた。口の上に左右に並んでクレーターのように窪んだ部分があり、その中心に黒く光る瞳のようなものがあった。

 イーターはヘリやロケットを全く気にすることなく飛び続けた。

「ヒラちゃん、しっかりしてよ」

 黒田に小突かれて平田は我に帰った。前方に陸地が見えてきたので、そちらへカメラを向けろという指示が出たの に、彼は下向きのカメラでイーターの背中を漫然と撮っていたのだ。前方カメラの調整はすでに黒田が済ませていた。

「みなさん、とうとう日本の上空に突入しそうです。いま、前方に見えているのは犬吠埼です。時刻は十六時を回ろ うとしています」

 マイクに向かって喋り続ける斉藤の横で、中沢がコミュニケーターを操作している。これからの動きを局と打ち合 わせているのだろう。

 午前中は雲に覆われていた関東地方だが、西の空には晴れ間が多くなっている。傾いた太陽が雲の切れ目から顔を 出してキャノピー越しに照りつけてきた。薄暗かった機内にオレンジ色の光が満ちた。

 イーターは高度を落とし始めた。それに伴って速度も落ちているようだ。

 ぶるるるるるるる、ぶるるるるるるる、と辺りの空気が振動した。ぎりぎり音になるかならないかの低周波であ る。イーターが首を振っている。喘ぐように口を開けたり閉めたりしている。

 鳴いている。直感的に平田はそう思った。

 イーターは空気を震わせながら、房総半島の付け根に飛び出した犬吠埼に向かって落ちていった。上空から斜めに 落下したイーターは、文化財として保存されていた犬吠埼灯台を引っかけて破壊し、愛宕山北部の住宅街を押しつぶして着地した。その、雷鳴を何百倍にも したような轟音は上空のヘリにも十分すぎるほど伝わった。地面が爆発したような砂塵が舞い上がって、直接イーターに潰されなかった建物も衝撃波で粉々 になったようだ。ほどなくイーターの周囲から火の手が上がり始めた。どうやらイーター落下の衝撃で、消火装置が麻痺しているらしい。

「住民は? 避難は出来たのか? 中沢、調べろ。連絡を取れっ」

 斉藤ががなるまでもなく、中沢は情報収集に当たっていた。

「だめです。避難勧告を出そうという案はあったらしいですが、まさかイーターが落ちるとは、誰も考えなかったら しくて…」

 たとえイーターが着地することが判っていたとしても、どこに降りるのかなど誰にも判らないことである。また、 どれだけの人々をどこに避難させればいいというのか。

 近隣の街から消防隊の消火ヘリが殺到してきた。消火ヘリは火災現場に消火弾を投下して延焼を防ぎ、被害は最小 限に押さえられたといえるだろう。また地上の救助隊も瓦礫に埋まった被災者を次々と救出してはいる。しかし、その最少の被害が数千人の死であることも 事実であった。

 夕日を浴びたイーターは、眠ったように動きを止めていた。

 

   4.補給

 

「興味本位もほどがある! あなたがたは銚子の町の人が死ぬところを得意になって放送していたんですよ。なんで も見せればいいというものではありません」

「イーターやヴィドラというのは宇宙の驚異であると同時に、人類にとって脅威だと思うんです。たとえ彼らが人類 に敵意を抱いていないとしても、その大きさと破壊力でこれからも被害は増えるでしょう。その事実を見せてくれたことは評価できると思います。でもやっ ぱり町が下敷きになった瞬間はショックでした」

「潜水艇がタイタンの操縦室を発見したところで映像が途切れたのはどういうことですか。いまのところ生存者は見 つかっていないようですが、生存者救出の感動シーンは是非見せて下さい」

「私が言ったとおりになりましたね。人類が金星を犯したために怪物が襲ってきたのです。マツカゼグループは懺悔 しなさい」

 MMCに寄せられた公開メッセージより。

 

 ヴィドラは軌道上を周回していた。その位置は地上からレーダーで監視されていたが、もし再び地上に降下してき たとしても人類に為すすべはなかった。

 イーターの周囲からは順調に住民が避難していた。警察の誘導は的確で、混乱は起こっていない。しかし、安全が 確保された場所があるわけではなく、ただイーターが見えないところへ移動させているだけである。

 平田たち、MMCのイーター取材班はイーターから二~三キロ離れた銚子の市街地にヘリを降ろして待機してい た。そこへ夜になって交代要員がやってきた。斉藤、中沢、黒田は現場に残ったままで休息をとることにしたが、平田は現場から離れることを選んだ。

「だめだったら、このまま休暇を取ってもいいぞ。撮影部のチーフには俺から話をつけといてやる」

 タイタンからまだ生存者が見つかっていないという情報はイーター班にも伝わっていたので、斉藤は多くを聞くこ となく平田の希望を認めてやった。

 平田は交代クルーが乗ってきたヘリコプターで銚子をあとにした。

 地上の道路には避難民を乗せたバスやトラックの明かりが列をなし、空中にも輸送ヘリが飛び交っている。あの中 には家族や友人を失った人々も乗っているのだろうか。

 これか。これだったんだ。平田は拳を握りしめた。

 俺はなんて無神経だったんだ。身近な人を失ったとき、冷静でいられるわけがない。服部さんに死なれて、グラ号 のみんなが取り乱したのは当然だ。

 しかし、瑠奈が死んだと決まったわけじゃない。タイタンから全員の遺体が見つかったわけじゃない。

 放送はされなかったが、タイタンの操縦室からは何体かの焼死体が発見されていた。メディア各社の不文律で残酷 な映像は流さないという規制があり、基本的に死体をメディアが見せることはない。今回もレスキュー隊員の報告から操縦室に遺体があることを知った各社 は自主規制で映像をカットしたのだ。

 平田は腕にはめたコミュニケーターで瑠奈のネットマガジンにアクセスしてみた。画面が空中像となって目の前に 浮かび上がる。

「ルナネットマガジンにようこそ。やっと木星から帰ってきました。木星にはプライベートで行ったんだけど、その ときの様子もちょっとだけアップしてあります。ここから先は情報料がかかるので注意してね。目安は一ギガ、十銭です。よそより安いわよ。じゃ、メ ニューを出しますね」

 輝くような笑顔の瑠奈が目の前でしゃべっている。昨日の朝まで一緒にいたのに、ひどく懐かしい。そして、いた たまれない。

 なんだなんだ。まるで瑠奈が死んでしまったように考えているじゃないか。冗談じゃない。そんなわけあるか。

 平田はコミュニケーターを切って目を閉じた。

 MMC本社に到着した彼は、撮影部の部屋にも寄らずに表へ出た。秋の夜風が冷たく肌を刺した。社員通用口の前 には通勤用のタクシーが何台か列を作っている。先頭のタクシーが平田の姿を見つけてドアを開けた。

「平田さん、お帰りですか?」

 タクシーが声を掛けてきた。MMC専属タクシーなので社員のデータが入っている。

 乗ろうか乗るまいか一瞬逡巡したが、

「ああ。今日の仕事は終わりだ」と答えて車内へ乗り込んだ。

 ぶーんというモーターのかすかな唸りを上げてタクシーは走り出した。窓の外では暗闇に林立する高層建築群が冷 たい光を放っている。道は空いていた。かつては自動車を人間が運転していたことがあり事故や渋滞が絶えなかったが、機械制御技術と人工知能が発達する ことで今は本当の意味での自動車になっている。

「あ。行き先を変えてくれ」

 タクシーは平田の自宅へ向かっていたが、彼はまっすぐ帰る気になれなかった。

「一杯やるんですか? それじゃ、どちらにまわりましょうか…」

「いや、飲むんじゃない」

 タクシーの人工知能はこれまでの彼の行動パターンから繁華街を目指すものと判断したが、平田は瑠奈のマンショ ンの所番地を告げた。

「わかりました」

 運転手のいないタクシーは、東京の郊外へ向かった。

 マンションのセキュリティーシステムは、平田に対しておとなしくドアを開けた。以前瑠奈が第一近親者登録をし てくれたのだ。

 エレベーターを降りて彼女の部屋の前に立った。

 俺は何をしているんだ。瑠奈の部屋に来てどうするつもりだ。

 平田が自分の気持ちを測りかねて、ドアノブに手をかけたまま固まっていると、ドアの向こうでかすかな物音がし た。くぐもっているが人の声のようだ。それも女性の声だ。

 瑠奈か? 帰っていたのか!

 平田は勢いよくドアを開けた。

 室内には明かりが灯っていた。玄関から奥は見えないが、確かに瑠奈の声が聞こえてきた。

「木星行きではおじいちゃんの面倒を見てました…」

 靴を脱ぐのももどかしく、室内に駆け込んだ平田は居間に突入した。

「あんた誰だ」

「君は何だね」

 そこには背の高い痩せた老人が立っていた。傍らではルナネットマガジンの木星コーナーが再生されていた。画面 の中で、瑠奈がジュピター三世の内部を紹介している。

「こちらが田村船長です…」

 平田と老人は互いに目を剥いて向き合った。

 どこかで見たことのある顔だな。…あ。この人は!

 老人も平田の顔をまじまじと見つめていたが、はたと気が付いたようだ。

「なんで君がここにいるのかね」

「総帥、ですか」

 マツカゼグループ総帥、松田洋平なら瑠奈の部屋に入ることが出来てもおかしくない。瑠奈と祖父は強い信頼関係 にあったようだから、彼女は洋平を信じて第一近親者に指定していたのだろう。

「君は、マックスウェル計画の平田君だな。……そういうことか」

 洋平の表情から険しさがなくなった。それでも平田は棒立ちになったまま何も言えずに目を泳がせていた。

「どうりで、瑠奈がマックスウェル号のことをやたらと気にしていたわけだ。君も瑠奈のことが気になって、どうし ていいかわからずにここに来てしまったんだろう。まあ、そんなに緊張するな。いまはマツカゼグループの代表ではなく、孫娘を心配しているただの爺さん だ。座って話でもしようじゃないか」

 若者と老人は、淡い色合いで統一された女性的なインテリアに囲まれて、ぎこちなく腰を下ろした。平田にとって は慣れた部屋なのだが、瑠奈がいるべき場所に松田洋平氏が座っているというのがどうにも落ち着かない。

「私は、希望を捨ててはいない」

 洋平が、きっぱりと宣言した。平田の気持ちを試しているかのようだ。

「おれ、…僕だって、瑠奈さんが、…瑠奈さんにもしものことがあるなんて考えてないです」

 とは言ったものの、平田が知り得た情報からは最悪の事態しか考えられず、本音の部分ではもうだめだろうと思っ ていた。

「平田君。私は自分を落ち着かせるために希望を口にしているのではないよ。見つかった遺体の身元確認は済んでは いないが、まず瑠奈と思われるものではないことは確かなようだ。それに、脱出カプセルが一つ見つかっていない」

 平田にとってそれは初耳だった。

「えっ。それじゃ、誰かがそのカプセルで脱出出来たってことですか?」

 平田は顔を輝かせて身を乗り出したが、洋平は渋い顔だ。

「それは確認できていない。脱出カプセルは射出されると同時に救難信号を発信するはずなのだが、その電波を捉え たという話がないのだ。それでも可能性はあるということだ」

 たいして希望の持てる話ではない。落下のショックで機体から外れたカプセルが、海流に流されてどこかへ行って しまったということかもしれない。平田の首ががくりと下がった。

「こら、青年」

 洋平は固い声を出した。

「どうしてすぐ悲観的に考えるのだ。可能性が残っていれば、それに賭けろ。信じることで希望は叶うのだ。科学的 な根拠はない。それでも、私の経験からすれば、それは正しい。そのやり方で、マツカゼグループを育ててきたという自信がある。私はパナール自動車に申 し入れて、国際レスキュー隊の捜索延長を頼んだ。追加費用は私が出すということでな。瑠奈は生きている。君がそう信じなくてどうする」

 松田洋平の目には力強い光が宿っていた。それを見て、平田の中にも希望の炎が燃え上がるのがわかった。

「はい。…そうですね。でも、それでは、僕は何をしたらいいんでしょう。出来れば、捜索隊に加わりたい…」

「ふーむ。そう思うのも無理はないが」老人は彼の言葉を遮った。

「素人の君が加わって何が出来る? 潜水艇やレスキューロケットの操縦が出来るのかね。それは、専門家に任せて おきたまえ。君には君のやるべきことがあるだろう」

「はあ」

「君の仲間は、まだイーターに張り付いているのではないかね。君はメディアマンだ。自分の仕事をやるのだ。ヴィ ドラやイーターは、今世紀最大の事件だろう。それを記録しなさい」

 そう言いながら、洋平は、もし瑠奈が無事でなかったらこの青年は潰れてしまうかも知れない。そんなとき、一人 で考え込む暇があってはいけない。仕事を抱えていれば、考える余裕がないほど忙しければ、初めの衝撃で潰されることはないだろう、と考えていた。

「私も自分のやるべきことをやる。明日、世界企業連絡会を召集して、ヴィドラ・イーター対策の役割分担を決めよ うと思う。このまま奴らをのさばらせておいては、これからも悲劇は起こるだろう。人類の一致団結が必要な事態だと考えている」

 洋平の冷静な態度に、平田は自分が恥ずかしくなった。そして、瑠奈の「匂い」が強く残っているこの部屋に座っ ていると、彼女の存在が確かなものとして感じられ、一瞬でも瑠奈が死んでしまったのではないかと考えたことが信じられなくなった。

「総帥が、ヴィドラやイーター対策の音頭をとるんですか?」

「そうだ。総帥などとおだてられているが、結局は閑職だからな。マックスウェル計画の時も、まんまと騙されて、 私の考えとは違うもののために踊らされた。それには君も荷担していたことになるかな。…まあ、いい」うつむく平田に、気にするなと軽く手を振り、

「それでも、各国の大企業のトップには顔が利くから企業協力が必要な公共事業のときには、この松ジジイも結構役 に立つのだよ」と続けた。

「大変な役目ですね。…昔みたいに政府がもっと力を持っていれば、こんな大事件の時はスムーズにことが運ぶんで しょうけど」

 平田が何気なく言った言葉に、洋平は敏感に反応した。

「馬鹿なことを言っちゃいかん。税金などという経済的暴力で資金を集めて、一部の人間が巨大な権力を握ったら、 ヴィドラやイーターとは比べものにならない悲劇が起こるのだ。前世紀の世界大戦も、今世紀初頭の政治腐敗ももとは国家の政府に力が集中していたせい だ。もちろん、大戦からの復興は政府の強力な指導があったからこそ成し得たといえるが、時代は変わったのだ。企業は商品を売るためにそのイメージを大 事にする必要がある。人々の幸せに役立つ企業しか生き残れない。よりよい商品を開発することはもちろんだが、利益をどういう形で社会に還元するのかが 問われるわけだ。ところが、政府という奴は、政権を握る勢力が入れ替わろうが、役所は不変だ。絶対に潰れることがない。それでは権力にあぐらをかくな と言う方が無理というものだよ。政治家や役人に金を持たせてはいかん。立法と司法だけやっていればいいのだ」

 いかにも巨大企業グループの代表らしい意見だが、企業の活動や立法司法の実際が、発達したメディアによって民 衆の監視を受けているからこそ何とかうまくいっているのも事実である。企業こそ厳しく監視されなければ、利潤を上げるために何をやらかすかわからない 存在である。もちろん税金もなくなってはいない。警察や裁判所の運営、立法を担う議員の報酬は税金が財源になるしかない。

 老人の長広舌が途切れたとき、ルナネットマガジンに繋がりっぱなしになっていたメディア端末が注意を促すメロ ディーを鳴らした。

 洋平の背後にあるスクリーンにはネットマガジンのメニュー画面が映っていたが、そこに重なって各社のニュース サイトに緊急生中継があることを知らせる文字が踊っていた。

 

 夜十時を過ぎたころ、イーターが動き出した。初めは岩が崩れるような、がらがらという音が周辺に聞こえてきた のだが、警察やマスコミのサーチライトに照らされたイーターの巨体がゆっくり上下するのが確認された。

 仮眠をとっていた斉藤浩二は、夜の放送を担当するスタッフに起こされた。取材ヘリの横に設営された仮設小屋か ら飛び出した斉藤は、南の空に浮かび上がるイーターの背中が波打つようにうごめくのを目にした。岩が擦れ合うぎしぎしという音が何重にも重なって ざーっというホワイトノイズのように聞こえた。

 各メディアは銚子市中心部のはずれにある運動場に、取材ヘリを降ろしたり仮説小屋を建てたりしていたが、その 運動場の南スタンドの向こうで山並みのように見えるイーターの背中が揺れていた。上空を数機のヘリコプターが飛び回っている。MMCの取材ヘリは地上 からその様子を送出しているようだ。

 斉藤がヘリの横に立ってイーターの背中を見上げていると、それがだんだん縮まってきた。横幅が狭くなってくる ように見える。どうやら、いままでこちらに横腹を見せる向きで這いつくばっていたのが、全身を回して縦になっているようだ。

「移動する気か?…」

 斉藤が呟いたとき、ヘリから呼ぶ声がした。黒田と中沢はすでにヘリコプターに乗り込んでいる。

「斉藤さんも乗って下さい。上空から押さえます」

 現在の取材、送出は別班の担当だが、一緒にヘリに乗らないと何かあったとき逃げることが出来ない。

 斉藤たち、昼からイーターを追っているクルーは、仕事の邪魔にならないようにパイロットの後ろにある〝お客さ ん〟シートに座った。

「カンちゃん、3Dセンサーも使えんの?」

 斉藤は夜の部ディレクターに声を掛けた。

「ああ、使えるけど、2Dカメラで手一杯なんだよな」という答えを受けて、斉藤は中沢の肩を叩いた。

「お前、3Dセンサーの調整やれ」

「え? 姉御がいるじゃ…」

「俺は、お前にやれって言ってんの」

 MMC取材班はイーター上空に飛び立った。

 体の向きを変えたイーターは、地上からほんの僅かだけ浮上して西へ向かってゆっくり進み始めた。付近住民の避 難は終わっていなかったが、イーターに近い地区から移動を始めていたので当面人身に危険はないだろう。

 時速四キロほどの速度で進むイーターは、口を大きく開けて下顎を地面に引きずっているようだ。下顎はブルドー ザーのように地表の物をすくい上げて口の中に運んでいる。立木も家も土と一緒にイーターの腹の中に収まっていった。

 斉藤のコミュニケーターにQ太郎から電話がかかってきた。

「斉藤さーん。おひさー。ネットで見てるよ。いまは仕事中じゃないんでしょ。やっぱ、僕のネーミングセンスは抜 群でしょ。まさにイーターじゃない」