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●エッセイ・コンピレー ション企画
ゴジラサイト管理人 ゴジラへの愛、かく語りき

ページ7 ♯2


ghidorah●私と円谷特撮(あるいはゴ ジラ)♯2
3. 青春期(そんな「こじゃれた」もんじゃないですが)

 1979年、晴れて高校生にはなりましたが、SFブームの只中でSFも書きたや、特撮映画も撮りたやで勉強なんかぜんぜんしません。
(そういえば浪人中に、復活したSFマガジンSFコンテストに応募したりしてました。だぁかぁらぁ、受験勉強はどーしたっちゅーの!)

 中学時代からサイクリングにはまっていて、自分で部品をアッセンブルして一台組み立てたりしておりましたので、高校一年の夏には友人と二人 で東北一周ツアーに出かけることにしました。
ミニゴジラ
東北 一周ツアーに連れて行ったゴジラくんがかろうじて写っている写真です。心霊写真みたい。

 その準備でキャンプ用品の買出しに行ったときだったと思いますが、デパートのおもちゃ売り場に立ち寄りました。(なんで!!)
 そこでまたしても珍しいゴジラグッズを発見。
 ミニサイズのゴジラソフビです。身長10センチぐらいだったでしょうか。
 迷わず購入。このゴジラくんにビニール紐をたすき掛けにして、自転車のハンドルポストからぶら下げてツーリングに出かけました。旅の危険か ら守ってくれるお守りのつもりでありました。
 ゴジラと一緒に約1300キロを走破したのはいい思い出です。


 1980年。円谷監督が去ってから丸10年が過ぎました。
 この年の春にドラえもんの劇場版第一弾の併映として『モスラ対ゴジラ』の短縮版が上映されました。
 これまた狂喜した私は、前売り券を買うためにとある商店へ。(プレイガイドなんて小粋なものはなかった。もちろんチケピなんて陰も形もあり ませんよ)
私「モスラ対ゴジラの前売り券ください」
店番のおばちゃん「は?」
私「映画の前売り券ですよ。モスラ対ゴジラ」
おばちゃん「ああ、ドラえもんね」
私「いや、モスラ対ゴジラ」
おばちゃん「え?ドラえもんでしょ」
私「モスラ対ゴジラ」
おばちゃん「ドラえもんならあるけどね」
私「ドラえもんでいいです」(泣)
 そんなこんなで久々に見た『モスラ対ゴジラ』、とてつもなくおもしろかった!
 2年前『三大怪獣~』でなんとなく幻滅したような感想を持ったのがウソのよう。
 いまにして思えば、映画の見方が深まっていたのだと思います。
 きちんとドラマを見るようになり、演出を感じられるようになっていたのではないかと思われます。
(当時は単純に『三大怪獣~』より『モスラ対ゴジラ』のほうが出来がいいんじゃないか、と思った)

 そのころ我が家の8ミリもようやくトーキー化。
 同時録音カメラと磁気トラック録音再生映写機の導入で、まともな劇映画が撮れるようになったと考えた私は、遊び仲間のへんたいクラブ(非公 式サークル)を動員して再び映画制作に乗り出します。
 特撮を使ったものは考えていませんでした。小6のときの失敗を考えて、まずは劇をちゃんと見せようと考えたはずです。
 そんなとき、本屋で「大特撮」(朝日ソノラマ版)を発見しました。それ以前に有文社版があったことは知っていました(8ミリ映画の雑誌「小 型映画」に書評が出ていた)が、値段が高いことと本屋では見かけなかったことで入手にはいたりませんでした。
 しかし、現物を目の前にして、数ページ立ち読みしたら、これはもう読むしかない、買うしかないと結論。一緒にいた友人から借金して2500 円の本を購入。
 1980年当時の高校生にとって2500円というのは結構な大金であります。(うちが貧乏だっただけかな?)

 すでに東宝レコードのサントラLP「ゴジラ」を持っていましたから、伊福部音楽(一部佐藤勝もアリ)を聴きながら「大特撮」を読みふけりま した。
 なんという興奮!文章で再現された名場面の数々。記憶に残る作品やまだ見ぬ作品のハイライトシーンが心のスクリーンに映し出されます。
 見たい!もう一度、そして見たことのない作品をいつか必ず鑑賞したい!
 とくに怪獣映画のパートでは、体に染みついた怪獣魂がうずいてしょうがありませんでした。
 それまで、特撮映像表現の一分野としての怪獣と捉えていたような気がしますが、もっと根源的な怪獣そのものの魅力に薄々ではありますが気が つきはじめたようです。
 戦争映画の特撮シーンを文章で解説してあっても、その映像を見たいなぁ、とは思いますが文章そのもので興奮するまでには至らなかったように 思うのです。
 それが、怪獣映画となるとゴジラの動き、キングギドラの動き、それにともなう破壊を文章で読むだけで作品に触れたような感動を味わってし まったのです。

 また、それまで知らなかった日本特撮映画の歴史を吸収できたことも大きな収穫でした。

 そんなとき、ちょっとした経緯があって、学校のホームルームの時間に私がクラスのみんなを相手に日本特撮映画について講演することになりま した。
 頼りは自分の記憶と「大特撮」。
 このころは戦前の特撮映画に関してはほとんど知りませんでした(『ハワイマレー沖海戦』という作品が戦中に作られたことしか知らなかった) ので、やはり『ゴジラ』から語り始めました。
 円谷特撮作品はかなりの数をそれまでに見ておりましたから、本の受け売りではない解説が出来たと思います。見たことのない作品でも当時の私 が重要だと感じていたものは「大特撮」の評を参考に、こんな作品もあるよと紹介したはずです。
 一回で終わる予定だったのですが、一時限(65分)使っても話は『海底軍艦』まで進んだところ。
 私がいよいよ轟天号がムー帝国の心臓部に突入するくだりを講釈しはじめたときには放課後に突入していました。
 そこで担任の先生が、「まあまあ、それぐらいにしろ」とティーチャーストップ(?)。
 クラスのみんなは続きを聞かせろの大合唱。(本当なんですよ)
 次週後編を講演することになって、2週にわたって日本特撮映画史を語ることになったのでした。

 そのあとでたくさんの級友たちが、「昔見た映画を思い出した」とか「ゴジラが核実験で目覚めた怪獣だったとは知らなかった」という風に感想 を伝えてくれました。
 また、製作に入っていた私の映画のスタッフも「映画制作にかける情熱がわかった。がんばろう」と言ってくれました。
 いまはどうなのか知りませんが、少なくとも当時の高校生は、ちゃんと説明さえしてあげれば怪獣の価値にも気がついてくれました。たとえ、 ファンにまではならないとしても小馬鹿にするような態度は改まったと思います。
 怪獣(特撮)映画と言ったときに、その代表的な作品が円谷英二監督の作品しかなかったことは大きいです。もちろん大映にも優れた作品はあり ましたし、東映・松竹・日活にも特撮映画はあったわけですが一般的な認知度で考えれば円谷作品を例に取るのが一番わかり安かったわけです。
 その円谷作品が堂々たる映画作品であったからこそ、特撮映画はおもしろいのだと主張することも出来たのではないかと思っています。

 さて、この講演が思わぬ副産物を生みます。

 私が通っていた高校は青森県弘前市の学校で、ちょっと変わっていたのは文化祭を7月に開催することでした。そして、前夜祭として各クラスが それぞれオリジナルのねぷたを作って市内を練り歩くのです。
 ちょっと詳しい方なら弘前ねぷたは扇形だと思われるかもしれませんね。
 しかし、私の母校で作るねぷたは、扇形が全盛になる前の組ねぷたという形式で、どちらかというと青森の人形ねぶたに近いものでした。
 針金を組み合わせたワイアフレームで造型して紙を貼るタイプです。
 8月に町をあげて開催するねぷた祭りでは、絵柄のモチーフは三国志だったり戦国武将だったりするわけですが、母校では伝統的に変わりねぷた というか、時事ネタをねぷた化することが奨励されていました。(もちろん、古典に題材をとった正統派のねぷたを作るクラスもありました)
 7月が近づいてきて、私のクラスでもねぷた会議が行われました。
 テーマは何にするのか、と。
 私はダメもとで、
「円谷英二没後10年をテーマにしてはどうか」と提案しました。
 どんな議論が戦わされたかはもう覚えていない(たしか反対意見もあった)のですが、先に行った講演がみんなの意識を変えていたようで、我が クラスでは「円谷英二没後10年ねぷた」を作ることに決定。
 製作総指揮を私が担当することになり、学校に提出する企画書には円谷英二監督の業績を今一度思い起こすために云々とくそまじめなテーマを掲 げたと思います。
 具体的にどういうデザインのねぷたにするのか、というところで、みんなはイメージがわかなかったようですが、私にはすでに腹案がありまし た。
 ゴジラのねぷたにするのです。
 ちょうど春に上映された『モスラ対ゴジラ』の記憶も新しいところで、モスラ対ゴジラねぷたにすることにしました。
 そりゃ、キングギドラを登場させたかった気持ちはもちろんあるのですが、前年のねぷたで龍の頭をつくる役を仲間と一緒に引き受けた私は、資 料写真を漁りまくって完全にキングギドラの顔を作ったのです。
 その大変だったこと。微妙な曲線もちゃんと再現しようとしたら針金をたくさん使うことになり、龍の頭だけで大変な重さになって、本体に接合 するのに支障をきたしたぐらい。
 もし、キングギドラを作ることにすれば、その頭を三つ作らねばならないわけで、マジ無理って感じでした。
ゴジラねぷた
1980 年製作のモスラ対ゴジラねぷた。ああっ、ゴジラの顔がぁぁ。
モスラのほうはかなりいい出来でした。隣の建物との対比が怪獣っぽいでしょ。

 というわけでモスラ対ゴジラねぷたの写真をこのページに掲載してもらうつもりです。
 いま見ても、ゴジラの顔がうまくないのは致命的ですねぇ。
 私は総指揮という立場だったので、特定のパートにつきっきりというわけにもいかず、また期日までに仕上げなければならないので顔に関しては 涙を飲んだのを覚えています。
 それでも、製作途中にほぼ出来上がっていた脚を全部作り直させたのを覚えています。
 だって、あんまりにも貧弱な脚でバランスが悪すぎたのですよ。(ずいぶん反発されましたが・・)
 とはいうものの、おおむねクラスみんなが乗りに乗ってくれて、初めの計画にはなかった放射火炎を吐く仕掛けとか、尻尾を動かす仕掛けなどを 各自工夫して付け加えてくれました。

 運行のときもなかなかの人気でした。
 私はラジカセで伊福部音楽を流しながら、パチンコ屋の店内アナウンスのように盛り上げトーク。
 人垣が多いなと見れば、係りに合図して、
「さあ、みなさん、ゴジラが放射能を吐いてご覧に入れます!」
 ドライアイスにお湯をかけて発生させた蒸気が口の中から放出されて、見物客も拍手喝采大興奮!
 おもしろかったですよ。

 そんな高校ねぷたは、運行が終わったあとで町内会や幼稚園のイベント用に販売されます。(あれ?お金は取らないんだったっけ?)
 出来の良いもの、人気があったものは引き取り手が現れて2次利用されるのですが、毎年誰も引き取ってくれない作品があります。
 ですから、各クラスの製作責任者は引き取ってもらえるかどうかで一喜一憂するわけです。
 学校内での審査もあって、なんとか賞、なんて表彰もされるのですが、賞をとっても2次利用されなければ大衆にアピールしなかったことなので 学校内で解体される我がねぷたを見るのはつらいことでしょう。
 幸い私のクラスのゴジラねぷたはめでたく某幼稚園に引き取られました。
 賞は取れなかったけれど、人気はあったなと安堵しましたが、同時によそのクラスから悪口も聞こえてきました。
「怪獣ねぷたなら幼稚園に引き取られるのも当然だ」「はじめからそれを計算してゴジラにしたんだ」などなど。
 円谷英二没後10年とはっきり掲げてあったのにも関わらず、なんでそういう言われ方をしなければならないか、と激怒しました。
 そこで私は、年度末に発行される学生自治会誌に「ゴジラの弁明」なる一文を寄せたのです。
これは、著者はミニラであり、私が人間の言葉に翻訳したという形式で円谷特撮の価値を訴えようとしたものです。
 ひさびさに読み返してみたら、なかなかおもしろいのでここに採録してみましょう。
 なにせ高校2年生のときに書いたものですので事実誤認もあるように思いますが、すべて原文のままです。

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ゴジラの弁明
                ミニラ

 弘高ねぷたに親父―ゴジラが登場したのは、ただの冗談や子供受けして幼稚園に売ろうなんて考えたわけじゃないし、まして最近映画出演がなく て、食うに困ってたからなんてことは全くない。初め28HRのTという阿呆が出演依頼にきたとき、親父はもうトシだからといって断ったんだ。 (実際、近ごろ放射能光線の勢いも衰えてきてるようだ。)
 二度目にTがきたとき(ラグノオの箱菓子をもってきた。)、奴はモスラがねぷた出演をOKしたと言ってきた。これも親父が出演を決意する一 因となったらしい(Tが帰ったあと親父は「モスラか、長いこと会ってねぇなぁ。」とつぶやいていた。)が、このときはまだ出る気はなかった。 ラグノオのケーキも甘すぎて、裏のアンギラス家にくれてやった。アンギラスは、それをキングギドラにとられたといって泣いていたが、そんなこ とはどうでもいい。
 最後にTは、親父の泣きどころを突いたのだ。あの怪獣全部の生みの親、故円谷英二監督の話を持ち出しやがったんだ。Tは言った。
 「外国では日本の有名な監督の名前を尋ねれば、必ずクロサワとツブラヤという答えが返ってくるのです。実際、日本映画の海外進出を実現させ たのは『ゴジラ』(昭和二十九年)なのですよ。それが現在日本国内では、ゴジラと言えばお子様向けのつまらないものと決めつけられて、仮面ラ イダーやデンジマンと同レベルで語られています。しかし、円谷特撮(特殊撮影)の世界はもっと深いものです。円谷監督が創造した映像には、心 の底辺に触れる何かがあります。これを芸術と呼ばずに何とするのでしょう。(ここでTは両腕を広げて、あらぬ方を見上げた。)ところが、とこ ろがですよ。円谷監督が亡くなって十年。そう、今年でちょうど十年です。世間の誰が、円谷さんの功績を認めているのですか。テレビのロード ショーもけしからんじゃないですか。チャップリンが死ねば特集を組む、ジョン・ウェインが死んでもやりました。それからヒッチコックの時もで す。ところが、昭和四十五年、どこのテレビ局が円谷英二特集をやりましたか。NHKですらしらぬふりです。だから視聴率が悪いんです。それか ら十年経って、少しは認識を新たにしたかと期待しましたが、今年もNHK教育テレビがジュニア文化シリーズ(子供向けの三十分番組)でせこい とり上げかたをしただけです。このままでいいんですか。もう一度、円谷監督の業績を振り返ってみる必要があるんじゃないですか。ですから私 は、円谷特撮の象徴であるゴジラさんに出演していただきたいのです。」
 親父はもう涙を流して頷くだけだった。だけど、おれはねぷたなんかやって、親父が体をこわしたら大変だからTにきいた。
「ウルトラマンじゃいけないんですか。」
「だめです。奴は今、ウルトラマン80の人気で有頂天になって、当分降りてきそうにありません。」
 というわけで、仕方なく出演することになった。しかし、やっぱり親父もトシには勝てず、運行中あまりよく放射能光線を吐けなかったらしく、 えらく肩を落としていた。肩を落としたのは親父だけじゃなかった。結果報告にきたときのTもタメ息ばかりついていた。結局親父とモスラのねぷ たは、何の賞にも入らなかった―つまり、誰からも認められなかった―のだそうだ。正直いっておれも残念だった。昔、目を輝かせてスクリーンの おれを見つめていた連中が、十年たったらもうゴジラなんて下らないと思うようになってしまったのだろうか。それが、成長したということなんだ ろうか。
 とにかく、親父がねぷたに出たのはまっとうな理由があってのことである。怪獣島を去っていくTの淋し気な後ろ姿を見ているうちに、おれの中 で新たな闘志が湧いてきた。よし、おれが三代目(*)ゴジラを襲名して、華麗に銀幕にカムバックしてやる。明日、東宝の取締役とかけあってこ よう。なぁに、東宝がだめならMGMがあるさ!!

*初代は『ゴジラ』でオキシダンデストロイヤーによって殺された。(訳注)

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 いやはや、なんとも熱い檄文で、反発を感じた方も多いのではないかと思われますが、これは1980年に書かれたものである事を今一度思い起 こしてください。
 現在の私の見解を補足しますと、仮面ライダーにもデンジマンにも価値はあります。
(おっと、デンジマンは高校時代にもゲラゲラ笑いながら毎週楽しみに見ていましたよ)
ただし、それはゴジラシリーズの(本来の)価値とは別物であると考えます。
 ですから、20年経った今でも、仮面ライダーや戦隊ものとゴジラを同じ土俵で語ることには反対です。

あ、非公認サークルへんたいクラブと共に作っていた8ミリ映画もちゃんと完成して文化祭で上映しましたよ。
 このときの作品は特撮色がほとんどないものでしたが、一年後に発表したへんたいクラブ第二弾ではクライマックスに怪獣のような男(口から白 いガスを噴射する。自称ゴジラ男)を登場させ、対抗手段として登場人物の一人がウルトラマンに変身するというバカ展開を持ち込みました。
 このウルトラマン、白い服にウルトラマン模様とカラータイマーをつけただけで、顔は素顔をさらしているというもの。ウルトラマンの顔の特徴 である中央の突起(?)だけは装着。(1981年製作ですから、ひょっとして庵野版「帰ってきたウルトラマン」より早い?)
 スペシウム光線もカリグラフ(フィルムに傷をつける手法)で合成。
(再放送のときブラウン管を8ミリフィルムで撮影したウルトラマン「科特隊出撃せよ」のラストを持っていたので、スペシウム光線がどんな風に 作画されているかコマ送りで確認した。当時ホームビデオはまだ一般的ではありません)
 最後はゴジラ男の放射火焔(?)とスペシウム光線の相打ちで双方倒れます。
 このへんたいクラブ第二弾は大変な好評で、上映は毎回押すな押すなの大盛況。
 うーん、特撮は「強い」と確認した経験です。
 そういえば、前年の作品製作時に出演依頼したものの内容がくだらないとかなんとかの理由で断った女の子が上映会場の近くをうろうろしていた ので、こちらは皮肉混じりに、
「どう?見ていかない?」と声をかけたら、
「ヒマだから入ってあげようかな」なんて偉そうに言われてムカムカ。
 上映中、その子の反応を映写機の後ろから観察してみました。
 ずーっと、くすりともしないで見ていた彼女は、ラストのゴジラ男対ウルトラマンが始まったあたりから身を乗り出し始めました。
 そして、スペシウム光線発射の瞬間、反射的に拍手しているではありませんか。
 私は監督として「勝った」と思いました。
 2年後、その女の子は彼女の大学で私の映画が上映されることになったとき、いろいろと手伝ってくれました。

 とはいうものの、その1981年製作の私の素人映画がそれほど優れた作品だったわけではありません。
 照明もなければ、カメラワーク・編集もお粗末。シナリオはまあまあバカでおもしろかったかもしれませんが、ぜんぜん映像作品として基本が なっていないものだったでしょう。
 それでも、どんなにしょぼい作品でも特撮映像による「驚き」が作品に昂揚感を与えたのではないかと考えています。
 とくにスペシウム光線は、そこまでのクオリティから考えて、きっとギャグで逃げるんじゃないかと予測したところに、本当に空中に光線が走っ た驚きがあったのではないかと考えています。
 フィルムにキズをつける技術も未熟ですから、光線自体が感動を呼ぶほどの出来だったわけではないのです。

 特撮は映像に驚きを与え、昂揚感を作り出します。
 それゆえ、特撮さえ使えば安易に「ハレ」の空間を作り出すことが出来るのです。
 その罠にはまってしまうと、ドラマがまったくいい加減でも特撮だけを見て喜んでしまうし、作り手も劇をないがしろにして変わった映像の追求 だけに走るようになります。
 映画作品になぜドラマが必要なのかは、ここで詳述する余裕はないので、みなさんそれぞれじっくり考えてみてください。
 映像の驚きだけに走るようになると、ドラマに神経が回らなくなりますから、映像の「流れ」を無視するようになります。
 その結果、ワンカットごとのかっこよさや猛烈さばかり大事にして、カットの連なりとしてのシーンががたがたになってしまいます。
 そして結局、かっこいいはずのワンカットもさほどかっこよく見えないという悪循環に陥るのです。
(具体的な作品例を挙げたい気もしますが、もう十分脱線しているこの駄文がさらに脱線するのでやめておきます。多くの怪獣ファンの方が特撮 シーンは良かった、と絶賛している作品にそういう欠陥が多いと見てます。良かったのは特撮カットであって、決してシーンではありません)

 さてさて、1980年代に入り、84ゴジラまでもうちょっとですよ。
 ここまでの話を読んで(読んでるかぁぁぁ?)、まだ自分が生まれる前の話だなー、なんて思ってるベリーヤングな方も多いのでしょうけど、 84年のゴジラ復活にはこんなバカなおやじが片田舎でなにかやってたこともミクロに影響していたんだと思ってくださいね。

 ここでちょっとだけウルトラマン80について触れておきます。
 私は事情があってウルトラマン80はほとんど見ることが出来ませんでした。それでも、たまたま見たエピソードに、飛行する戦闘機をさらに高 空から見下ろしているカットがあって、地上の様子とか雲がすごくいい感じに表現されていました。
 ああ、特撮は進歩しているのだ、と思ったのを覚えています。
 ただし。お話がおもしろくなかった。
 この時期に、特撮映画を復活させるには特撮映画を理解した本編監督ないしシナリオライターの出現が必要だ、と思い始めます。
(円谷プロ絡みだとスターウルフなんてのもあったっけ。ええーい、省略省略。そんなことを言い出したら、タンサー5とかアステカイザーとかコ セイドンの話もしなきゃいけなくなっちゃいます)

 1982年の3月、隣町の郊外型ショッピングセンターでなぜかゴジラ映画上映会が開催されました。
 私は大学入試も終わり、合否もわかっていたので気軽なもんで、当時隣町に住んでいた兄のアパートに転がり込んで、三日間日替わりで上映され たゴジラ特集を堪能したのでありました。
 初日は『三大怪獣地球最大の決戦』、二日目『ゴジラの息子』、三日目『怪獣総進撃』というラインナップでした。
 これを三日間、朝から夕方まで見倒したのです。
 このとき、『ゴジラの息子』もまた大傑作であると認識しました。
 それまでは封切り時に一回見たきりで、その後見直すチャンスもなく、書籍での評を頼りに想像するしかなかったのです。ですから、幼いころは 大興奮して観たものの、ミニラなんて子供受けするキャラクターを登場させてゴジラの軟弱化を招いた悪い作品なのだろうな、と思っていたわけで す。
 ところが。まずは作劇の見事さに驚き、こんなに面白いドラマだったのか、と喜びました。また、サエコというキャラクターの設定は作品全体が 決して年少者のみの娯楽を目指したわけではないことを示しています。土屋嘉男さんがまた、いい!
 高島忠夫さん演じる実験隊長を隊員たちが「おやじ」と呼んでいるあたり、円谷組の雰囲気を再現しているようでファン心理もくすぐります。
 ミニラとサエコの交流にも節度(怪獣と人間の断絶が生きている)があって、決してミニラの怪獣性を損なっていません。
(また、野生児サエコが普通の人間より怪獣寄りの立ち位置にいることも重要かもしれません。サエコは小美人に近い存在とも言えそうです)
 ただし、企画として怪獣による都市破壊を描けないものであることの是非は別問題ではあります。(これは『南海の大決闘』にも言える)


(♯3へ続く)




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