HOME
webゴジラマガジン8.5号に掲載された殿様ギドラのエッセイ再録です。
2002年から十数年にわたってネット上にありましたが、先頃消えて無くなっていることを知り、
ギドラの巣に移植しました。基本的には元通りのレイアウトですが、背景イラストなどは差し替えてあります。
私以外のゴジラファンサイト管理人さんたちのエッセイも収録されていましたが、ここではもちろん私のもののみを掲載します。

●エッセイ・コンピレー ション企画
ゴジラサイト管理人 ゴジラへの愛、かく語りき

ページ7 ♯1
本文中の注釈はwebゴジラマガジンを発行したイカ課長さんによるものです。
赤文字は2019年の殿様ギドラが加筆したものです。

■ghidorah
(永年殿様ギドラの名前で活動していますが、2002年にはghidorahと名乗っていました)
管理サイト:ギ ドラの巣
ここに編集部からの質問に答える形で自己紹介めいたものが掲載されて いましたが内容が2002年のものなので、割愛しました。
●私と円谷特撮(あるいはゴジラ)♯1
1. 幼年期

 『怪獣大戦争』『大怪獣決闘ガメラ対バルゴン』『ゴジラ・エビラ・モスラ南海の大決闘』『大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス』「大魔神3部作」 『フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ』『キングコングの逆襲』「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「マイティジャッ ク」・・・・・・・・・・・・・・・。
 ざっと挙げてもこれぐらいにはなりますね。
 封切り時、本放送時に見たくても見られなかった映画やテレビドラマたちです。

 映画は、親が基本的に映画を見ない人だったのでどんなにねだってもまず連れて行ってくれませんでした。テレビは、東京などの大都市と違っ て、民放がひとつしかなかったために放送されない番組が多数あったのです。

 幼いころ、特撮作品を見たくても見られないという渇望感にさいなまれた結果、
長ずるにしたがって特撮へのこだわりが深まっていったように思います。

 そのきっかけは、テレビで放送された『ゴジラ』だったように記憶しています。
 その日は、朝から近所の子供たちが「きょうは***だ」「***がテレビで見られる」とわさわさしていたことを覚えています。
 私は幼稚園に通いはじめる前でしたので、年長の子供たちが興奮して連呼している***という単語がなぞの呪文のように聞こえて、なにを言っ ているのかわかりませんでした。
 その日が平日だったのか休日だったのか覚えていませんが、(まあ、幼稚園にも行っていないので私にとっては休日も平日も関係なかったわけで す)いつもなら夕飯まで外で遊んでいるはずの子供たちが夕方早い時間にいっせいにそれぞれの家に引き上げていったことが印象深いです。
 私の三歳年上の兄も同様で、家に入るとテレビの前に座って「さあ、見るぞ」の構えでした。
 本編がはじまる前のテレビ独自のタイトルには海から顔を出しているゴジラのイラストが使われていたように思います。
 資料によるとどうやらNHKが放送したらしいですね。前日には『ゴジラの逆襲』を放送したらしいですが、そちらの記憶はまったくありませ ん。それでもいまだに『ゴジラの逆襲』を見るとゴジラとアンギラスが大阪に上陸するかどうかのあたりで強烈なデ・ジャ・ヴに襲われるので、 ひょっとすると見たのかもしれません。
 兄による解説つきでおよそ一時間半、監督・本多猪四郎、特殊技術・円谷英二、音楽・伊福部昭の『ゴジラ』を固唾を飲んで見守ったのでした。
(2019年加筆の注釈・NHKでの放送は一般に1967年とされていますが、私が 『ゴジラ』以前に「マグマ大使」【1966年スタート】や「快獣ブースカ」【1966~1967】を見ていたとは思えません。片田舎の話 なのでブースカの放送が遅れていたことは十分考えられますが、「マグマ大使」はしっかりロッテのCMが流れていましたので、東京と同時放 送だったのではないかと思いますし、第一話から見たことを覚えています。『ゴジラ』がNHKの地方局で1967年より前に放送されたとい うことはないのでしょうか)
 恐竜というものもこのとき初めて知ったと思います。山根博士が国会でスライドを投影するシーンも印象が強いです。
 映画の最後にゴジラが骨になってしまったときは、これで映画が終わってしまうという寂しさと同時にゴジラがかわいそうでなりませんでした。
 そりゃ、作品の持つ深い意味までは感知できませんでしたが、ずーっとゴジラという不思議な生き物を見てきて、そのゴジラの登場シーンで興奮 してきたのですから、ゴジラが葬られることを喜べるはずがありません。
 いまでも初代ゴジラが町を蹂躙する夢を見ます。
 私は必死で逃げます。
 それでもゴジラを怖いとか憎いとか思ったことはありません。夢の中であっても。(ちょっとは怖いかも)
 建物が壊れる、火災が起こる、だから逃げるのです。

 このゴジラそして円谷特撮との邂逅を経て、主にテレビで特撮らしきものを渉猟するようになりました。
 『電送人間』、不気味でおもしろかった!
 『大怪獣バラン』、怪獣はゴジラだけじゃなかったんだ!
 『世界大戦争』、なんという寂寥感。(泣きたくなるような寂しさを感じました)
 『モスラ』、最後のほうしか見られなかった、くやしー。
 『猿人ジョー・ヤング』、親が怪獣ものだというので見てみたら、拍子抜け。
 「七色仮面」、かっこいいんだかダサいんだかよくわからない・・。
 「快獣ブースカ」、おもしろかった!
(2019年の注釈・なぜ「ウルトラQ」のことを書かない!?)
 テレビ放送はなかったものの、児童向け学習雑誌にはウルトラマンの記事も載るようになって、「円谷英二」という四文字が刷り込まれました。
 怪獣には人間が入って演技しているということも知りました。
 そんな時期にキングギドラの存在も知ったと思います。
(なにせ小さいころの記憶ですから前後関係がぐちゃぐちゃかもしれません。サンダーバードもミステリーゾーンも見てましたし、悪魔くん、マグ マ大使、キャプテンウルトラ、怪獣王子、赤影なんてのもありましたが割愛)

 大人は小さい子供に向かって、
「大きくなったら何になる?」という質問をよくするものです。
 私もそんな質問を浴びせられたものですが、なーんも考えていなかったころは「新幹線の運転手」とか「バキュームカーの運転手」などと適当に 答えておりました。
 それが、怪獣というのが実は人間の演技で動いているということを知り、怪獣になりたいと思うようになったのです。
 つまり着ぐるみ俳優ですね。
 そんな希望を親に話すと、
「それじゃお前はえんや監督の弟子になれ」と言われました。
 そうなんです。うちの親は「円谷」が読めずに「えんや」と呼んでいました。
(ぼんやりした記憶で「これなんて読むの?」と聞いたら「なに?えんやでしょ」と教えられたことがあるような・・・。東京オリンピックで「つ ぶらや」という読みが一般化したというのはうちの親には通用しなかったよーです※)

(※東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得した円谷幸吉選手のこと)

 冒頭で、映画はほとんど見せてもらえなかったと書きましたが、見に行ったことが皆無というわけではありません。
 生まれて初めて映画館で見た映画は『大巨獣ガッパ』、円谷監督が関わった作品としては『怪獣島の決戦ゴジラの息子』があります。
 あ、待てよ、ゴジラの息子にハヤタ隊員が出ていることに気づいたような気もするので、円谷作品としては2番館で見た『長篇怪獣映画ウルトラ マン』と『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』のほうが先かもしれません。
 という具合に主に2番館(入場料が安いんですよ)でちょぼちょぼ特撮映画を見るようにもなっていました。

 小学校に入学して、中学までは義務教育だからいやでも中学までは学校へ行けなんて言われて、(学校嫌いの少年でした)それなら中学を出たら えんやプロへ行ってえんや監督の弟子になってやらぁ、などと考えておりましたが・・・・。

 昭和45年(1970)の1月。円谷英二監督の訃報が伝えられました。
 その新聞記事で初めて「つぶらや」と読むことを知りました。
 私にとって特撮とは円谷監督が作るものでしたから、怪獣はおろか特撮が終わったのだと思いました。
 級友が持っていた少年誌に円谷監督の業績をまとめた特集記事があって、その特集だけ切り取らせてもらいいまでも大切に保管しています。
 その記事で『ハワイ・マレー沖海戦』という作品のことを知り、三人の息子さんが円谷プロを引き継ぐということも知りました。
 円谷英二監督が最後に監修した作品「チビラくん」が春から放送開始とも報じられていて、それはぜひ見たいと熱望したものの、やはり私の故郷 では放送されず。
 それでも、お隣の県から飛んでくる弱い電波を捕まえてどうにかこうにか「チビラくん」の内容をチェックすることに成功。
 しかし、それはウルトラマンやゴジラとはまったく異なる発想で作られた着ぐるみドラマであり、ミニチュア破壊も光学作画合成も関係ないよう な作品でありました。
 やはり円谷英二監督がいないと駄目なのか。と絶望に近い気持ちを味わって、私の幼年期は終わりを告げます。

2.少年期

 円谷英二監督の死で終焉してしまったかに思われた特撮映画ですが、東宝はチャンピオン祭りという形式で旧作をリバイバル上映してくれまし た。
『決戦!南海の大怪獣』劇場パンフレットには円谷監督の作品目録(SF・怪獣ものに限定でしたが)がついていて、その表に印をつけながらリバ イバルを楽しみに見に行ったことを覚えています。
(『モスラ対ゴジラ』、見たぞ、と)
 年が明けて昭和46年(1971)、ウルトラマンの新作が放送されるという情報が入ってきました。
(このとき、私の故郷ではウルトラセブンはかろうじて全話放送されていましたが、ウルトラマンは昭和44年に4話だけ放送されて打ち切られて おりました) 
「帰ってきたウルトラマン」の開始です。
 そしてゴジラも『ゴジラ対ヘドラ』で復活。
 世にいう第二次怪獣ブームの到来ですね。
「帰ってきたウルトラマン」も『ゴジラ対ヘドラ』も円谷英二監督不在の状態でどんな作品になるのか、とおそるおそる見たように思います。
 いまの目で見れば、「帰ってきたウルトラマン」はかなりの傑作(高校時代の再放送で気がついた)だし、『ゴジラ対ヘドラ』もなかなか見るべ き点のある作品だと思いますが、子供のころの印象では代替品というか本物じゃないけどこれで我慢するか、という程度のものでした。
(誤解なきよう。どちらも大変楽しみましたよ。ヘドラなんて、作文の宿題にその感想文を書いたぐらいですから)

 だめなんですよ。なにかが違うのです。ゴジラシリーズは明らかに予算縮小で安っぽくなっているのが見えましたが、それだけではなく、風格と いうのでしょうか、気品というのでしょうか、円谷英二監督が手がけたものとは決定的に違うのです。
 もちろん特撮シーンの味わいが薄いのも敏感に感じておりました。
 テレビのウルトラシリーズも映像技術が進歩していることはわかりましたが、どうにもおもしろくない。
 ウルトラマンAの中盤で見切りをつけました。その後のタロウ、レオは最初の数話を見て「やっぱりだめか」と確認して見るのをやめるという状 態でした。
 また円谷プロ創立10周年記念番組だった「ファイアーマン」もピンときませんでした。
(2019年の注・正しくは「ファイヤーマン」)
 そんなことを言うと、単に特撮ものに興味を失っていただけじゃないのか、と突っ込まれそうですが、そうじゃないです。
 ウルトラQの再放送やようやく放送されたウルトラマンは大満足で見ていましたし、チャンピオン祭りのリバイバル作品、市が主催する子供映画 会(1500席もある市民会館の大スクリーンで特撮映画を定期的に上映してくれた)で見る円谷監督作品は毎回感涙ものでしたから。

 そんな少年時代に円谷特撮に何を感じていたのだろう、と思い起こすと、ひとつのキィワードとして「芸が細かい」という印象が浮かびます。
 ミニチュアセットの作りこみは言うに及ばず、その壊れ方にもさまざまな工夫があって、ディティールを見るのが楽しみでした。
 光線の表現も多彩で光学作画合成を見るのも大きな楽しみだったはずです。(これは、円谷監督亡き後も東宝、円谷プロには引き継がれていたよ うに思います)
(2019年の注・飯塚定雄さんの功績であろう)
 新作群は、全体に大雑把であるという印象で、破壊シーンでもディティールに目を凝らしたくなることが少なかったと思います。

 円谷監督が去り、私は弟子入りする先を失って将来を悲観したものです。(なんて大げさな)
 そこで考えついたのが、自分を怪獣役者として使ってくれるべき監督がいないなら、己が特技監督になればいいではないか、ということでした。 (なんという大望!)

 昭和48年(1973)小学校5年の夏休みの工作として、特撮プールの建造に着手しました。
 どこでそういう情報を得たのか覚えていませんが、特撮には専用のプールがあったほうがいいという強い思いがあったようです。
 波起こし装置をどうするか、水中に照明を仕込めないか、中央に泡だし装置も必要だ、などとノートに落書きのような設計図を描きました。
 土台になる大きな板を父親の会社から失敬して(いえ、盗んだんじゃないですよ。廃棄されていたものをもらったのです)、その上に石膏で水を ためるくぼみを作る予定でした。
 それがどこで方向が変わったのか、計画は映画を作ることに転換したのです。
 用意した板と石膏で異星の地表を作りました。
 プラスチック粘土で二人の登場人物と怪獣、宇宙人を作りました。
 宇宙船はすでに所有していたサンダーバード2号のプラモデルを流用です。(ウルトラホーク2号のプラモデルについてきた発射台を管制塔に見 立てた)
 当時中学生だった兄にもアイディアを出してもらったり、作業を手伝ってもらいました。
 おっと大事なことを書き漏らしていました。
 私の父はもともとカメラマニアで、スチールはもちろん8ミリのムービーカメラも所有していました。ちょうどそのころ新しい8ミリカメラを入 手していて、ハイスピード撮影やコマ撮りが出来るものだったので人形アニメ作品を作ることになったわけです。

大まかなストーリーは、宇宙船に乗って惑星探検に出かけた二人の探検家(?)がとある惑星で怪獣に襲われ宇宙船を破壊される。絶体絶命のピン チに素性不明の「親切な」宇宙人が現れて怪獣を撃退。
 宇宙人は壊された宇宙船(といっても映像上は横転しただけなんですが)も修理(ひっくり返っているのを起こしただけ)してくれて二人は無事 地球(なのか?)に帰還する、というものでした。

 サウンドトラック録音(当時の8ミリはサイレントなので、カセットテープに音だけ別収録する)にも大変な苦労をしてなんとか完成。テレビ放 送された『モスラ対ゴジラ』を全編カセットテープに録音して繰り返し聞いて楽しんでいたので、怪獣出現シーンの音効には『モスラ対ゴジラ』か ら音楽や鳴き声を流用、作品のテーマ曲はこれまた録音してあった『緯度0大作戦』のメインテーマ曲を流用・・。
 夏休み中に友人を集めての上映会もやったはずですが、8ミリ映画を夏休みの工作として提出することも出来ず、結局どうしたのか覚えていませ ん。

 完成した作品ではありますが、私としては爆発もなければ光線も発射されないことに大きな不満を感じていました。照明で宇宙人の超能力を示す フラッシュ効果を入れたり、置時計のガラスドームをバリアに見立てて突進する怪獣の前に突如透明なバリアが出現&跳ね返す、なんて特撮っぽい ことも試みているのですが、やはり物足りない。
 そもそも基本がコマ撮りアニメなので動きがスムーズではなく、怪獣の重量感もない・・・・。

 翌昭和49年(1974)の夏休みには、テーマを爆発と考えて第二作に取り掛かりました。(岡本太郎かっ)
 このころにはゴジラシリーズにも見切りをつけていました。(あくまでも新作には、ということです)
 前年の『ゴジラ対メガロ』は小学5年生の目にもあまりにもひどい出来で、これじゃもう新作を見に行くのはやめようと思ってしまいました。
 では、リバイバル中心のチャンピオン祭りはどうなったかというと、私の故郷には東宝系専門の映画館がなくて東宝と松竹を掛け持ちしている映 画館がチャンピオン祭りを開催していたので、新作上映があるチャンピオン祭りはやるが、旧作中心のチャンピオン祭りはやらない、という方針に なってしまっていたのです。
 ですから、『キングコング対ゴジラ』二度目のリバイバルや『ゴジラの息子』リバイバル、『モスラ』&『緯度0大作戦』超短縮版セット上映な どというチャンピオン祭りを見に行くことが出来ませんでした。
(付け加えると、新作すら遅れて上映することがあったのです。『決戦!南海の大怪獣』は夏封切りだったはずですが、私が見ることが出来たのは 冬休みだった)
 また先述した市の子供映画会も6年生のころにはなくなっていたような気がします。
(『怪獣総進撃』を初めて見て、あまりのおもしろさに熱を出して倒れたのや、『キングコングの逆襲』を見たあとメカニコングの形態模写には まったのも小学校4年生のことだったはず・・。多分、この市の子供映画会で『キングコング対ゴジラ』完全版を見ているはずです。冒頭に東宝創 立30周年というテロップが入ったのを覚えています)

 それでも円谷特撮を追いかけることは出来ました。
 日本テレビ系だったのだと思いますが、木曜ないし土曜の夜に東宝と大映の娯楽作だけを放送する映画劇場があったのです。
 この番組でたくさんの映画を見させてもらいました。
(特撮だけじゃなく、座頭市、眠狂四郎、やくざ坊主、百発百中などなど。特撮映画ではないときは見ないことも多かったですけど)
 円谷監督の戦争映画を初めて観たのはこの番組でです。(あ、『世界大戦争』も戦争映画に含めるかどうかですが)
 見たことをはっきり覚えているのは『青島要塞爆撃命令』(放送時にサブタイトルとしてニッポンヒコーキ野郎と付け加えられていた。作品選定 をしていた担当者は円谷英二ファンだったのではないか?)『山本五十六』『太平洋の翼』『日本海大海戦』の四本ですね。
 ほかにも大盗賊とか妖星ゴラス、海底軍艦といった渋い(ゴジラシリーズではない)作品が放送されました。

 ということで小6の夏休みに企画したのは近未来戦争もの。
 もー、爆発のオンパレード。
 手持ちのプラモデル一挙放出で裏の空き地を舞台に爆発、炎上の限りを尽くしました。
 手製の火薬なんかも使ったりして。(良い子は絶対まねしないように。犯罪になります)
 一発勝負の爆発カットでうまくいったときの快感を知りましたが、とにかく燃やしたり爆発させたりで興奮していてちゃんとしたドラマにするこ となんかぜんぜんどこかへ行ってしまいました。
 一応設定では戦争がはじまるきっかけとか、戦いがどのように推移して最後になにが起こるのか、という流れはあったのですが、作品の中でどう 伝えるかが解決されないままに特撮カットだけ撮っていったというものだったのです。
 本当ならちゃんと人間の芝居でドラマを見せるべきネタだったのですが、小学校6年生では大人を使って芝居を撮影するなんてとても無理。
 前の年に作った人形アニメのほうがよほどちゃんとした作品でした。
 この小6のときのフィルムはラッシュをつないだ状態で止まっており、未だ完成していません。

 派手な映像作りにうつつを抜かして、劇映画でもっとも大事なことをおろそかにしてしまった極端な例です。

 小学校時代にはまだまだ怪獣映画にからむいたずらや努力のエピソードがありますが、スキップスキップらんらんらん。(もう十分長文なので だーれも読んでないかも。みんなー、ついてきてるかー?)

 中学のころが私にとっては一番深刻な特撮冬の時代だったかもしれません。
 映画館でも上映されないし、テレビでも滅多に放送されない。
 どうやら東京などでは事情が違ったようですが、夏休み冬休みでも怪獣映画、特にゴジラ映画が放送されることはなかったです。
 たまーに、変な時間(たとえば土曜の午後)に大映の特撮映画を放送することはありました。
 土曜の午後1時から『大魔神怒る』を放送するというので、授業が終わったあと鬼のようなスピードで(適当に)掃除を済ませて家に走って帰っ たこともありました。
 ウルトラシリーズの放送もなかったですねぇ。
 新作のほうもゴジラシリーズはともかく、『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』『エスパイ』とつづいた特撮ものが姿を消して寂しい限り。
 このころはカンフー映画ブームで、まあ、私もバカみたいにたくさんの香港映画を見ていましたけれど。
 日本映画界には明るい話題がなくて、角川映画が宣伝戦略だけで映画をヒットさせる技を見せつけはじめたのもこの時期です。
『人間の証明』を見に行きましたが、開巻一番、唖然としました。これは映画なのか?と。当時は細かい分析など出来ませんでしたが、オープニン グ、タイトル、なにもかも安っぽくてテレビドラマを映画館で見せられているような気分になりました。
 私は特撮どころか映画そのものがもうだめなのかと失望して、将来はSF書きになろうかなどと小説を書きはじめていました。

 そして、中学3年のとき。なにやらアメリカで大ヒットしているSF映画があるらしいという情報が入ってきました。
『スター・ウォーズ』という特撮活劇らしいのです。
 すでに小難しいSFをたくさん読んで、SFと呼ばれるものにはちょいとうるさくなっていた私は『スター・ウォーズ』には冷淡でした。
 あらすじを見るとどうにも思索性がなさそうだし、登場する宇宙人もなんだか粋じゃない。(ウルトラシリーズの成田デザインとの格差は大き かった)
『スター・ウォーズ』は情報が入ってきてから日本で上映されるまで一年近く待たされました。
 その間に東宝があっという間に『惑星大戦争』なんて即席SF映画を作ったりなんかして。
 あまりにも安易な企画のように思えて、『惑星大戦争』(77年12月公開)は見に行きませんでした。小遣いに余裕がなかったことと、受験生 という立場だったので映画なんか見てられるかというポーズもあったかもしれません。
 あまりまじめに受験勉強することもなく1978年を迎え、『スター・ウォーズ』より先に『未知との遭遇』が封切られ、受験に失敗して浪人が 決定し・・・・。
 そのとき、東宝がやってくれました。
 結果的に一度きりになりましたが、チャンピオン祭りの復活です。
 メインは『地球防衛軍』!!
 おりからのSF映画ブームに乗っかった企画であるのは明白ですが、私にとっては幻の円谷特撮映画を見るチャンスがやってきたのです!
(実は、小学校2年生のとき平日日中にテレビで放送されたのですが、学校へ行かねばならず涙を飲んだくやしさがありました。あんまり私が嘆く ので、当時の友人がテレビ局へ電話してくれてなんとかもう一度放送できないものかと交渉してくれました。しかし、そんな子供の言うことに耳を 貸してくれるはずもなく、適当にあしらわれて電話を切られてしまったというエピソードもあります)
 しかも、私の住んでいた町の劇場では、おまけ作品として『三大怪獣地球最大の決戦』(チャンピオン祭り版)も上映!(隣町ではおまけが『ゴ ジラ対メカゴジラ』だったので、天に感謝しました)
 浪人決定もなんのその、喜び勇んで久しぶりのチャンピオン祭りを堪能。
 とはいうものの、ようやく見ることが出来た『地球防衛軍』には、正直、こんなものだったのか?という物足りなさを感じたことを覚えていま す。
 同時に『三大怪獣地球最大の決戦』にも、再び見ることが出来た喜びはあるし、とにかくゴジラに会えたという嬉しさもありましたが、なにか物 足りない感じでした。

 そのとき、円谷特撮も時代の進歩には置いていかれるのか、もう古びてしまったのか、と残念に思いました。
 この15歳の私が感じた感覚は非常に重要です。
 当時SFマガジンに投稿した文章でも、私は「日本で本格的なSF映画を作ることが出来ないなら、『地球防衛軍』のようなジョーダンSFを作 ればいいのだ」と実に円谷作品をB級バカ映画であるかのような扱いをしています。
 これは、スターウォーズに始まる映画テクノロジーの変革(まだ封切っていなかったものの、テレビの特番などでスター・ウォーズのハイライト シーンが放送されたし、もちろん未知との遭遇も見ていた)を目の当たりにして、ミニチュア&操演が基本の円谷特撮をテクノロジーの面からだけ 見て時代遅れだと感じてしまったことが大きいようです。
 なんたる不明!!!
 もちろん、相変わらず円谷特撮作品は大好きでしたが、それは自分の積み重ねてきた年月が影響した極めて個人的な好みではないかと考えていま した。
(その判断は後年打ち砕かれる)

 私が浪人生活に入ったころ、ゴジラや東宝特撮に関するムックがちょこちょこと出版されはじめました。世界的なSF映画ブームを受けてかつて 日本にもあったSF映画の系譜を掘り起こそうとする動きだったのでしょう。
 それまでは子供向けの絵本レベルのものしかなかった特撮本に資料的価値があるものが出はじめて私は狂喜しました。(それまでに手に入れてい た比較的まともな資料本はケイブン社の「ゴジラ」という三巻一組のボックス本。この本も手に入れるために艱難辛苦がありましたが・・)
 ファンタスティックコレクションやテレビマガジンデラックス、別冊てれびくんなどをむさぼるように読みました。(をいをい、受験勉強は?)

 そんなとき、ついに『スター・ウォーズ』が日本で公開されました。
『スター・ウォーズ』には冷淡だった私ですが、その後一年近くも待たされてじらしにじらされたためにようやく見られるとなったときには期待が 大きく膨らんでいました。
『未知との遭遇』では派手なドンパチはなかったわけで、円谷特撮的戦闘&破壊シーンに期待するところが大きかったのです。
 たとえストーリーがSFとしては薄っぺらでも特撮スペクタクルがあればそれでいいと思って見に行きました。

 たしかにモーションコントロールカメラを使った合成カットには驚きました。それまでそういう合成カットは見たことがなかったでしょう。
 ストーリーは予想の範囲を超えるものではなく、中盤眠くなる程度。
 映像は・・・・。
 映像テクノロジーに対する驚きが過ぎたあとは、肩透かしの連発でした。
 惑星ひとつを爆破したのに、なんというあっさりした描写。スケール感もなければ破壊のプロセスを描写することもない。
 パルス発射するビーム砲はのっぺりした棒状でフォルムの美しさもない。
 敵の要塞であるデススターを破壊するためにあれやこれやと苦労しているのに、その爆発があんなもんかい!ドラマの盛り上がりを考えれば、デ ススター爆発の様子はもっと丁寧に描写すべきではないのか。
 円谷特撮での爆破シーンの数々が頭をよぎりました。
 世界大戦争での水爆の爆発はどう表現されていたか?
 海底軍艦がムーの心臓部を破壊したときはどんな様子だったか?
 青島要塞の破壊はどうだったか?
 その他、その他、その他・・・・・・。

 もちろん、スターウォーズの製作者が円谷特撮的映像を目指したわけではないでしょうから、ないものねだりをしても仕方ないことです。
 しかし、ジョージ・ルーカスの感性が一方にあるなら、それとは別の円谷英二感覚もあるということです。

 円谷監督のセンスを過去のものとして葬ることは絶対に出来ない、と確信しました。
(しかし、この段階では私はまだまだ浅い理解しかしていません。円谷特撮のセンスには価値があるが、過去の作品そのものは運用しているテクノ ロジーが古いために映像作品として価値が薄れている、と思っていたはずです)
 そのためにはどうすればいいのか。
 前年に公開された東宝特撮映画『惑星大戦争』が実際はどんな出来だったのか、このときはまだ知らなかったわけですが、少なくとも世間では東 映の『宇宙からのメッセージ』ほどにも話題になっていない。当面東宝がSF映画を作る計画もないようだ。

 ゴジラ。

 ゴジラにはネームバリューがある。ゴジラこそ円谷英二監督の申し子といえる映画キャラクターである。怪獣なら時代に縛られず、どんなストー リーにも適応させられるのではないか。
 円谷特撮の復権のためにまずはゴジラに復活してもらえばいいのではないか。
(このころ、アメリカとの合作でゴジラを復活させようという動きもあったらしいですが)
 などと中学浪人の私が考えてもどーにもなりゃしない時代ではありました。

 そのころのゴジラバカエピソード。
 クリスマスの時期だったと思いますが、母親にお供してデパートへ行ったとき、おもちゃ売り場でリモコンゴジラを発見しました。
 かなりデフォルメされていてお世辞にもカッコいいとはいえない造型でしたが、とにかくゴジラグッズなんて珍しい時代です。
 こりゃ買いだ、と売り子のおねいさんにオーダー。
 包装しようとしたおねいさんは、はたと気がついて、私に
「あ、贈り物ですよね」と確認。
 私はきっぱりと、
「いえ。自分で遊びます」と宣言してリボンなんかつけてもらわずに持ち帰ったのでありました。
 その様子を見ていた母親はため息混じりに、
「まあ、人間、やわらかい部分もないとねえ。その年でゴジラ遊びも、・・・、いいことかもねえ」

(♯2へ続く)




次 へ>>



エッ セイ一覧へ(リンク切れ)

vol8,5
非公式WEB号 外