|
本
日は『ゴジラ』が封切られてからちょうど50年の節目です。
そこで、これまでどこかで書いたことの繰り返しも多いことになりますが、ゴジラについてのあれこれ
を書いてみます。
その優れた設定。
恐竜でもなく哺乳類でもない未知の生物とされ、核実験の影響で放射能を帯びながらも生き長らえると
いう生命力を与えられています。
多くの方が、ゴジラは核実験の放射線によってなんらかの生物が変異したものだと誤解しているのが嘆
かわしい。
『ゴジラ』をよく観て欲しい。
ゴジラが突然変異であるなどとは一言も表明されてはいない。
まず重要なのは、自然界に存在した珍しい種族であるということ。
水爆の洗礼(熱線を浴びているのか、放射線だけだったのかは曖昧にされている)を受けながらも生き
長らえることが出来る生き物とされているのです。
これは、『ゴジラ』公開当時人類最強(最凶?)の破壊兵器であった核爆弾にも負けない存在であるこ
とを意味します。
ここに人類の科学力を凌駕する大自然の力という観念を見ることが出来ます。
しかし、同時にゴジラは放射能を持つことで核兵器と同等の惨禍を巻き起こすものとされています。
口から吐き出す熱線が核実験の影響で獲得された能力なのかどうかは定かでありませんが、
放射線をまき散らしながら強力な熱線で物体を焼き払うことが出来るというのは、核兵器の破壊力と同
じです。
(劇中でも尾形が、ゴジラは水爆そのものではありませんか、と言う)
ここに、人類の科学力を象徴するものという見方も出来るのです。
大自然の力と人類の科学力、対立するかに見える二つの観念を同時に併せ持っているのがゴジラなので
す。
ゴジラが暴れるとき、科学の誤用の恐ろしさを伝えることが出来ます。
人間がゴジラと戦うとき、科学力の未熟さを伝えることが出来ます。
ひとつの存在で両面を表現できる巧妙な設定なのです。
しかし、大自然と科学力この二つのうち、より上位にあるのはどちらであるか。
ゴジラという生き物を作り出したのは、大自然の力です。
放射能を帯びるようになったのは後天的なこと。
ですから、核兵器という観念を取り去ってもゴジラは存在できます。
もし、ゴジラと核兵器が不可分なものならゴジラが登場する映画は常に核兵器の是非を問うものとなっ
てしまいます。
それでは、シリーズ化しても毎回同じようなストーリーにしかなり得ません。
いや、シリーズ化不可能と言っていいでしょう。
ゴジラの魅力についてはこのあとに回しますが、この魅力的な怪獣が一作だけでなく何作もの作品に登
場してくれたほうが映画文化にとって有益ではありませんか。
(ただし、付言すると、水爆実験に巻き込まれる前のゴジラを描くことが正しいのかどうかは熟考すべ
き問題である)
その魅力。
ゴジラ映画には反核メッセージがなければダメだとおっしゃる方もいます。
核兵器反対は尊いメッセージではあります。
しかし、映画芸術はプロパガンダが第一の目的ではないでしょう。
『ゴジラ』には反核の観念があったことは確かですし、作品の価値のいくばくかはそこにあるのも確か
でしょう。
では、映画『ゴジラ』が好きな人は、反核メッセージに惹かれているのでしょうか?
黒澤明の『生きものの記録』ではダメなんでしょうか?
怪獣ゴジラが好きなのはなぜ?
まずはその異様な姿に心が騒ぐのではありませんか?
犬や猫、そのほか動物園で見ることの出来るような生き物には似ていません。
妙な形の背びれがあったり、皮膚の感じも「変」です。
そんな異質さに興味が湧くのではないでしょうか。
しかし、異質なだけでもないようです。
二本脚で立つのは人間に似ているのかもしれません。
そして顔に注目しましょう。
目鼻の付き方は哺乳類に近いかもしれません。
そこに感情を読み取ることは不可能ではありません。
親しみやすさもあるのではないでしょうか。
ここにもゴジラの二面性があります。
異質さと親近性。
田中友幸プロデューサーの名言と伝えられる、「怖いけどかわいい」というのがゴジラの魅力といって
いいはずです。
それは円谷英二監督のきめ細かい演出で達成されたものと考えます。
『ゴジラ』においても、ゴジラは猛り狂うのみではありません。
野生動物としてのゴジラをきちんと描いているのです。
その場その場に感情があり、状況の変化に反応していく。
貨物船や漁船を襲ったのがなぜなのかはゴジラの姿を見せないシーンなので計り知れませんが、
その他のシーンでむやみに暴れたりはしていません。
だから観客がゴジラを憎むことは出来ないのです。
そして、気に入らないことがあればストレートに怒りをぶちまけるのがゴジラ。
徹底的に素直であると言えます。
テレビで視聴率を稼ぐには子供と動物を出せ、などと言われます。
両者に共通するのは「無垢さ」であると考えます。
ゴジラにも同じような無垢さを感じることができます。
そして、無垢な者を見るのは、「気持ちいい」のです。
これは人間が原初的に持つ欲求ではないかと考えています。
そんな原初的な欲求ということでは、
ゴジラの大きさ、強さ(ゴジラによる破壊)も人間の憧れを満たすものでしょう。
ゴジラによる破壊がどのように演出されているかと思い直せば、
ぎりぎりのところで悲惨さを直接見せない方法が取られていることに気が付きます。
ゴジラが暴れれば、死傷者が出るのは当然。
しかしながら、実際の作品でゴジラによる死や負傷の瞬間を直接見せることは僅少です。
それがゴジラによる破壊に陰惨さを感じさせない効果を生み、破壊を娯楽として見ることを可能にして
いるのです。
ぶっ壊して大暴れするのは、「気持ちいい」のです。
(ドラマとの兼ね合いで例外はある。とくに『ゴジラ』においては核兵器の象徴としてのゴジラが全面
に出ていますから、
ゴジラに恐怖を感じさせるようなやり方が多いです。大戸島の古老にゴジラは人間を食べることもある
と語らせたり、
映像面でもゴジラが怖く見えるような構図・照明が見て取れます。ただし、実際にゴジラが人間を食べ
るなど、残忍な行為をする様子は決して描きません)
また、ゴジラはふざける生き物でもあります。
これは、いまいち目的がわからない行動をするという意味です。
食べるとか戦うというような動物としてわかりやすい行動だけにとどまらないのがゴジラ。
ひょっとすると『ゴジラ』冒頭で船に放射火焔を浴びせるのもおふざけなのか?
山登りしたり、岩でキャッチボールしたり、腕をぱたぱた動かしたり・・・。
ひょうきん者といってもいいぐらいです。
これはもう見ていて楽しいでしょう。
『三大怪獣地球最大の決戦』でのゴジラとラドンの「ケンカ」など、楽しくて楽しくてしょうがありま
せん。
コミカルな味も発揮しだしたことでゴジラ人気が決定づけられたのは確かではないでしょうか。
そんなのは『キングコング対ゴジラ』以降のことで、もともとのゴジラはそんな奴じゃない、という意
見もあるかと思いますが、
ゴジラがおふざけをしない生き物だという根拠はないでしょう。
『ゴジラ』や『ゴジラの逆襲』でふざけてみせないのは、作品全体の雰囲気から導き出された演出の結
果であり、そこまでのゴジラしか好きじゃないという人がいるのは仕方ありませんが、
かといってコミカルな味を出したゴジラを否定する根拠にはなり得ません。
演出としてゴジラの見せ方には変容があったのは確かですが、その変容は決して先行作の内容を否定し
たり、設定をねじ曲げることで実現させたわけではありません。
ゴジラは屈強さとひょうきんさを同時に持ち、何者にも束縛されない理想的なヒーローなのです。
と、述べてきたのは円谷時代のゴジラの話。
ぎりぎり70年代でも中島春雄さんが演じていたゴジラまではオリジナルのゴジラを守っていたと言え
そうですが、
84年以降はどうでしょう?
ミレニアムになり、喜多川務さんが演じるようになってかなり良い感じのゴジラに戻った(除く
GMK)と思っていますが、どうにもストーリーに納得できずにいるのでした。
(『ゴジラ×メガギラス』は楽しめましたが、なんでこれまでのシリーズを否定する必要があったのか
わからない)
50周年記念作として公開される『ゴジラ FINAL
WARS』、果たしてどんな映画になるのか・・・。 |