4.反響

 

「慣性制御フィールド励起完了」桜井の報告に、野々山は大きく頷いた。

「よおし、追っかけるぞ」

 たまたま昼の側に来ていたマックスウェル号は、放送を見ながら着陸点にレーダーを向けていた。そのレーダー圏 に飛行物体が飛び込んできたかと思うと、土屋や平田の大騒ぎが始まったのである。シフ号に通信を入れても誰も答えない。

 そこで、船長の独断で軌道上から飛行物体を追いかけることにしたのである。

「いいんですかね、指示もないのにこんなことして」といいながらも副長の桜井は実に楽しそうである。

「いいに決まっておる。これは緊急事態だ」野々山はきっぱりと答えた。

「物体は北西方向に進んでいます」マックスが報告する。

 追いかけるといっても、マックスウェル号の軌道速度のほうが上回っているので、実際は速度を落として相手の動 きに合わせている。そのために推力を使って金星の引力に対抗し、飛行物体の航跡を追っているのだ。

 

「放送を見ました。あれはなんですか? 手違いで金星探査機と遭遇したのですか? でも、ものすごい風で揺れる グラ号の映像は迫力がありました」

「MMCもなかなかやるねえ。金星に謎の宇宙船が登場するとは、びっくりこきました。それにしてもよく出来たグ ラフィックスだぜ。ひょっとしたら、金星も人物も全部作りもの? 今後の展開に期待してるよ」

「みなさん、お怪我はありませんか。あれは、人類に警告を発するために来た、ウシャクマサバランチ人の船です。 あなたがたが二四時間以内に金星から立ち去れば、これ以上危害を加えることはないでしょう」

「はやくクイズの続きをやってください」

「あのロケットを探し出して、なんとかコンタクトをとってみてください。きっと地球外生命体のものです。私の知 る限り、人類の宇宙船にあのようなものはありません」

 以上、ネットに寄せられた意見の代表的なもの。

 

「文、危ない目に会ってるんじゃないだろうね。母さんはあなたの、仕事を大事に思う気持ちは、わかるつもりで す。でも、はるくんが、せめて学校に上がるまでは仕事をセーブして、母親としてそばについていてやったらどうか、とも思うんですよ」

「バーニーちゃーん、見たわよー。お嬢ちゃんほったらかして、さっさと逃げてんじゃないわよ。少しはカメラのヒ ラちゃんを見習いなさい。なんてね。またお店に来てねーん」

「ども。懐映堂の伴です。斉藤さんなら興味があるんじゃないかと思いまして、連絡します。二十世紀半ばの没に なった映画の企画書を見つけました。日本のものなんですが、これ、すごいっすよ。ハリウッドばりに特殊効果で怪物の大暴れを描くつもりだったらしいで す。当時の日本じゃ、大した映像にはならなかったと思いますがね、それでも、とうとう幻想映画が根付かなかった日本映画の貴重な記録だと思いますよ。 連絡いただければ、キープしときます。あ、それから『狂った一頁』の復元版、入荷してまーす」

「平田、すげーじゃねえか。世間じゃ全部やらせだっていってるやつもいるようだが、おれは、社内の人間だから な。ほんとのことだろ。食いつけよ。あんな珍しいもの二度とないぞ。いま、上の連中は専用回線でプロデューサー会議やってるらしいけど、もし、あのロ ケットだかなんだかを無視するなんて決定が出たら、現場で反乱を起こせ。期待してるぞ」

「驚いたわよ。あんた大丈夫? ま、船ん中にいたんでしょ。それならそんなに心配することもないか。それにして も、あのクイズってやらせ? 摩湖、成績優秀だったじゃない。なんであんなに正解できないわけ。そうそう、あたしは今ダンナと火星に来てるの。お土産 何がいい?」

 これはクルー宛の私信である。

 

 放送から二時間が過ぎた。シフ・グラ両艇宛にたくさんのメッセージが届けられていた。そして、長い会議が終 わったらしく、ミッションコントロールのプロデューサーから斉藤宛に指令が下った。

「斉藤君、およびスタッフの諸君。会社の決定を伝える。君たちは企画内容を変更し、あの飛行物体の正体を探りた まえ。それが無理でも、その所在を突き止め、その姿をはっきり映像に捉えるのだ。こちらでは後続の調査チームを編成中だ。その体制が整い次第、君たち と交代してもらうことになる。交代の段取りは追って連絡する」

 プロデューサーの通達を聞き終わって、斉藤と平田は同時に声をあげた。

「ええっ」「なんてこったい」そして二人で顔を見合わせた。

「そうだよな。平田も気に入らねえよな。なにが交代だよ。最後までやらせてくれっての」

 斉藤はミーティングルームのメインスクリーンから平田のほうへ体を回した。平田は蒼ざめた顔を左右に振って、

「違いますよ。おれはもう、あれと関わりたくないんですよ」とテーブルにしがみついた。

「え? ヒラちゃんびびってんの。変なの。百合ちゃんを抱えて、ぱっと伏せたときはかっこ良かったけどねえ」Q 太郎が後ろから平田の顔を覗きこむようにからかう。

「なんだよ、平田もその程度の奴か。あれが、誰かが言ってるみたいに地球外生命体の宇宙船だったとしてみろ。 ファースト・コンタクトってことになるんだぞ。…昔の映画にはそんなのがたくさんあったもんだよ。まさか、実際に体験できるとは思ってなかったなあ」

 斉藤が遠くを見る眼をした。Q太郎が小声で「なんだ。また映画ばなしか」と茶々を入れるのにも聞こえないふり だ。

 平田が、がばっと顔を上げた。

「いいですか。みなさんは、モニター越しでしかあれを見ていないから、そんな呑気なことを言ってられるんです。 得体が知れないんですよ。でかいんですよ。そう、マックスウェル号の全長に近い大きさなんですよ。それが、反動推進で金星の表面近くを飛んでるんです よ。近寄るだけで危険です。事実、おれは死にかけたんですよ!」

 そう口走る平田だったが、彼は「死」というものをよく知らない。彼の近親者で死んだ者はまだいないし、社会的 にも「死ぬ」者は珍しいぐらいだ。災害や事故があっても、その対策や救助体制がしっかりしているので怪我はしても死ぬことはまずない。治療不能の病気 も随分減った。さすがに百二十歳を越えると老衰で死ぬものもいるが、そうしょっちゅうあることではない。殺人事件や自殺者の存在は忌まわしいこととし て包み隠されている。

「まあ、あれだけひどく転げまわされれば、怖くもなるよねえ」

 調整卓に座っている黒田姉御だけが、同情的である。

「わかってくれますか」と平田が文に助けを求めようとしたとき、グラ号から通信が入った。メインスクリーンに目 をくるくるさせている矢部百合子の顔が映った。

「ねーねー、スタッフの人たちー。方針は決まったの? 百合的にはー、もう一度あの子に会いたいって思うんだけ どー」

 一同、「?」であった。

「ね、百合ちゃん、あの子って何?」黒田が優しく問いかけた。

「やーだー、お姉さん。あの子だよー。飛んできたドラゴンちゃん」

「ドラゴン?」マニアの斉藤は、眉を寄せてすぼめた口を半開きのブルース・リーフェイスを作った。

「くねくねしてたところが、竜みたいだからドラゴンてこと」

 それを聞いたQ太郎が、ぽんと手を打った。

「よし。金星の竜だから、ヴィーナスドラゴン。これで行きましょう」

「おいおい、Qちゃんよ、それじゃそのまんまじゃないか。もう少し捻ろうじゃないの。ヴィーナスドラゴン、略し てヴィドラ。これでどうよ」

「さすが、斉藤さん、いい感じですね」

 頷きあう二人をよそに百合子が平田に話しかけてきた。

「ねー、平田っちももう一度会いたいよねー」

 平田は仏頂面で答えた。

「まーねー。上司が行けって言うからしょうがないよなー。おれも《会いたい》よー」そこで、何かに気がついたよ うにぱっと顔が明るくなった。

「でもさ、百合ちゃん。どうやって探すの? もう着陸艇のレーダーからは見えなくなっちゃってるよ。金星は広い んだぜ。もう会えないかもね」

 その平田の発言を聞いて、斉藤はがっくりうなだれた。

「そっかー。そうだよな。どうやって探し出すかだな。一ヶ所にじっとしててくれれば、まだやりようもあるがな」

 口を尖らせる百合子の画像に割り込むように、スクリーンの右下が四角く開いた。そこにはコックピットに収まっ たマックスウェル号船長、野々山の得意げな顔が映った。

「みなさん、お揃いですな。放送を見させてもらいましたが、なにやら大変なことになったようですなあ。で、どう しますか? 地球に帰還しますかね。本部の決定は、出ましたかな。なにしろ、船長より先にディレクターに指示が出るようですからね」と、最後は少々皮 肉っぽい口ぶりになった。

 斉藤は、「お、船長…」と言いかけたものの、船長からの通信がこれで終わりかどうかわからなかったので、言葉 を飲んで先を待った。

「や、や。大丈夫大丈夫。斉藤ディレクター、これは衛星を通していないから、タイムラグはほとんどない。どう ぞ、お話下さい」どうやら直接シフ号のアンテナに通信を入れているらしい。

「船長。放送を見たなら、あの巨大飛行物体も見ましたね」マックスウェル号なら、探し出すことが出来るかもしれ ない、と斉藤は考えた。

「野々山さん、やつの名前はヴィドラってことになりましたよ。ヴィーナスドラゴンを縮めて、ヴィドラ、です」Q 太郎はさっき考えた名前を披露して得意になっている。

 野々山は、さほど感心したようでもなく、軽く頷いた。

「ヴィドラ、ね。うん、見ましたよ。あんな正体不明のものが現れちまったんじゃ、これ以上金星に留まるのは危 険ってものでしょう。やっぱり帰還でしょうな」船長はおもしろがるように、眉をひくひくさせた。

 斉藤は、激しく首を横に振って、

「いやいやいや。違うんです。ヴィドラを探さにゃならんのです。なにか、良い知恵はないですか」と泣きついた。

「ほほう。電波源の探査なんかどうでもいいと言ってたのにねえ」

「船長、電波は目に見えないけども、ヴィドラはいい画になるんですよ」

 二人のやり取りを聞きながら、平田は船長の態度にいやな予感を感じた。

 野々山さんはなにか隠してるぞ。…どうもそれはおれにとっては、よくないことのような…。

「斉藤ディレクター。そのヴィドラとやらを見つけたいのですな。それなら、いますぐ着陸艇を北西へ向けて発進さ せなさい」

 船長の言葉に、斉藤は「は?」と首をかしげた。

「いま、マックスウェル号は東経一二二度、南緯十七度の上空にいるんですがね。地表レーダーには、なにやらロ ケットのようなものの機影が映ってるんですよ」

 そうか。マックスウェル号が追尾していたんだな。参ったな。また斉藤さん、はりきっちゃうぞ。と考えながら平 田が頭を抱えていることなど、誰も気にしていない。

「さっすがー。船長さんやるー」グラ号から話を聞いていた百合子が小躍りしている。その後ろに服部以下〝探検 隊〟の面々が集まって、スクリーンに見入っているようだ。

「マックスウェル号から座標データが送られてきました。ヴィドラの現在位置はアフロディーテ大陸の東部、テチス 地域、イナリコロナの近くです」黒田が着陸艇のナビゲーションシステムにマックスウェル号から送られてくる座標を転送する設定を作った。

 斉藤はにこにこして、いまにも揉み手を始めそうだ。

「いやー、野々山船長。申し訳ない。まず、船長に相談するのがスジでしたねー。いや、ほんとに面目ない。で、 マックスウェル号のエネルギーは大丈夫ですかな? 多分強制軌道を取ってるんでしょうけど。われわれがヴィドラを捕捉するまで誘導してもらえると助か ります」と頭を下げる。

 野々山がそれに答えようと口を開きかけたところに、副長が割り込んできた。

「やー、斉藤さん。ごくろうさまです。マックスウェルは高度を上げましたから、そんなにエネルギーは食ってませ ん。きっと最後まで誘導できると思いますよ。ま、困ったときにはこのマックスウェル号をお忘れなくってことで」

 シフ・グラ両艇は、ヴィドラめざし北西に向けて発進した。慣性制御によって機体を軽くすれば、推進ファンの力 で時速六〇〇キロは出せる。ヴィドラの速度には勝てないがマックスウェル号からの観測によれば、ヴィドラは一直線に移動しているわけではなく蛇行しな がら飛んでおり、さらにときどき停止することもあるようなので、いつか追いつけるはずだった

 着陸艇が発進したときはすでに深夜であったので、乗員はまもなく眠りについた。彼らが寝ている間もオートパイ ロットが操縦を続けるのである。

 

   5.保護と索敵

 

 二機の着陸艇がヴィドラを追って発進してから数時間。相変わらずヴィドラは蛇行しながらアフロディーテ大陸を 北西方向へ移動していた。熱電池のお陰で電力には不自由しない着陸艇は、推進ファンの力強い回転で金星の濃密な大気―ほとんどが二酸化炭素である―を 後方へ掻き出して前進していた。

 一旦は個室で眠りについた平田だったが、頭の興奮状態が治まらず、眠れたのは二、三時間であった。その後も寝 台で横になっていたのだが、どうにも落ち着かずに起き出してしまった。

 個室区画の一番奥にある洗面所で顔を洗ってミーティングルームへ行ってみると、斉藤が一人で各種モニターを眺 めていた。

「あれ? 斉藤さん、寝ないんですか」平田が声をかけると、斉藤は一瞬目を泳がせて椅子を回転させた。そして平 田の姿を認めると、わざとらしく脚を投げ出して大あくびをしてみせた。

「もうじき、ヴィドラに追いつくぞ。それに、マリコクレーターからもう何千キロも飛んできてるんだ。金星の地表 の映像や、夕焼けなんかも撮っておかにゃならんだろ」

 彼らは西へ向かって飛んでいるため、前方はかなり薄暗くなっている。そして、後方を向いたカメラのモニター画 面にはオレンジ色というより赤に近い空と大地が広がっていた。あと十日も経てば、この辺りは夜の闇に包まれることだろう。

「なんだ、撮影してたんですか。それならおれに言ってくれれば、ちゃんとやったのに…」

 平田が申し訳なさそうな声を出すと、斉藤は「はっはー」と大声を上げ、

「お前なんかに任せておけないから、俺がじきじきに撮影してやったのさ」と照れ隠しなのか、いやな言い方をし た。

「そんなことより、お前、金星の七不思議を知ってるか? この何時間かずーっと地表の様子を見ていて思い出した んだがな、金星ってのはやけにクレーターが少ないんだそうだ」

 平田は首を傾げた。

「どういうことです? あっちこっちクレーターだらけじゃないですか」

「俺も詳しくは知らないが、金星じゃ雨や風で地表が侵食されることはない。そうすれば、もっとたくさんのクレー ターが残っていてもいいんだってよ。まあ、火山活動によって溶岩が流れ出せば、埋められるクレーターがあってもいいらしいし、地殻変動で形が崩れるこ とだってあるかもしれないようだが、それにしても溶岩を被ったり変形したりしているクレーターはあまりないらしい。で、いまあるクレーターの数は十億 年分ぐらいなんだってよ。金星の年齢から考えると少なすぎるってことだ」

「ははあ。十億年ぐらい前に金星の全地表が入れ替わるような大異変が起こったかも知れないってことですね。倒立 した自転軸とか雲の領域での秒速百メートルの風も謎ですよね。それで、斉藤さん。あとの四つはどんな不思議なんですか。七不思議なんでしょ」

 平田が身を乗り出したところで、斉藤ディレクターは「がっはっは」と笑った。

「なんだ、平田、よく知ってるじゃないか。俺はクレーターの話しか知らなかったよ。あとの四つはQ太郎にでも訊 くんだな」

 斉藤のいい加減さに呆れてため息の一つでもつこうかと平田が息を吸い込んだとき、マックスウェル号から通信が 入った。

「シフ・グラ両艇のみなさん」マックスの声だ。

「レーダースクリーンに注目して下さい。みなさんの前方一〇〇キロにヴィドラがいます。ほとんど停止しているの で、十分ほどで追いつけると思います」

 斉藤は弾かれたように壁のモニター群に向き直った。レーダーが捉えた情報を視覚化して表示しているスクリーン に明るい点が映っている。シフ号の前方を向いているカメラの映像にはまだその姿は見えない。しかし、わずかに光の点が見えるようでもある。ヴィドラの 推進ジェットだろうか。左手の地表にはクロエクレーターの縁が弧を描いている。

「平田、みんなをたたき起こせ。グラ号の連中はどうしてんだ」

 平田が黒田とQ太郎の部屋にマイクを通じて呼びかけていると、グラ号のバーニー服部が通信スクリーンに顔を見 せた。

「斉藤君、こちらはどう動けばいいかね」

「おお、服部さん。まず、近づいてみましょう。グラ号とヴィドラを同じフレームで撮りたいですな」

 黒田文は眠そうな様子など微塵も感じさせず、飛び込むようにミーティングルームに入ってきた。

「操縦室にコントロールを移しましょう。飛びながらの撮影になりますよね」

「お、文。早えな。よし。俺が操縦するから、平田と二人でうまい画を押さえてくれよ」

 まだ起きてこないQ太郎をそのままに、三人は床のハッチを開けて操縦室に移動した。

 黒田が地球へ向けてネット生放送の開始信号を送り、シフ・グラ号に搭載されたカメラの映像と音声が中継衛星へ 放たれる。

 グラ号が推力を上げて先行した。〝探検隊〟 は全員操縦席に着いている。斉藤のキューで土屋紘一がしゃべりだした。

「緊急生中継です。これはネットだけで放送されています。われわれはついにヴィドラに追いつきました。はたし て、ヴィドラはいかなる文明の産物なのでしょうか」

 グラ号の操縦は山西悟が担当している。グラ号は四基の推進ファンを斜め下方へ向けて金星の引力に抗しながら前 へ進んでいる。そのローターは熱のためにぼんやり赤く光を発しているようだ。

 前方にヴィドラの姿が見えてきた。平田がカメラをズームアップすると、その翼の生えたイソギンチャクのような 形がよく見えた。全体に丸みを帯びていて柔らかそうではあるが、いぶし銀のような光沢は金属製であることを想像させた。いまは地面に対し垂直に立って ホバリングしているようだ。地球人の着陸艇はファンの向きを変えて減速すると、ゆっくり近づいていった。

 土屋のコメントも興奮気味になってきた。

「いやあ、大きいです。われわれの着陸艇は推進ファンユニットを含まない本体だけで四〇メートルほどもあるんで すが、その数倍はあります。われわれを認めて停止したんでしょうか」

 グラ号はヴィドラに対して五〇〇メートルほど距離をとって停止した。それはヴィドラの「翼」が二枚ともまっす ぐ見える位置で、その翼の根元は本体の向こう側にあるらしい。高度はヴィドラの中心に合わせて、三〇〇メートルだ。シフ号はさらに距離をとって旋回し ながらグラ号とヴィドラの映像を記録していく。

 ヴィドラの主エンジンからは白熱したガスが吐き出され、金星の重力と釣り合いを取っているが、その巨体を支え るだけの推力はやはり強力で、地表では細かく砕かれた岩石が砂塵となって舞い上がっている。噴射ノズルの反対側から伸びている触手のようなチューブは 全部で十二本あり、今はまっすぐ空を向いていた。その長さは七,八〇メートルもあるだろうか。

「よおし、上昇するぞ。真上からの映像を撮ってやる」

 斉藤の操縦でシフ号はぐんぐん高度を上げた。そのとき操縦室の天井が開いて、Q太郎が入ってきた。

「なーんだ。みんなここにいたのか。どうやらヴィドラとめでたく接触したようだね」とかなんとか言いながら、そ のたるんだ体を自分の席に押し込んだ。

「遅えよ。で、Qちゃんよ、グラ号の連中をどう動かす?」

 斉藤は計器から目を離さず構成作家に意見を求めた。

「そうだなあ、まず電波通信を試みるってところでしょ」

 シフ号はヴィドラ上空六〇〇メートルに高度をとって、機首を下へ向けた。ヴィドラのチューブは揃ってこちらを 向いているようだが、その先端だけがわずかに広がってそれぞれゆっくり動いているようだ。見ようによっては空をスキャンしているようでもある。また、 チューブの先を拡大してみると、口を開いた蛇の頭のようにぱっくり割れた穴があり、その穴に隣り合って三日月型の黒いゴーグルのようなものがある。な にかのセンサーだろうか。

 平田がカメラを引いて、ヴィドラの正面像全体を捉えたとき、チューブのうち一本が動きを止めた。それはまっす ぐシフ号を向いている。なにか動きがあるかも知れない、と再びそこへズームをかけようとすると、シフ号の機体が不安定に揺れた。平田は斉藤が操縦桿を 握っていることを意識していたものか、

「なにやってんだ。しっかり止まってろ」と鋭く叫んだ。

「るせー。下向きの乱気流があるんだよ。…平田、てめえ、今なんて言」

 斉藤が言いきらないうちに操縦室がフラッシュライトを焚いたようにぱっと明るくなった。同時に平田が「あっ」 と声をあげた。

「ヴィドラのチューブの先端が激しく光りました。全部じゃないです。こっち向いて止まった奴だけです。斉藤さ ん、カメラが一つ死にました」

 船首カメラのモニタースクリーンが真っ黒になって、ときおりノイズがちらちらと走っている。

「斉藤さん、なんかまずい動きしたんじゃないですかね、ぼくら」

 Q太郎の言葉に「うむ」と頷いて、斉藤はシフ号を移動させた。ヴィドラの真上から外れると下向きの気流は治 まった。どうやらヴィドラはチューブの先端の穴から激しく大気を吸い込んでいるようだ。

 シフ号は高度を下げてヴィドラとグラ号を東側から見渡す位置に着陸した。慣性制御フィールドを切って熱電池の 効率を上げるためだ。ヴィドラに近づいてからは機動性を上げるために慣性制御フィールドは推進ファンの手前ぎりぎりまで広げられていた。すると機体全 体を含む空間が慣性制御を受けることになり、熱電池に接触する金星大気分子も慣性質量を軽減されていた。その結果、熱電池が受け取る熱エネルギーが減 少していたのだ。熱電池の発電量が落ちていたために、バッテリーの電力を消費する一方だったのである。

 グラ号はゆっくりヴィドラに近づいていった。グラ号の乗員も全員操縦室にいたが、操縦している山西のほかは、 特にやることがない。

「さきほど、ヴィドラはシフ号に対して閃光を浴びせたようですが、カメラの不調以外はこれといった被害もなく、 危険な要素はいまのところありません」

 土屋のコメントは落ち着いていたが、その背後であとのメンバーが口々に勝手なことを言い合っていた。

「どうも、不吉な予感がしますわねえ。これ以上近づくのは止めたらどうですの」「まあ、まあ。正体不明のものは 誰でも最初は怖いもんだよ。んあー、大丈夫だいじょうぶ」「あたしの考えではー、さっきの光は挨拶だったんじゃないかなー。こっちからも光を当ててみ ればー」

 最後の百合子の発言に土屋が飛びついた。

「なるほど。さすが百合ちゃん、いいことに気が付いたね。よおし、山西さん、ここで止まりましょう。サーチライ トでヴィドラに光を当ててみるんです」

 グラ号はヴィドラから二〇〇メートル離れて、空中に停止した。高度を少し上げて、チューブ群の根元ぐらいの高 さに位置した。辺りの大気はヴィドラから噴射される高圧ガスの影響でかなり不安定だ。グラ号の可動翼が微妙に気流を受け流してバランスを取っている が、ぴたりと静止するというわけにはいかない。

 艇内からの操作で、グラ号の前部に取り付けられた三つのサーチライトがすべてヴィドラの方を向いた。まだ光ら せてはいない。ヴィドラと同じように一瞬だけ光を当てるのだ。そうはいっても、ヴィドラほど強い光を出せるわけではないので、全く同じようには出来な い。

「さあ、それでは光を当ててみましょう。狙いはやはりチューブの先でしょう」と土屋が言うと、矢部百合子が異議 を申し立てた。

「チューブじゃないってば。あれは、首だよ。く、び」

 土屋は苦笑いでそれに応えると、カウントダウンを始めた。

「5,4,3,2,1,照射!」

 閃光というほど強くはないが、それでもヴィドラの表面が真っ白に見えるぐらいの光が「首」の先端、頭の辺りに 下から浴びせられた。

 〇.五秒ほどでサーチライトは光を止めた。

 距離を置いて観察していたシフ号からはそのあと起こったことがよく見えた。

 ヴィドラは十二本の首を一斉にグラ号の方へ向けると、そのままグラ号へ倒れ込んだ。本体のあちこちから陽炎の ような「揺らぎ」が噴出しているところから、主エンジンのほかに無数の姿勢制御ロケットがあるようだ。

 グラ号は推進ファンを傾けて脱出を図ったようだが、ヴィドラのほうが素早かった。ヴィドラはチューブを大きく 開いて、グラ号をその間に挟み込むと互い違いに交差させて抱きかかえた。

 シフ号に送られていたグラ号からの映像や音声は激しく乱れた後でふつりと途絶えた。

「こりゃまずい」斉藤は慌ててシフ号を発進させたが、慣性制御が効いていないのでスローモーションのようにのろ い。

 グラ号を捕まえたヴィドラは、倒れ込みながら主エンジンの出力を上げた。それはヴィドラの尾部が大爆発を起こ したような激しさであった。目が眩むような光の奔流が地表に叩きつけられ、一瞬ヴィドラの全身がその高温ガスに包まれたかと思うと、白熱した火球を 破ってヴィドラが飛び出した。斜めに上昇するヴィドラはぐんぐん加速して遠ざかり、噴射ガスしか見えなくなった。その後噴射ガスの白い尾は弓なりに角 度を増し、ほぼ垂直に上昇していくのがわかった。

 といっても、シフ号のクルーがのんびりその様子を観察していたわけではない。ヴィドラ発進の爆風で機体が揺さ ぶられて、それぞれシートにしがみつくのが精一杯だった。

 

「なんだ、何が起こった?」

 思わず野々山が口走った。マックスウェル号の多機能室、通称茶の間である。桜井も一緒だ。

 マックスウェル号ではネット放送用のデータを受信して、ネット視聴者と同じようにグラ号とヴィドラの接触を見 ていたのだが、ヴィドラにサーチライトを当てたところから信号が乱れて再生不能になっていた。

 船長の野々山はシフ号への回線を開いた。

「こちら野々山。状況を報告してくれ。ネット放送データが来なくなったぞ」

 自動応答で通信スクリーンにシフ号の内部が映し出されたが、誰も野々山の問いかけに答える者はいない。画面は 操縦室の正面から奥を向いているが、斉藤以下メディアスタッフたちは、歯を食いしばって揺れる体を押さえつけるのに必死らしい。音声は「うっ」 「ひっ」「はふっ」という呻きに混じって、みしみしと軋む音が聞こえるだけだ。

 野々山と桜井が顔を見合わせたところにマックスが報告してきた。

「ヴィドラが移動しています。これまで観測されたことのない高速です。かなり高度を上げています。…雲の層を抜 けました。方向はやはり北西を目指しています」

 マックスは、先ほどまでネット放送を再生していたスクリーンにヴィドラの軌跡を映し出した。アフロディーテ大 陸西側のオブダ地域を斜めに見下ろした3Dモデルから、ヴィドラを表す黄色い線がまっすぐ突きだして、雲の層を抜けてから水平飛行に移っているのがよ くわかった。その線は刻々と伸びている。

「マックスウェル号、マックスウェル号。こちらシフ号、斉藤です。野々山さん、聞こえていますか」

 ようやくシフ号の揺れがおさまったらしい。スクリーンに映った斉藤の顔は、すっかり蒼ざめて目も落ち着きなく 泳いでいた。

「大変なことになりました。グラ号がさらわれました。どうすればいいでしょう」

 野々山は、首を傾げて通信スクリーンに向き直った。

「斉藤ディレクター、どういうことだね。わたしにはよくわからんが」

「グラ号が、ヴィドラに捕まっちまったんですよ。あの蛇みたいなくねくねしたところに絡まれて、一緒に飛んで いったんですよ」

 野々山の背後で副長の桜井が「ええっ」と声を上げた。

 シフ号からは、「困っちゃったな、困っちゃったな」と繰り返す斉藤を押しのけて、黒田文が顔を出した。

「船長、信じられないかも知れませんが、斉藤さんの言ったことは本当です。シフ号が捉えた映像があるのでそちら に送ります」

 黒田が画面の外で何かを操作すると、通信スクリーンにヴィドラとグラ号を横から見た映像が流された。サーチラ イトを当ててから、ヴィドラが飛び去るまでのものである。

 野々山と桜井は目を見開き、口を開けて見入っていたが、再び黒田が顔を出したので、慌てて平静を装った。

「む、ん、あー、なんとかグラ号を救出しなければならんな。大丈夫、こちらではヴィドラの動きを把握しているか ら、追いかけることは可能だ」

「やー、どーも。副長の桜井です。またヴィドラの位置情報を送りますから、夕べと同じ要領で追っかけてみてくだ さい。グラ号は、慣性制御を使ってたんですよね。それなら、あの加速度にも耐えられたはずだから、クルーは無事だと思いますよ。それから…」

 さらに何か言おうとする桜井を野々山はひと睨みして黙らせた。

「ヴィドラは現在、時速一万キロというスピードで移動している。一旦マックスウェル号と合流して、ヴィドラがグ ラ号を離すか、停止するのを待って再び降下したほうがいいと思うが」

 大気中をファンの力で移動するより、衛星軌道をマックスウェル号の力で動く方が明らかに早い。着陸艇が軌道高 度に上がるために消費する燃料はマックスウェル号から補給できるので、金星地表とマックスウェル号を何度か往復できるはずだ。

 マックスウェル号とシフ号は、人工知能マックスのコントロールによってランデブーすることとなった。

 

 外部との交信が途絶えて一時間あまりが過ぎた。グラ号はかなり揺れているようだが、慣性制御によって乗員を含 めたすべてのものが慣性質量を失っているので揺さぶられている感じはしない。

 〝探検隊〟はミーティングルームに集まっていた。通信もできず、ヴィドラに押さえ込まれて機体を動かすことも できない。何もできないのだ。かろうじて外部カメラは機能していたが、どこを見てもヴィドラの「首」の一部やその付け根が見えるだけだ。

「リーダー、どうすんのかな」どうにもできないことを知りつつ、山西が土屋を横目で見た。この「どうすんのか な」はこれで十五回目だ。

「リーダーリーダーって、頼るフリするのはやめてくださいよ。きっと斉藤さんたちがなんとかしてくれますよ」

 土屋もかなりふてくされている。最初の衝撃が去ってからは、とくに危険を感じさせることもなく、取り乱すこと はなかったがこれからどうなるのかを考えれば、底無しの不安が頭をもたげてくる。

 ずーっと頭を抱えていた太田摩湖がゆらりと顔を上げた。

「あたくしたち、標本にされるんじゃないかしら。ヴィドラは母星めざして太陽系外へ飛び出しているのよ」息が鼻 や耳からスカスカに漏れているような、声にならない声をだす。

 一同を見回したバーニー服部は、「だはははは」と一見陽気に、しかし絞り出すように笑った。

「何を辛気くさい顔をしておる。生命維持装置はちゃんと動いているし、気密が破れたわけでもない。息が吸える し、飯も食える。なにも問題ないだろうが。…そうだ、茶でも飲もう。百合子くん、みんなに茶を出してやりなさい」

 給茶器の前に座り込んでいた百合子は「えー」という顔を服部に向けたが、おとなしく立ち上がって操作パネルを ぽちぽち押し始めた。

 船外モニターカメラの映像に動きがあった。ミーティングルームの一方の壁にあるマルチスクリーンにグラ号の前 後左右上下が映し出されていたが、カメラに連動した照明に照らされたヴィドラの首がするすると動き始めた。首の表面には細かい節があり、その筋が画面 を移動している。カメラの位置によって、左右に動いたり上下に動いたりしているようだ。前方を向いたカメラはヴィドラの首の付け根を捉えていたが、そ れは遠ざかっている。

「みんな、操縦室へ行くぞ」バーニーは床のハッチを開けながら叫んだ。

 どうやらヴィドラはグラ号を解放する気になったようだ。このチャンスに逃げるのだ。

 センサーによると外部に気圧がある。推進ファンが使えるはずだ。

 服部に続いて、山西、土屋がコックピットに滑り込んだ。操作パネルの電源を入れるのももどかしく、服部は推進 ファンのスロットルペダルを踏み込んだ。レーダーによるとグラ号は地表に水平に置かれたようだ。慣性制御をかけたままなので、加速度を感じることはほ とんどないのだが、それにしても、レーダースクリーンに映る地形が全く動かない。

「服部さあん。だめです。ファンが回ってません」各部の動作をチェックしていた山西の声は半泣き状態だ。

「くそ。こうなったら、ロケットエンジンを使いましょう」土屋が叫んだ。

「まてまて。拾ってくれるマックスウェル号との連絡もついていないのに、闇雲に飛び上がってどうする。それに ファンがいかれているのでは、発射姿勢を保つこともできんぞ」と土屋をたしなめたものの、服部の落胆も大きかった。

 これから、どうなるのだ。

「なにこれー」「ひーっ。地獄に落とされたのよ」階上から女性たちの声が響いてきた。そしてハッチから顔を出し た矢部百合子が、

「ちょっと外見てよ。きれいだよ」と珍しく興奮した調子で告げた。

 土屋の操作で、操縦室正面の大スクリーンに機首カメラの映像が映し出された。

 夜側に連れてこられたのか、空は真っ暗闇である。しかし、はたしてこれは金星であろうか。ごつごつした岩盤が 広がっているところは、確かに金星のようではあるが、その地面が熾火のように赤く、中から光を放っているのだ。

 センサーによると地表温度は六〇〇度近い。黒っぽい皺のように見えるのは温度の低いところだろうか。

 炎は上がっていないが、消えかけの燃える石炭を敷き詰めたような光景は、禍禍しく地獄に落とされたと感じるの も無理はない景色だ。

 カメラを右へパンすると、さらに奇妙なものが見えてきた。グラ号からさほど離れていないところに巨大な塔がそ そり立っていた。その底部は幅一〇〇メートル近くあり、先端はカメラのフレームからはみ出しているため高さはわからない。透明な材質で出来ているらし く、地表の光が表面や内部で反射されて赤く光って見えた。

「土屋くん、カメラを上に振ってくれ」服部のリクエストに土屋は無言で答えた。

 その塔は、薄い直方体を一八〇度捻ったような形をしていた。幅一〇〇メートル、厚さ二五メートル、高さ五〇〇 メートルのガラスの板を熱して捻ったように見える。そのため角の部分は緩やかな螺旋を描いていた。

 グラ号を塔の足下に置いたヴィドラは、塔の上空を旋回していた。

「なんすか、これは」山西は茫然とスクリーンに見入っている。

「なんだろねえ」服部が答えた。

 

「…偶然とはいえ、私が期待したようなミッションになりつつあることを喜んでおる。ヴィドラとやらの正体を暴 き、また、無事グラ号を救出することを期待している。斉藤君以下、現場スタッフの健闘を祈る」

 松田洋平からのメッセージは延々一〇分ほども続いた。メディアスタッフとマックスウェル号乗員は、通称茶の間 で松田老からのメッセージを聞いていた。

 金星から離脱したシフ号は無事マックスウェル号とランデブーして、大気圏外からヴィドラの動きを追っていた が、そこへジュピター三世に搭乗中の松田老から励ましのメッセージが入ったのである。

「いい気なもんだね。こっちはそんな命懸けの冒険なんかやる気ねえっての」

 斉藤ディレクターは苛々と組んだ腕の指先を小刻みに動かした。

「やる気ないったって、グラ号のみんなを見殺しには出来ないでしょう」

 平田の言葉に斉藤は爆発した。

「んなこたわかってんだ! どうやって助けるかが問題なんだよ。ヴィドラに取り付いてグラ号のハッチから一人ひ とり脱出させるか? それとも、ヴィドラの乗組員を説得して解放してもらうのか。大体、奴は宇宙船なのか? ロケットエンジンを持ってるからって宇宙 船とは限らねえんじゃねえか」

 それを聞いて、桜井がぽんと手を叩いた。

「そうですなあ。宇宙船ならあんな設計はしないでしょうな。金星の過酷な環境に耐えるためには相当機体が重く なっているはずだし、それで外宇宙から飛んでくるとは思えませんな。着陸艇を別立てで作らないと…」

「待てよ」と野々山が顔色を変えた。

「ヴィドラが着陸艇だったらどうする。いまのところ奴は大気圏から飛び出しただけで、金星から離れようとはして いないぞ」

「船長、すると」部屋の隅でチョコレート味の栄養ゼリーをすすっていたQ太郎が、中央へ漂いだしてきた。いま マックスウェル号は衛星軌道に乗ってはいない。低い高度で金星の自転周期に合わせてゆっくり回っているために、遠心力より金星引力が勝っている状態 だ。そのままでは落下してしまうので、ときどきロケットを噴かして高度を上げてやる必要があった。現在はロケットが休止しているので無重量状態であ る。Q太郎は船長の顔の高さで等速直線運動してきた。

「ヴィドラのほかに母船があるということですか」

「そういう可能性もあるということだよ。Q太郎くん」

 野々山は目の前に顔を突きだしているQ太郎をゆっくり押し戻した。慣性減少中なので、百キロを超えるQ太郎も 紙切れのような抵抗しかない。

「ヴィドラが着陸したようです」天井からマックスの声がした。全員に聞かせるときは、音像を天井に定位させるよ うになっている。

 黒田がメインスクリーンにレーダー画像を呼び出した。ヴィドラの航跡が黄色い点線で表されている。グラ号を拉 致してから一直線に現在の地点へ向かったようだ。

「東経七度、北緯六十五.八度ですね。ここは、えーと」と黒田が金星地図を呼び出して重ね合わせようとしている と、

「イシュタール大陸です。というより、マックスウェル山の麓といったほうがわかりやすいかもしれません。そのク レオパトラクレーターの中であると思われます」とマックスが伝えた。さらに、

「そして、金星到達時に観測されたマイクロ波の発信源でもあります」と付け加えた。マックスの口調はいたって冷 静である。

「おおぅ、なんだ、マックス。初めから電波源を調査すればよかったと言いたいのか」

 斉藤の言い掛かりに、

「その通りです。ヴィドラと電波源にはなんらかの関連があると推察されます。ヴィドラという未知の存在によって 計画が変更されましたが、同じく未知の現象であったマイクロ波放射を調査しようとしなかったことは誤りであったと思います。ヴィドラとの関連は予測で きませんでしたが、電波源を調査することによってヴィドラに対する認識を深められたかもしれません」とマックスはまともに認めた。決して感情を込めた 言い方ではないが、人間にとっては挑戦的な態度に感じられる。

「けっ。はっきり言いやがる。でもな、そんなの後知恵って言うんだよ」

 平田は、マックスにこれ以上余計なことを言わせないように矢継ぎ早に質問を浴びせた。

「それで、マックス。グラ号がどうなったかわからないか。通信は回復していないか。ヴィドラはまだグラ号を捕ま えたままか。グラ号の救難信号は出ていないか」

 マックスは考えるような間もおかず即答した。

「わかりません。回復していません。わかりません。出ていません」

 レーダー画像を見ていた黒田文が、意を決したように斉藤を見つめた。

「斉藤さん。降りてみましょう。ヴィドラは一度停止した後でクレオパトラクレーターの中をぐるぐる回っているよ うです。また移動し始める前に捕まえましょう」

 その意見には平田も賛成だった。レーダーで観察していてもわからないことが多すぎる。

「そうです。降りましょう。グラ号の近くへ行ければ、なにか出来ることがあるかもしれないでしょう」

 斉藤は黒田と平田を見比べるようにして、「はっ」と息を吐いた。

「降りるさ。降りますよ。なんつったって、ヴィドラの画がぜんぜん足りねえ。俺はグラ号の連中よりそっちが心配 だね」

「斉藤さん、あんたって人はぁ」平田がぷるぷる震えだしたのを見て、Q太郎が割って入った。

「ヒラちゃん」と呼びかけて、何も言うな、と首を横に振った。Q太郎にはわかっている。斉藤は決して冷たい人間 ではない。ただ、もう一度ヴィドラに接近するのが怖いだけなのだ。怖さを紛らそうと悪ぶっているのだ。

 黒田が「あっ」というのとマックスが報告するのはほぼ同時だった。

「ヴィドラが上昇しはじめました。一五Gほどの加速度です。垂直上昇しています。このまま大気圏を抜けるつもり かもしれません」

 野々山は目で桜井に合図すると無言で多機能室を出ていった。操縦室へ移動するためである。

「平田、シフ号の燃料補給は済んでるんだよな」斉藤は鋭く言い放つと、平田の答えを待たずに通路へ出ていった。

「はい」と答えながら、平田も続く。黒田とQ太郎も斉藤の後を追った。

 メディアスタッフは船内エレベーターで着陸艇連絡通路まで移動し、シフ号に乗り込んだ。放送用機材の主なもの はシフ号に搭載されているのだ。

 移動している間もマックスが状況を報告し続けていた。どうやらヴィドラはまっすぐマックスウェル号に向かって いるらしい。マックスの推理では、マックスウェル号が発振しているレーダー波を感知したのではないかということだった。

 放送用の調整卓を立ち上げて、各カメラの映像をモニターに出すと、金星に向けたカメラに白い光の筋が映ってい るのがわかった。マックスウェル号はヴィドラを追ってマックスウェル山上空に来ていたので、太陽は金星の陰になり、黄色い硫酸の雲も真っ黒に見える。

「場合によっちゃ、このシフ号を分離して、なんかしなくちゃいけねえな」

 斉藤が独り言のように呟いた。

「緊急生放送開始信号出しました」黒田の張りつめた声がミーティングルーム兼調整室にこだました。

 平田は各カメラのロックオン機能にヴィドラを入力しながら、マックスウェル号の操縦室に連絡を入れた。

「船長。われわれはシフ号に移りました。エアロックも閉じたので、いつでも分離可能です」

 とりあえずQ太郎がシフ号の操縦室にいる。

 ヴィドラはマックスウェル号の正面、およそ一キロメートル離れたところに昇ってきた。逆立ちするような格好で 主エンジンを使い減速している。そして、ゆるりと機体を水平にするとマックスウェル号めがけて突進してきた。十二本のチューブは半球形に開いている。 また、表面温度が高いせいか、全体がぼんやりと赤く光っていた。

「ああっ。グラ号の姿がありません」船首カメラをズームインした平田が叫んだ。

 あの首のようなチューブに絡み取られたはずの着陸艇、グラ号はどこにも見あたらなかった。

 マックスウェル号は左にスライドしてヴィドラの進路から機体を外した。通り過ぎるヴィドラをマックスウェル号 の側面に設置されたカメラが自動的に追尾する。

 

「くそ、なんて奴だ」

 ヴィドラの突進を躱した野々山船長は、誰にともなく毒づいた。

「また来ますぜ」桜井副長が近距離レーダーの計器をチェックしている。マックスウェル号をかすめて後方へ飛び 去ったヴィドラは円を描いて上昇し、今度は真上から突撃するつもりらしい。

 野々山は、ヴィドラの動き方を見て、慣性制御を使っているマックスウェル号のほうが機動性において優れている と踏んだ。それなら、十分引き付けてからぎりぎりで躱したほうがエネルギー消費は少なくて済むだろう。

 金星とは反対側へ回りこんだヴィドラは、主エンジンの出力を上げてマックスウェル号に向かってきた。本体のあ ちこちでちかちか光っているのは、姿勢制御ロケットの噴射ガスだろうか。

 

「この放送にアクセスしている皆さん、われわれはいま非常に危険な状況に立たされています」

 斉藤がマイクに向かってがなっている。どうやらヴィドラはマックスウェル号に体当たりを食らわすつもりらしい が、なんのためか見当が付かない。

 カメラのうち何台かがヴィドラの姿を捉えている。その本体はおおむね円筒形と言えたが、大小さまざまな凹凸が あって絵に描くのは難しそうだ。大きく広げた三角形の翼状の部分は片方だけでも横幅二〇〇メートルほどもあり、ヴィドラの全長に匹敵する。厚さがどれ ぐらいなのか定かでないが、ヴィドラ全体のサイズに比較すれば、膜のように薄いものだった。

「これはやはり、えー、認めたくないことですが、ヴィドラはわれわれに攻撃を加えているのでしょうか。もしそう であれば、闘う意志のないわれわれは、すぐ逃げ出すべきですが、おそらく金星上に取り残されているであろうグラ号を見捨てるわけにはいきません」

 マックスウェル号が船首の逆進エンジンを僅かに噴かして、弾かれるように後退した。目の前をヴィドラの巨体が 通過する。

「ヴィドラの動力源はまったく不明です。大気のない空間で自由自在に飛び回っておりますが、観察するとすべてロ ケットエンジンによる反動推進であると思われます。しかも、慣性制御は使っていないようなので、相当大量の推進剤を保有しているのでしょうか」

 

「船長。提案があります」

 野々山の耳元でマックスの声がした。野々山はヴィドラの動きに注意を払いながら、次の回避行動をどうするか考 えていた。

「なんだ、奴と通信する手段でも思いついたか」

「いいえ。いまのところ、意志の疎通は図れそうにありません。しかし、ヴィドラの意図がどのようなものであれ、 現在の状況は当マックスウェル号にとって危険であることは間違いありません。その危険は、搭乗員の生命の危険を意味します」

「ええい、回りくどい言い方をするな。提案とはなんだ」

「ヴィドラを攻撃するべきだと思います」

「えっ」「なにっ」桜井と野々山は同時に声を裏返らせた。二人には、いかなる場合であれ、誰かを攻撃することな ど思いもよらなかった。

「ご理解頂けないようなので、説明いたします。ヴィドラが人類の知識を広げるために貴重な存在であることは確か です。しかし、ヴィドラはマックスウェル号に高速で接触しようとしており、それはマックスウェル号の破壊を招くほどの速度です。マックスウェル号は ヴィドラの進路から容易に移動できますが、燃料が尽きればそれも不可能になります。…」

 マックスはしゃべり続けていたが、ヴィドラが金星側から突き上げるように上昇してきたので、野々山は操船に集 中しなければならなかった。そして、今度も無事躱すことが出来た。

「…私は搭乗員の生命を優先すべきだと考えました。効果は保証できませんが、マックスウェル号の主エンジンから 噴射されるプラズマはかなりの熱と運動量を持っているので、考えられる攻撃法としては最適であると思います」

 マックスの作戦は、ヴィドラがこちらに向かってくるときにマックスウェル号は船尾を向ける。そして近づくヴィ ドラに対して主エンジンのプラズマを浴びせるというものだった。ヴィドラが負けずに突進してきた場合を考えて、噴射の瞬間、可変ノズルを傾けヴィドラ の進路を外して脱出する。

「しかし、…」野々山は躊躇した。

「ひょっとすると、これでヴィドラが破壊されてしまうかもしれないわけだな」

 そこへシフ号から平田が呼びかけてきた。マックスが船長とのやりとりを報告していたらしい。

「野々山さん、迷ってる場合じゃないですよ。やりましょう。シフ号ではマックスの提案に賛成です」

 桜井も無言で頷いている。

 ヴィドラは大きく旋回して、再びマックスウェル号の正面から接近してきた。マックスウェル号は船首と船尾から それぞれ逆方向に噴射して一八〇度回頭すると、ヴィドラに船尾を向けて停止した。

 

 攻撃が成功するかどうかはわからない。平田は船尾カメラに映るヴィドラを見つめた。赤い燐光のような光はかな り薄れている。太陽光がないので、その姿は星空を隠す影のようだ。

 モニター画面をヴィドラのうねるチューブが満たしたとき、マックスウェル号の主エンジンが火を噴いた。画面が 真っ白になり何も見えなくなった。

「さて、人工知能マックスの作戦はうまく行きましたでしょうか」

 斉藤の不器用な実況アナウンスも不安気なトーンだ。

 主エンジンの噴射は一秒ほどのことであったが、マックスウェル号はヴィドラの進路から秒速二〇〇メートルで金 星とは逆方向へ遠ざかっていた。可能な限りのカメラが後方を向いて、ヴィドラの動向を窺っている。

 ヴィドラは突進してきたときの向きを保ったまま直進していた。見たところ破壊された様子はない。しかし、エン ジンが停止したらしく噴射ガスの光が見えず、十二本の「首」も統制を失ったように乱れ騒いでいた。

「やりましたかね…」平田がぽつりというと、黒田が応えた。

「やったことは、やったみたいだけど。…どうかしら」

 平田はカメラの一つを目一杯ズームしてみた。なんとかヴィドラを画面一杯に拡大できた。

 首の動きが徐々に治まってきたようだ。その機能を確かめるように前方へぴんと伸ばすと、先端がくねくねと動い た。つぎに十二本が一斉にマックスウェル号のほうを向いた。そして、首をマックスウェル号に向けたまま本体の姿勢を変えてまっすぐ向き直った。

 

「また来る気ですかね」

 桜井が落ち着きなく各計器パネルに目を配っている。いまのところマックスウェル号に異常はない。

「主エンジンの噴射では、奴を破壊できないことがわかったわけだが、何らかのダメージは与えられたようだ。そし て、奴がどうするか、だな」

 野々山の両手両足は、操縦桿とペダルに添えられ、いつでも回避運動か主エンジン噴射が出来る態勢をとってい た。

 ヴィドラは、マックスウェル号の進路に合わせてその主エンジンを断続的に噴射し、ゆっくり近づいてきた。突撃 するつもりはなさそうだ。

「船長、どうします? もう一発かましますか」

 シフ号から斉藤が呼びかけてきたが、野々山は、

「いや。奴の動きを見る」とだけ答えた。

 ヴィドラは、マックスウェル号に追いつくと減速して左横に並んだ。首の先から本体の後端までの長さは、ほぼ マックスウェル号の全長に匹敵する。しかし、マックスウェル号に比べると本体がかなり太く、「翼」の大きさと相まって見た目はマックスウェル号より ずっと大きく見えた。警戒しているのか、数百メートルの距離を取って併走している。

 野々山は、逆進エンジンをほんの僅かだけ噴かして減速してみた。するとヴィドラもそれに合わせて速度を落と す。

「観察されてるようだな」と野々山が口にしたとき、ヴィドラの首のうちこちら側の五本が先端をマックスウェル号 に向けた。

 

「おおっと、ヴィドラが首をこちらに向けました。あっ、光っています。首の先がぱしぱしと閃光を放っているよう であります」

 斉藤のコメントを待つまでもなく、カメラには「頭」を光らせるヴィドラがしっかり映っている。この光は、シフ 号に浴びせた閃光と同じものらしい。首の先にある三日月型の黒いゴーグルから僅かに離れたところに発光体があるようだ。

「ヴィドラはわれわれに何かの信号を送っているのでしょうか。しかし、グラ号はヴィドラに光を当てたあとで連れ 去られました。ここは慎重に行くべきでしょう。あ…」

 ひとしきりマックスウェル号にフラッシュライトを浴びせたヴィドラは、首をくにゃりと曲げて、プールに飛び込 む水泳選手のように金星方向へダイブしていった。すっかりマックスウェル号には興味を失ったようで、金星に対して垂直になったかと思うと主エンジンを 激しく噴射し、あっという間に遠ざかっていった。

「ふー。なんとか危機は去ったようですが、ヴィドラがいかなる存在であるのか、やはり全くわかりませんでした」

 斉藤は、我ながら間抜けなコメントだなあ、と思いつつ、この緊急生中継を「締める」ために何を言うべきかと考 えた。

「斉藤さん!」

 黒田文が大声を上げた。斉藤は、声を出さずに「ばかッ」と口を動かし黒田を睨んだが、彼女はひるむことなく しゃべり続けた。

「グラ号から呼び出しが入っています。回線開きます」

 斉藤も平田も放送中であることを忘れて、メインスクリーンに注目した。

「やっと繋がりましたよ。中継衛星を見失ったようで、全天スキャンしちゃいましたよ。えー、スタッフの皆さん聞 こえていますか。いまそちらはどこにいるんでしょうか」

 土屋のたれ目顔がアップで映った。その背後にあとのメンバーが顔を揃えている。

「やっほー。あたしたちはー、ナビによるとー、クレオパトラにいるみたいだよ」矢部百合子が手を振っている。

「や、やややや。みんな無事か。いまちょうど放送中だ。この通信をそのまま放送に流すから、あー、とにかく喋っ てくれ」

 斉藤が身振りで「切り替えろ」のサインを黒田に送る。

「文さん、グラ号の外部カメラからこっちに信号は来てるんですか」

 平田はなんとかグラ号からの映像を放送に使えないものかと考えたが、そうはいかないようだ。

「いいえ。いまグラ号が使ってるのは補助システムだから、容量に余裕がないわね。向こうで映像を切り替えてくれ れば可能でしょうけど」

 それじゃ、仕事にならない。と平田は肩を落とした。

「こちらはみんな元気です。推進ファンがいかれて動けないんですが、……あ、ああ。わかりました」

 やっと斉藤の指示がグラ号に伝わったらしい。中継衛星を介しての通信では、タイムラグが一〇秒近くあるのだ。 呼びかけても、返事が返ってくるまでは二〇秒かかることになる。