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ゴジラ50周年
ゴジラ FINAL WARSを 語る掲示板

重 要なのは誰が正しいかではなく、何が正しいかということであるA・L・ ハクスレー


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ファイナルウォーズも終わり ルー等級つつ大臣

2005/01/30 20:01




こ れは何度も書いたと思うのですが今回の映画の最大の問題は北村監督のみならず脚本の三村氏にも問題 があったことがギドラ氏によって次々と暴露されたわけであります。
次々に明かされるにつけて脚本の不備やらまずさが明らかにされるんですから。これは演出だけでなく 映画のシナリオの育成がおろそかになってると思うのであります。
かつて東宝には文芸部がありました。ここで新作の企画やらストーリーが作られ脚本家に発注されるわ けですが今やそれも消滅し映画作りの基本たる脚本の育成すら不可能となってるのです。
更に撮影所スタイルも機構がすっかり代わり外注する始末です。本多、円谷監督が既に他界した打撃も 大きいのですが脚本の関沢、馬淵氏が他界したのはさすがに大きかった・・・。
今回のはコンセプト自体は私は否定しませんし平成ゴジラのワンパターンな対ゴジラの呪縛を解放して くれるものと期待してました。
しかし北村監督はそんな想いをいとも簡単に裏切ってしまったのです。
パワーこそありますが彼には映画監督としての才能が皆無といっていいと思います。馬鹿映画にすら なっていないとも思います。大体映画にすらなっていないのですから。
662
Re:ファイナルウォーズも終わり ルー等級つつ大臣

2005/01/30 20:27




続 きです。たびたび馬鹿映画の代表 としてエド・ウッドの名前が上がりましたが予算がなかったことと有り得ないシークエンスで 馬鹿映画の名将となったのですが少なくともコンセプトは良かった と思います。それに映画にもなってるとも思うし。ですが今回の北村監督の場合センスは良く ても監督としての技量はエド・ウッド以下なのでは・・・。技術が 格段に進歩しデジタルもある今だから目立たないかもしれませんがもろに露呈してました。
パクリばかりで無意味なシークエンスの連続、映画の繋がりを無視した唐突な展開、デジタル 依存でアナログ特撮シーンの繊細さが一番目立った作品でありました。それに加えて音楽の最 悪さもあり前作の「東京SOS」でもここまで酷くないというかマシに思えました。
演出は手塚監督で音楽は大島女史の方がマジに良かったのではないかと。いや最後の作品だか らこそ伊福部氏で締め括って欲しかったと。
あと特撮がどうのこうのというレベルでなく根本的に娯楽映画のレベルに達することが出来そ うなコンセプトストーリーを形成する段階で監督人選を誤ったとしか思えない。
こんなのでは理屈抜きに楽しむことは出来ません。
666
Re:ファイナルウォーズも終わり 殿様ギドラ

2005/01/31 16:43


男性 42歳 O型

シ ナリオ、たしかにまずいです。
そのあたり、間違いなくシナリオライターには責任がありますよね。
ただ、誰がどこに責任を負っていたのか判然としないので、私としてはまずいところを「まず い」と指摘するに留めたいと思っています。

全体を統括しているのは監督ですから最終的に監督の責任を云々することはあるやもしれませ んけれど・・・・。

ゴジラや怪獣へのこだわり心を裏切っている点では「東京SOS」も似たり寄ったりかな、と 思う部分がありますが、
私も全体の仕上がりは間違いなく「東京SOS」のほうがまともだと思います。

音楽に関しては、GFWがあのような映画になってしまうなら伊福部音楽でなかったことで正 解です。
しかし、ゴジラ50周年に伊福部音楽が似合う映画(いや、つつ大臣さんと同様にまともな映 画と言ったほうがいいですね)を作ろうとしなかったこと、それは監督の責任以前に北村監督 採用を決定した人に問題がある。
伊福部音楽云々というのはゴジラファンとしての発言でありまして、GFWの問題はそこにと どまらない・・・・。
672
Re:ファイナルウォーズも終わり ルー等級つつ大臣

2005/01/31 21:36




シ ナリオもまずい、演出もまずいとなるとここまで来るともうプロデューサー自体がそもそも娯 楽映画のノウハウや大人としての分別が欠如してるとしか思えないのですが・・・。
こんなところにも撮影所システムの崩壊が見えてしまっているとは・・・(絶句)。
確かに伊福部音楽云々の問題はゴジラファンとしての意見ですよね。
音楽が良くても肝心の映画がああだと下手に伊福部音楽でなかった方が良かったと思いました (というか考え直した)。
もし田中プロデューサーがご在命だったらこの作品のシナリオを見てどう思ったこと か・・・。円谷、本多両監督がご健在で作品を見たらと想像すると確実に激怒ものだと思うの ですが。
まずいシナリオに少なくともNO!といえるルー・グレイドのようなお偉方がいれば今回のシ ナリオは間違いなく没にされてたのですがそんな人は今の東宝に不在だったんですね。そして 監督の育成能力も。
671
Re:ファイナルウォーズも終わり ねろんガボラ

2005/01/31 21:35


男性 20歳 A型

ま あ、どうしてここまでいいかげんなのか、と言えば、「調べるのが面倒くさいから」なんで しょうね。大衆に見せる作品なのですから劇中の事例や科学考証に対しての綿密な取材、調査 は必須、しかし好きでもないものを調べるのは面倒だ、じゃああてずっぽでいいや、という。

 僕も趣味で漫画をよく描きますが、取材や調査のたぐいは全く行いません。恥ずかしいこと ですが、理由は上に挙げたのと同じです。最近のゴジラ映画の関係者やスタッフもそれは同じ なのでしょう。

 好きでもない、楽しくもなんともないことを無理やりするのが仕事なんですよね。僕もこん なんじゃいけねえなあ・・・。

  あと、最近の制作者の方々のインタビューとか読んでると、かつてのゴジラが当時の製作者で なければ成し得なかった、というより、円谷時代を踏襲する気その ものがないんですよね。「新しいもの、新しいもの」というばかりで。それだけでいいのか? 少なくとも、昭和ゴジラの無垢さやひょうきんさは確実に黙殺され てます。

 北村監督の起用って、表向きはゴジラ映画に新しい風を、ホンネは海外受けがいいから、 じゃありませんでしたっけ。そのためにあずみ2が金子監督に押し付けられたという話もあっ たような。
674
Re:ファイナルウォーズも終わり Lans

2005/02/01 00:28




> 劇中の事例や科学考証に対しての綿密な取材、調査は必須

えー、組織や軍事についても、もー少し調査をして欲しいものです。
組織や軍事も一種の科学といえます。

旧ソ連などは、軍事を科学的学問の一種として考えてたんですよー。
まあ、そればかりでは駄目ですが…事実、ソ連はそれで破綻しましたしね。
何事もバランスですよ。バランス。

パワーだけでは駄目、理論考証ばかりでも駄目…

理論考証ばかりでは小難しくなり、間口を極度の狭めます。
しかし、パワーだけでは、最初はよくても、
人々の心にはなにも残らずに、すぐに忘れられてしまうでしょう…

多分、私…半年後にはGFWは殆ど記憶に残してないと思います。

ps:
実は、私、ゴードン艦長のキャラ、キライじゃないです。
描写も含めて…
あの程度、破綻した将軍は過去にもいましたから…
パットンやハルゼーとか…

まあ、私の尊敬する方向ではないですが(w
677
Re:ファイナルウォーズも終わり 殿様ギドラ

2005/02/01 16:29


男性 42歳 O型

バ ランスなんですよね。

私は設定の不備をやたらと叩いているように見えるんでしょうけれど、がちがちに科学理論で 固めろと言いたいのではないのです。
ゆるい部分があって良いんです。
ただし、明らかな間違いや必要な説明を抜かすのはやめてね、と言っているのです。

初代・二代目ゴジラの設定って見事だと思います。
ゴジラのような生き物がいるだろうなんて生物学の理論からは絶対に導き出せません。
しかし、人類の生物学が地球生命のすべてを解き明かしているわけではないのですから、科学 理論に反する生き物が出てくる可能性を否定は出来ないのです。
(先頃古生物学の常識を覆す大型哺乳類の化石が出ましたよね?)

GFWは判断材料にならないレベルで科学用語を並べるだけなんです。
人類の科学から割り出せることと人類の科学を超えることの区別がついていないようでもある し・・・。

かっちり固めるところとはじけるところの峻別も出来ていないんだろうなぁ。

げげ。
パットンやハルゼーって、あんなんだったんですか?
680
Re:ファイナルウォーズも終わり Lans

2005/02/02 00:28




> げげ。
> パットンやハルゼーって、あんなんだったんですか?

パットンは戦闘神経症で野戦病院に入っていた兵士を
「根性がなっとらん、なまけ者め!」とぶん殴り、議会で問題にされ
一時期、司令官職から離されてた事があります。

ハルゼーは、レイテ沖海戦で日本空母を全滅させるという
功名に目がくらみ、自分の機動部隊を率い、本来護衛すべき
上陸船団を置いたまま、囮の日本艦隊を全力で追っていきました。

その後、上陸船団が日本主力艦隊の脅威を受けて混乱し
「ハルゼーはどこにいる?」と大騒ぎになってます。

陸海の猪突猛進バカと言えるかもしれません。

しかし、その勢いで指揮下の部隊を強力に引っ張り抜き
米軍を勝利に導いたのも事実です。

2人とも、小手先の作戦よりも、正面から攻撃をかけ勢いで勝利するタイプの将軍ですね。
(とは言っても、ちゃんとした軍人ですから、軍事常識に基づく攻撃を指導しますけどね)

ああ、あと2人とも直感タイプの将軍でもあります。
683
Re:ファイナルウォーズも終わり 殿様ギドラ

2005/02/02 15:40


男性 42歳 O型


> パットンは戦闘神経症で野戦病院に入っていた兵士を
> 「根性がなっとらん、なまけ者め!」とぶん殴り、議会で問題にされ
> 一時期、司令官職から離されてた事があります。

むむ、『パットン大戦車軍団』にその場面があったような・・。

> (とは言っても、ちゃんとした軍人ですから、軍事常識に基づく攻撃を指導しますけどね)

せめてゴードンにそれがあれば・・・。
720
着ぐるみミクロマン三大怪獣ver. 殿様ギドラ

2005/02/14 12:19


男性 42歳 O型

週 末には投稿できずにレスが遅くなりました。
それぞれのスレッドにレスを書きましたのでお読みください。

ここでまたちょっと一休み的に・・。

着ぐるみミクロマン「三大怪獣地球最大の決戦ver.」を買いました。
ゴジラとキングギドラのセットです。
このゴジラ、先に発売されていた初代ゴジラより大きいです。
初代ゴジラはミクロマンのサイズにぴったりの着ぐるみで、ミクロマン・ケンにゴジラを着せるのがなかなか大 変でした。
それがこの三大怪獣ゴジラはミクロマンに対して大きいので着脱が容易。
それはいいんだけれど、キングギドラのほうはミクロマンに合わせたサイズの着ぐるみなので、ゴジラとスケー ルが合いません。
初代ゴジラと並べると良い感じになってしまうという痛し痒しの状態。

でも三大怪獣ゴジラの人形は持っていなかったので満足満足、と。
もちろん初代キングギドラのフィギュアも増えてよかったよかったです。

キングギドラは翼の付け根が柔らかくなっているので胴体を手で持って空を飛んでいるように揺すってやると、
あら不思議、本物の操演モデルのように翼が羽ばたきます。(こりゃえーわい)
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Re:着ぐるみミクロマン三大怪獣ver. ねろんガボラ

2005/02/15 20:00


男性 20歳 A型

> キングギドラのほうはミクロマンに合わせたサイズの着ぐるみなので、ゴジラとスケールが合いませ ん。
 
 サイズが合うゴジラとギドラのおもちゃってなかなか無いんですよね。昭和ギドラがいつも前屈みな のって、画面に収めるためでしょうか。そのせいで肩(無いけど)の位置が低くなってずいぶん背低く 見えちゃうんですよね。


>でも三大怪獣ゴジラの人形は持っていなかったので満足満足、と。
>もちろん初代キングギドラのフィギュアも増えてよかったよかったです。
 
 あの特徴的な「バンザイポーズ」の再現可能にしてほしかった・・・って構造的に無理ですね。


>キングギドラは翼の付け根が柔らかくなっているので胴体を手で持って空を飛んでいるように 揺すってやると、
> あら不思議、本物の操演モデルのように翼が羽ばたきます。(こりゃえーわい)

 いやしかしキングギドラの魅力は、巨大な翼を上下させても全く反動を受けることなく定位置を保ち 続けるたくましい胴体にあり!!揺すってしまっては初代キングギドラの魅力が・・・!!(どうでも いい
731
Re:着ぐるみミクロマン三大怪獣ver. 殿様ギドラ

2005/02/16 15:42


男性 42歳 O型


>昭和ギドラがいつも前屈みなのって、画面に収めるためでしょうか。

一説によると、胴体を斜めにすることで生まれる不安定感であまり動き回らないキングギドラに動的な 印象を持たせているのだとか。
空を飛んでいるときと、地面に立っているときの胴体の姿勢がほぼ一緒なんですよね。
そんな「斜めの魅力」も初代キングギドラだけだったかも。

>  いやしかしキングギドラの魅力は、巨大な翼を上下させても全く反動を受けることなく定位置を保ち続けるたくましい胴体にあり!!揺すってしまっては初代キングギドラの魅 力が・・・!!

ほんとうは胴体は動かず、首・翼・脚・尻尾がじたばたするのがいーんですけどねぇ。
着ぐるみミクロマンキングギドラを「揺する」ときは、視線を胴体に固定して自分の体ごと上下するの がよろしいようです。
728
キルビルvol.1との比較 殿様ギドラ

2005/02/15 14:30


男性 42歳 O型

『ゴ ジラ ファイナル・ウォーズ』と『キルビルvol.1』との共通点として、暴力描写が多いこと や他の映画からの引用が多いことが目立ちますが、
劇映画としての作法を考えると時間・空間感覚の特殊性、セット美術の嘘くささ、ストーリー設定 の説明不足という共通点のほうがより重要です。

時間・空間感覚の問題は簡単です。
『キルビルvol.1』は冒頭の「復讐二人目」以外はすべて主人公の回想で成り立っています。
ですから、時系列や空間移動がスムーズに繋がっていなくても観客が混乱することはありません。
他人の記憶を覗いているわけですから、シーンごとに断絶していても納得できます。
(さらに字幕でシーンが飛ぶことをはっきり表明している)

ところがGFWではどこから現れたのかわからない人物や時間経過があっても変化のない事態、移 動に要した時間を感じられないことなどを納得させる前提がありません。
あくまでも形の上では事件の発端から終結までを時系列に沿った見せ方をしているのにかかわら ず、時間経過や空間の広がりを感じさせることがありません。
この問題は劇映画として根本的な欠陥です。
しかし、実際にこのような映画が作られ、違和感を感じない(と思われる)観客の存在がありま す。
大袈裟かもしれませんが、ゴジラがどうだとか映画がどうしたという問題を超えた断絶を感じまし た。

つづいて、GFWも『キルビルvol.1』もセットがウソくさい。
ありうるかもしれないもう一つの現実を描くならセットにはリアリティが必要。
しかし両作ともそのすべてではないにせよ、セットを組んだ場所には「現実味」がない。
通常劇映画を見るときは、作り事とわかりながらも劇中の出来事を現実であると積極的に錯覚して 鑑賞するわけです。
そんな観客の志向を補強するために「あり得る舞台」を作り出すのが通常のセット。
これはファンタジーなどの幻想作品でも同じことで、その世界設定から導き出されるリアリティを 追求するのが通常です。

多分『キルビルvol.1』の嘘くささに拒絶反応を示してしまう観客もいるでしょう。
しかし、『キルビルvol.1』では冒頭の段階でセリフの中にある主人公の名前をいわゆる 「ピー」で消すということをやっています。
ここに何を感じるべきか。
ひとつは主人公から客観性を奪うこと。
もうひとつは作品全体が作り事であるという主張。
名前を持つことによって人は他者と区別されます。
その名前を消すことでこの映画の主人公は強烈に主体性を発揮します。フィルムが主人公の行動を 「観察」しているのではなく、主人公の意識とフィルムが一体であるということです。
また、編集段階で手を加えたことが明らかになる「ピー」を入れることで、作り手の意志が明確に 反映していることを感じさせます。
作者がすべてをコントロールしており、出来事の自然な流れを見せるつもりはない、と宣言してい るようなものです。

そんな枠組みで展開されるストーリーは「ありうるかもしれないもう一つの現実」ではなく、ある 特定の人物の内世界ということになります。
画面に映し出されるものは心象風景なのです。(主人公の回想であることも心象風景としての成立 を補強している)
ですからウソくさくて構わないのです。

GFWには嘘くささを納得させる前提の提示はありません。
それどころか、冒頭のナレーションからは我々の現実世界とは違った「もう一つの現実」を見せま しょうという意志を感じてしまう。
多分、GFWには作者の心象風景をぶつけた部分があるのでしょうし、それは『キルビル vol.1』と同じなのでしょう。
ところが通常の物語とは違うよというはっきりした宣言もなしに、客観と主観の間を行ったり来た りしているのでは「作」品ではなく、素材でしかありません。

また、嘘くささが共通だと言っても、GFWと『キルビルvol.1』では方向が違います。
GFWのテレビ局スタジオや国連会見室、データルームなどなどのウソくさいセットからは空虚な ものしか感じません。
『キルビルvol.1』のジェット機、その機上から見える町並み、クライマックスの料亭(?) にはウソゆえの派手さがあります。
この違いは大きいです。

つづいて設定の説明不足。
GFWは説明不足というよりも設定の不備と言った方が良いかもしれませんが、『キルビル vol.1』と同様なのは観客が納得するに足る説明がないということです。
『キルビルvol.1』では、主人公が復讐しなければならない理由がついに明かされません。
主人公とビルとの関係や彼女がなぜ殺されそうになったのかは観客の想像に任されっぱなしで、あ の凄惨な殺人の連続を応援したくなるような詳しい説明がありません。
通常ならストーリーの動機になんにも説明がないというのはとんでもない欠陥です。
(GFWにいい加減な説明しかないことはとんでもない欠陥である)
しかし、タランティーノは周到に枠組み作りをやっています。
冒頭、二人目への復讐を果たしたあとに(相当ウソくさい)武士道とは何かという千葉ちゃんによ るナレーションがあります。
この中で、「戦うと決めたら邪魔をする者は何でも斬れ。たとえ神であっても斬れ」という意味の ことを言わせています。
神をも斬れ、という言葉にすべてが込められています。
倫理や正義は関係ないのだ、と。
理由を問うな。敵を斬れ。というお話なのだと宣言しているのです。

暴力から意味をはぎ取って純化しようという意志が汲み取れました。
(リアリティがないとはいえ、肉体感覚へのこだわりも随所にあって暴力が肉体を傷つける行為で あることも強く表現している)

ですから、『キルビルvol.1』での説明不足は作品の欠陥ではなく、動機を説明することが作 品の意図と反するから削除されたのだと受け取れます。
ひるがえってGFWは?
詳細分析でさんざん指摘したいい加減な説明が作品の目的に合っていたとは思えません。
GFWにおいては、万人が納得できる合理的な設定があったほうがより面白さが増したはずです。

映画の楽しみのうち最大の部分は、目で見て耳で聴く体験によるものでしょう。
激しいアクションや怪獣の大暴れがハイライトになります。
突き詰めればストーリー上の必然性よりそんな絵柄のほうが大事なのでしょう。
といっても、人間には理性がありますから納得できないストーリーの中でどんなに見せ場が連発さ れていても「納得できない」という思いが邪魔をして効果は半減です。
(このあたりの受け止め方は個人差が大きいのでしょうけれど)
もし、理由付けなどの段取りを省略して本当に見せたいものだけ抽出したいなら、『キルビル vol.1』のようにきちんと枠組み作りをしなければなりません。

もう一点、GFWとの比較からは離れますが、『キルビルvol.1』で感心したこととしては、 劇中ではっきりと子供には見せないものだと描いていること。
冒頭の対決をリアリティ優先で考えれば、主人公が子供の前だからと戦いをやめる理由がありませ ん。
しかし、彼女もその敵である母親も子供の前では決して殺し合いをしようとしない。
ここにタランティーノの倫理観が見えます。
これから暴力三昧の映画を見せるけれども、それは未熟な者が見てはいけないものなのだ、と。

最後に補足。
このように『キルビルvol.1』は緻密な計算の上に作られた傑作だと思う私ですが、では、 『キルビルvol.1』が好きな映画かというとそうではありません。
監督のこだわりや映画作りの技を楽しみはしましたが、連続する暴力と飛び散る血しぶきには辟易 しました。
好き、嫌いに二分すると嫌いな映画です。
それが好き嫌いということ。
『ゴジラ ファイナル・ウォーズ』も嫌いな映画ですが、好き嫌いとは別にして駄作だったと判断 するのです。
732
音楽について 殿様ギドラ

2005/02/18 10:31


男性 42歳 O型

さ て、それでは音楽についての話をこのスレッドにまとめましょう。

と考えてGFWの音楽のことをあれこれ考えてみたのですが、なんとまあひっかかりの少ないこ と。
なんにも心に引っかかってこないという点から音楽がダメだったと言ってしまうのはたやすいこと ですが、それでは芸がなさ過ぎるのでなんとかコメントしてみます。

「シナリオ・絵コンテを読みながら」の中でもある程度は触れていますが、全体に「安っぽい」で す。
これは感情を揺さぶるタイプの曲がほとんどない、ないし、まったくないからでしょう。

最初に聞こえるゴジラ対旧轟天でのBGMもゴジラの主題的になんどか使われる曲ですが、ゴジラ の印象(巨大感や野性味など)を補強することはなく、抑制された緊張感を感じさせるにとどまっ ています。
この抑制された感じというのが、シーン全体をそのあとに控える「何か」のための予兆としか感じ させないです。
(言いたいことが伝わるでしょうか)
その意味では冒頭のシーンで使われるのは正しいのですが、その後ゴジラ対クモンガ、カマキラス やカイザーギドラへのゴジラの逆襲で聞こえてきても効果的ではなかったです。
見せ場であるという感覚が醸し出されないのです。

またこの曲には人声コーラスが使われています。
そうなると怪獣ゴジラの主題には聞こえないです。
(過去、バランや東宝キングコングなどには歌つきの音楽が当てられたことがありますが、それは 人から神と見られていた怪獣だからでしょう。ちなみに歌が有名なモスラですが、怪獣モスラその もののライトモチーフには歌は入っていません)

そして作品全体の主題曲と思われる音楽。
オープニングナレーションのBGMであり、エンディングにも聞こえる曲。
スケール感を出そうとした曲調なのはわかりますが、低域の音が少なく力強さもないので怪獣映画 の主題曲とは思えません。
上滑りしていました。
(ゴジラファンなら伊福部音楽の「大きさ」と「力」を知っているはず。なにも伊福部音楽と同じ ようなメロディである必要はないけれど、曲が醸し出す感情には同等の「大きさ」や「力」がない と過去の作品と比べたときに見劣りしますよ)

そんな主題曲とは別にタイトルバック専用の音楽もありました。
『ゴジラ』の主題曲をアレンジしたと思われる曲ですが、お手軽なリミックス版みたいでしたね。
これまた安い、軽い。
まるでゴジラを感じさせることがありません。
(そもそもあのドシラドシラはゴジラのライトモチーフではない)

次にある程度印象に残っているのはM機関対エビラや新轟天発進シーンに聞こえていた曲。
軽快な音楽で、それ自体は悪くはなかったかもしれません。
しかし、GFWに使う映画音楽としてはどうでしょう?
M機関対エビラはまあ、主体がM機関なのであれでも良かったのかもしれませんが、
新轟天発進に使われてもピンと来ません。
地下ドックから地上へ向かうスピード感の表現にはなっていたと思いますが、では、大型メカ新轟 天の存在感は?
そのあと、風間の特攻にも使われていましたね。
これも突っこんでいくドッグファイターのスピード感しか表現しえていなくて、死を覚悟した風間 の心情を感じさせることはありません。

映画音楽の効果に関する認識が非常に甘いんじゃないかと思いました。

あるいは作品の前半部でしか作曲していなくて、後半は前半の曲を適当に当てはめただけか?
(大島ミチルさんのゴジラのテーマ曲も結局は『ゴジラ×メガギラス』冒頭の大阪戦に合っている だけで、ゴジラそのものを表現してはいない)

上記に挙げた曲以外はスーパーマーケットのBGMのように「お邪魔はしませんけど静かだと寂し いのでとりあえず鳴らしております」というレベル。
演出の一端を担うことがありません。

GFW全体の評価を考えたとき、音楽がダメだという一点だけで駄作であると言っても良いぐらい です。
映画音楽を軽視してはいけません。
作品全体の出来不出来に大きく関わります。
733
Re:音楽について ルー等級つつ大臣

2005/02/19 20:41


男性 33歳 AB型

そ うなんですよね・・・。
普通のロックとして聞けばそれほどというかまずまずキース・エマーソンの音楽として悪 くはないんですが・・・。
ゴジラの巨大感、躍動感、映画のシーンの情報量を補完するという映画音楽の観点から見 たらまるで駄目な音楽ですね・・・。
簡単に切り捨てるのは簡単かもなんですが人間の感覚で一番原始的かつ無防備なのは他で もない音楽ということです。
伊福部先生はその点からの観点で作曲をなされゴジラに限らず怪獣キャラクターにはデザ インから検証しキャラクターに合わせて怪獣のテーマを作曲したとの事です。
それに某映画の時に映画の参加者としての音楽を作曲してほしいというオーダーがあり伊 福部先生は誠実になさってます。
その伊福部先生のスピリッツたる部分が皆無なGFWの音楽はそれだけで駄目な代物で す。
(実はもうこの作品に関しては無かったものと黙殺しかけている私でした)
キース・エマーソンにこの「映画の参加者としての映画音楽」という意識はあったので しょうか?
それに北村監督にも言えるでしょう。
彼は「映画音楽」についてきちんと理解していたのだろうか?と。
喧しい音楽さえ映画に流していればいいという意識しかないのではないか?と。
734
Re:音楽について レグルス

2005/02/19 22:04


男性 28歳 A型

> またこの曲には人声コーラスが使われています。

全然記憶にないですね…(^^;)

> オープニングナレーションのBGMであり、エンディングにも聞こえる曲。
> スケール感を出そうとした曲調なのはわかりますが、低域の音が少なく力強さもないので怪獣映画の主題曲とは思えません。

世界観説明のバックになら、まだいいとは思うんですが、
エンディングについては、
(何度も書いてますが)
ゴジラ映画どころか、映画音楽としてあり得ないチープさ。
いまどきゲーム音楽でももっとちゃんとしてますよ…(;_;)
チープなメロディをおまけにえんえんループするもんだから、発狂しそうになりました。

> そんな主題曲とは別にタイトルバック専用の音楽もありました。
> 『ゴジラ』の主題曲をアレンジしたと思われる曲ですが、お手軽なリミックス版みたいでしたね。

ここだけは画面的に唯一伊福部節を流せるところだったんですが…。

たぶんそうであっても作品全体からは浮きまくるでしょうし、
伊福部先生に失礼ですから、結果的に使わなくて良かったんですけどね。

> (そもそもあのドシラドシラはゴジラのライトモチーフではない)

それはいいんじゃないですか?憤り余ってなのは分かりますけど(^^;)
伊福部先生ご自身も(不本意ながら?)
『メカゴジラの逆襲』~『VSモスラ』ではゴジラのテーマとして使ってますし。

> 次にある程度印象に残っているのはM機関対エビラや新轟天発進シーンに聞こえていた曲。
> 軽快な音楽で、それ自体は悪くはなかったかもしれません。

> そのあと、風間の特攻にも使われていましたね。
> これも突っこんでいくドッグファイターのスピード感しか表現しえていなくて、死を覚悟した風間の心情を感じさせることはありません。

“死”が軽いんですよね…。
バカ映画、ヤクザ映画だからしょうがないのかもしれませんが、
ヤクザ映画でもこういうシーンは(スローモーションとかで)劇的に演出しますよね…?

> 上記に挙げた曲以外はスーパーマーケットのBGMのように「お邪魔はしませんけど静かだと寂しいのでとりあえず鳴らしております」というレベル。
> 演出の一端を担うことがありません。

『GFW』の音楽は、ハリウッドの映画音楽の悪いところを体現したものであろう、
と思っています。
ロック歌手の曲をバックに流したり、
オーケストラは大変なので、とりあえず電子音のビートの勢いで盛り上げる、
というような手法ですね。

北村監督の“ハリウッド風”という演出意図にはしっかり合った
音楽がついていると私は思いますよ。良くも悪くも、ですが。

逆説的に言えば、
殿様ギドラさんの指摘されている映画演出技法/作法に忠実に作られていれば、
今回のキース・エマーソン音楽では負けていたと思います。
悪口風に言えば、
「あんな映画だからあんな音楽でも、音楽だけ変に聞こえない」
ということでしょうか(^^;)

『GFW』許容派の私としては、音楽も「こんなもんだろう」という感じです。
音楽“にも”期待していない、というか…(^^;)
735
Re:音楽について 殿様ギドラ

2005/02/21 14:27


男性 42歳 O型

ど もでーす。

>> (そもそもあのドシラドシラはゴジラのライトモチーフではない)

>それはいいんじゃないですか?

いやいや、世間のイメージがゴジラと言えばあのメロディに固定されているのは解ってい ますし、
確かに伊福部先生ご自身、そんな世間の期待に合わせるようにゴジラにそれを使ったこと もあるわけですが、
私としては本来のゴジラのテーマ曲がなんだったかを愚直なまでに訴えることで世間の間 違ったイメージを正したいと思っています。

(かつてゴジラの出自と言えば、核実験の放射線で恐竜の生き残りが変異したものだとい う設定がまかり通っていました。それは『ゴジラ』の内容をきちんと受け止めていない人 がその他のたくさんの怪物映画から影響された先入観をゴジラにも当てはめた結果でしょ う。
で、私はwebで発言するようになってからことあるごとにゴジラは突然変異ではないと 言い続けてきました。
私の主張が浸透したのかどうかはわかりませんが、ここ最近のゴジラ解説文にはかつての ような誤解が少なくなってきたように思います)

GFWの音楽がハリウッド映画の音楽がダメな作品に似ているということは言えるかもし れませんね。
サントラ盤(持ってないけど)の曲目リストを見ると、キース・エマーソンが多く作曲し てはいるものの、森野宣彦・矢野大介(北村映画の常連作曲家らしいですね)という人も 少なからぬ曲数を提供していますね。
一体誰がGFWの真の音楽担当なのか・・。(作曲しただけでは映画の音楽担当とは言え ない)

>殿様ギドラさんの指摘されている映画演出技法/作法に忠実に作られていれば、
>今回のキース・エマーソン音楽では負けていたと思います。

これはおっしゃるとおりだと思います。
しかしながら、現状のGFWの音楽がアレで良かったとは思わないです。
映画の仕上がりに合わせるなら、SUM41ばりの曲を全編に渡ってもっと大音量で鳴ら したほうが効果的だったと思いました。
(ただし、その場合、人間ドラマがありそうに見えるかったるいシーンはとことんカット しなければなりませんが)

そうすれば、私もMTVビデオクリップ的に見ることが出来たかもしれません。

ルー等級つつ大臣さんが提示した、
「映画の参加者としての映画音楽」という発想が非常に大事です。
GFWは音楽が積極的に映画を作っていくという考え方を持っていたとは思えない仕上が りです。
音楽監督などという看板を背負わされてしまったためにキース・エマーソンの名前ばかり 前面に出てしまいますが、どうもキース・エマーソンだけの責任ではなさそうな気 が・・・。
(北村組の森野・矢野両氏が臭いなぁ)
736
Re:音楽について レグルス

2005/02/21 18:54


男性 28歳 A型

> 私としては本来のゴジラのテーマ曲がなんだったかを愚直なまでに訴えることで世間の間 違ったイメージを正したいと思っています。

なるほど、そういう意図で仰有ってたのですね。
私はこの掲示板のレベルの高さに合わせて、
敢えて反論(?)させて頂いたのですが。
(普通の映画掲示板なら、たんに賛成票を投じるだけだったと思います)

> GFWの音楽がハリウッド映画の音楽がダメな作品に似ているということは言えるかもしれませんね。
> サントラ盤(持ってないけど)の曲目リストを見ると、キース・エマーソンが多く作曲してはいるものの、森野宣彦・矢野大介(北村映画の常連作曲家らしいですね)という人も 少なからぬ曲数を提供していますね。
> 一体誰がGFWの真の音楽担当なのか・・。(作曲しただけでは映画の音楽担当とは言えない)

このあたりもハリウッド的ですよね。
期せずして、と言ったほうがいいと思いますが。

ハリウッドのスタイルでは何人もの作曲家に曲を作らせて、
いい曲だけをつまんでハメていくそうです。
ものの本で読んだのですが。(現在もそういう作品が多いかどうかは詳しく知りません が)

まあ監督の意向がはっきりしていて、作曲家との息も合った、ちゃんとした作品では
そんなことはせず、一人の作曲家でやっているはずですが。

> 映画の仕上がりに合わせるなら、SUM41ばりの曲を全編に渡ってもっと大音量で鳴らしたほうが効果的だったと思いました。
> (ただし、その場合、人間ドラマがありそうに見えるかったるいシーンはとことんカットしなければなりませんが)
>
> そうすれば、私もMTVビデオクリップ的に見ることが出来たかもしれません。

なるほど、まだまだ手ぬるい、というか、
やはり音楽だけみても演出志向が徹底していない、ということですよね。
740
Re:音楽について 殿様ギドラ

2005/02/24 12:21


男性 42歳 O型

レ グルスさんはGFWを楽しんだのに、私の意見がなにもかもにケチをつける結果になって いるのが心苦しいところです。
そして、私のGFW評がぼろぼろなのにきちんと投稿してくださることに感謝していま す。
(多 くの人は管理人と意見が違っていると傍観者になってしまうようです。いちおう表明して おくと、このギドラの巣特撮祭は殿様ギドラも一参加者であって、投稿 者を選別コントロールすることはありません。私に対する批判・非難も一切削除していな いのは過去の特撮祭ログを見て頂ければ解ります。
しかし、私も一参加者であるということは司会者に徹するわけではないということであり まして、自分の好き嫌いを抑えることもないということです。ま、その、そんな運営方針 に賛成できない方が投稿しないのは当然ってことですが)

ハリウッド映画でも挿入歌はあるとしても、それなりのメジャー作品なら一人の音楽監督 が全体の音楽設計を統括していると思いますよ。
C級・D級(そんなのあるのか?)作品となると適当にどこかから引っ張り出してきた音 楽を当てはめているだけのものもあると思いますけれど。

まーしかし、GFW、キース・エマーソンを引っ張り出したことだけで満足してしまって 音楽演出は投げやりだったように感じました。

さてさて、音楽についてもっと言いたい方はいらっしゃいませんか?
742
Re:音楽について KJ

2005/02/24 20:44


男性 37歳 B型

い らっしゃいます(笑) ひさしぶりにお邪魔しまっす。

挿入曲やら作曲家の選定・音楽の使い方から考えても、結局GFWスタッフ
は映画における音楽の重要性すら軽視していた(或いは判ってなかった)
という事ではないでしょうか。

今更ながら、かつての東宝特撮は本当に音楽家に恵まれていた、と
感じます。
その音楽に対する好みは別にして、熟練の技量・音楽設計の誠実さ・
楽器(音響物理学)に対する造詣の深さ・音楽家としての基本能力及び
その矜持などなど諸々の要素を考えると、果たしてキース・エマーソンに
限らず、伊福部昭と同レベルの作曲家が何人いるか?という事に尽きる
かと。
(もう、ここは敢えて断言させて頂きます)

「この世ならざる者」には無調の音楽を・南洋の孤島のシーンで必要と
あらば、作詞から現地語で作り上げ、怪獣の重量感・個性・スピード・
存在の背景までを視野に入れた音楽設計を行う(モスラやVSメカゴジラが
良い例ですね)etc.数え上げればキリがないですが、若くして国際的
な舞台に躍り出た日本を代表する作曲家が、「たかが」怪獣映画にそこまで
付き合ってくれた事を、東宝スタッフは今更ながら感謝すべきでは
ないでしょうか。もちろん「されど」怪獣映画、ですが。

(少なくとも昭和作品においては)決して画面から一人歩きする事もなく、
そうあるべき音楽を、必要な場面に、魅力たっぷりに作り上げてきた伊福部
先生の仕事っぷりと比べると、GFWは・・・もう論外。
これは音楽タイプの違い云々以前の決定的な欠陥です。

かつてのゴジラ(以外でも)では、個性的でありながら簡単明瞭かつ
豊潤な音楽世界が存在しました。

例えば画面や物語の素晴らしさで、音楽そのものや音楽を付けるタイミング
のマズさ等が誤魔化せていれば、まだ救われるんですが、GFWは音楽も
含めて全てが好き勝手・バラバラ感満載・残ったのは散漫感だけ、といった
感じでした。

言ってしまえば、ハリウッド一流のタイトルクレジットメーカーや
アメリカメジャーどころのアーチストを参加させただけのところで
決して海外に誇れる作品には成り得ない、という事ですな。

本当にGFWに対する製作側の意識の低さ・発想の貧困さには
呆れ返ります。
「予算タップリ・大作感満点・出来は赤点」のかつての70年代大作ブーム
に乗っかったその他大勢のトホホ作品と変わんないですよ、これじゃ。

伊福部先生も言っておられるように、この手の作品につける音楽は、基本的
には誤った芸術論や小難しい観念を必要としないものなんだと思いますが、
それは、取りも直さずその作曲家の、音楽的感性の本質・或いは実力が
白日の下に晒される機会でもある、という事です。
キース・エマーソンも、黙ってプログレロックの新作アルバムでも作って
りゃ良かったのに・・・おとといきやがれっ!!て感じですな。
(まあ、本質的には彼の責任では無いんですが)

まあ、日本作曲界における「孤高の巨匠」と比較して論じるのは可哀想
だとは思いますが、現在の日本映画界のシステムの問題でもありますね。

話がまとまらずすいません。伊福部御大について書き出すと、何行あっても
足りませんのでひとまずこれ位にしておきます。
744
Re:音楽について 殿様ギドラ

2005/02/25 22:05


男性 42歳 O型

ゴ ジラ映画の音楽を考えると、どうしても伊福部昭という天才との比較をせざるを得なく なってしまうんですよね。

ゴジラがここまで「大きな」キャラクターになったことには伊福部音楽の力も相当寄与し ているはずです。
(大魔神も日本人なら大多数が知っているけれど、それも伊福部音楽の強烈な印象ととも に刷り込まれているのでは?)

伊福部先生ほどの音楽家は滅多に出現するものではありませんから、まったく同等のクオ リティを求めるのは酷なのかもしれません。
とはいえ、すでにお手本がある分野なんだから、方法論が見つからないなら伊福部怪獣映 画音楽を研究するぐらいのことはやって欲しいものです。
738
『ゴジラFINAL WARS』の感想 エクセルシオール

2005/02/23 13:17


男性 25歳 A型

  ほぼ1年ぶりの投稿です。とても遅れてしまいましたが『ゴジラFINAL WARS』を観て感 じたことを書きます。

  まず、2時間退屈はしませんでした。いわゆるミレニアムシリーズの中ではもっとも面白い作品で あったと思います。しかし、その「面白さ」の中身を考えると 少し考え込んでしまいました。この映画からは何か歴代東宝特撮映画の総集編をパロディにしたよ うな印象をうけました。たしかに華やかでよいところもあるの ですが、いったい内容があるのだろうかと考えるとかなり疑問です。この映画、たしかに面白いの です。でも、ストーリー映画としての面白さというよりも、ア トラクションとしての面白さではないかと思いました。
 次に映画の表現描写に他の作品の表現にきわめて類似した表現が多かったのが気にかかりまし た。例えば冒頭のマンダ対轟天号、からみついたマンダを海底火山におしつけて引き離すという シーンは、テレビアニメ『ふしぎの海のナディア』あったノーチ ラス号と巨大オウムガイとの闘いそっくりでしたし、また、宇宙人がまばたきしないというのもマ イケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『ザ・ビッグワ ン』でそんなシーンを観ました。その他、X星人母艦内部の空中戦は『スターウォーズ』ですし、 正直なところ映画を観ながら「パクリばかりではないか?」と 思いました。私はもちろんそのような表現を否定するつもりはありません(あまりガミガミいうと 映画が作れなくなる)。でも、そればかりで独自性がないのは 困ります。この映画ではどっかでみたシーンは多かったのですが、この映画独自のものはあるのか と思うと疑問でした。
 三番目に怪獣描写についてで す。ゴジラについてはあまり不満はありません。むしろ久しぶりに強いゴジラを観たという印象で す。しかし、それ以外の怪獣はいただけません。「アンギラス サッカー」はご愛嬌としても、アンギラスにせよラドンにしても単なる雑魚に成り果てており、ゴ ジラと同レベルの怪獣という印象を持っていた私は少しショッ クでした。キングギドラ(カイザーギドラ)については、足を4本にしたのがあだになり、すっか り全体のバランスを崩していました(おまけに弱い)。その他 の怪獣も不満だらけですが、最悪なのはヘドラです。いったい何のために出したのかまったくわか りません(登場時間一分足らず)。ヘドラは重いテーマとス トーリーあってこその怪獣であり、それを単なる顔見せに用いたことはどうしても納得できませ ん。北村監督は正義のゴジラが好きと聞きましたが、それならば いっそのこと「ゴジラとその仲間がキングギドラに挑む」にすべきだったと思います。
 人間ドラマについては、ほとんど何もないといっていいと思い ます。そもそもミュータントなど出す必要があったのか。ほとんどノリと勢いで突っ走った映画で した。繰り返しますがたしかに退屈はしなかったのです。で も、最後なのだからもう少し映画らしい映画にしてほしかった。ただ、ひとつ評価できるのは、見 間違いでないならば、テロップから「協力 防衛庁」の文字が 消えていたことです。近年の怪獣映画は自衛隊に遠慮するあまり怪獣の弱体化を招いていたので、 仮に絶縁したとすればそれはけっこうなことと思います。
739
補足 エクセルシオール

2005/02/23 13:40


男性 25歳 A型

  本当はもっと早く感想を書く予定 だったのですが、かなり遅れてしまい、すみません。今回でゴジラ映画は終わりになるそ うですが、率直な感想を述べれば「復活が早すぎた」と思います。 1995年の『ゴジラVSデストロイア』でゴジラが終わったのに、復活は1999年で した。印象としてはミレニアムシリーズは「ゴジラ」をいたずらに混乱 させたのみでした。もう少し時間をあけるべきだったと思います。今度も4~5年後には 復活との声も聞きましたが、やるならばきちっとした作品をつくってほ しいです。

 最後に今回の映画、南極で凍っているゴジラをミサイルで起こす前に、南極基地の隊員 にせめて避難命令を出してあげてほしかった。「プロレスラーはK1ファイターなんぞ、 どうなってもよいと思っていたのか?」とおかしくなりました。
741
Re:補足 殿様ギドラ

2005/02/24 12:24


男性 42歳 O型

お 久しぶりです!エクセルシオールさん。

そしてナイスタイミング。
GFWの総括に入らねばならないと思っていたところでした。

他作品からの引用が表面的で、GFWの中に溶け込んでいないのは大きな欠陥ですよね。
身体能力に優れたミュータントという設定がマトリックスの真似をするためだけに使われ ているのですから、ストーリーからは浮いてしまうわけです。
(結局、熊坂やゴードンはミュータントと同等かそれ以上に強いし、ミュータントがX星 人と遺伝的に繋がりがあることもなんらドラマに寄与していない。統制官に操られてしま うという展開は統制官の超能力というだけで十分成立してしまう)

退屈はしなかったというのはほぼ皆さんに共通のご意見だと思います。
これは、表現内容もドラマ性もないことが逆に上手く作用したのかもしれません。
人物の関係性や出来事の関連に複雑な構図や深い演出を持ち込めばおもしろさは増します が、そんな要素をうまく感知できなかった場合には意味がわからないために退屈してしま う恐れがあります。
GFWでは演出的な「タメ」など一切なしにとにかくひたすら次へ次へと出来事を進めて いきますから、呆然と見る分には退屈はしないですね。
(ただし、そのため劇的展開はものすごく少ない)
でもここで私は予言します。
GFW、繰り返し鑑賞するなら、きっと人物同士の対話シーンでものすごく退屈するよう になりますよ。(先の展開を知った上で見るとあまりにも中身が無くて対話シーンなど見 ていられなくなるはずです)

それから、作品そのものを見ればわかることではありますが、「協力 防衛庁」の文字が なかったんですね。
防衛庁に協力してもらえば本物の戦車や戦闘機を撮影できるという強みはありますが、作 品の内容に縛りが出来てしまうのがツライところ。
(飛行機が撃墜されるところは描けないとか)
んー、しかし、昔々の作品だと防衛庁の協力があっても戦車や飛行機が破壊されるシーン があったはずだが・・・。

1999年にゴジラ復活というのは、95年のゴジラの死を考えるとあまりにも早いです よね。
それでも98年の「GODZILLA」を受けての復活だったので、営業的配慮からはい いタイミングだったのかもしれません。
惜しむらくは、ゴジラ映画って何だ?というところで迷ったままだらだらと作り続けてし まったことでしょうか。
「2000ミレニアム」以降の迷走っぷりはただごとじゃないです。
そして「ファイナル・ウォーズ」でお終いとは・・・・。
結果論で言えば、確かに1999年時点では作らないほうがよかったですね。(人材不足 なのか?)
743
Re:補足 レグルス

2005/02/24 21:38


男性 28歳 A型

> 身体能力に優れたミュータントという設定がマトリックスの真似をするためだけに使われ ているのですから、ストーリーからは浮いてしまうわけです。

『VSビオランテ』の人間ドラマとしてのアクション、
『×メガギラス』での巨大怪獣と人間の直接対決、
などの延長上で考えてもミュータントをしっかり物語にからませることは
充分可能だったはずですが…。
結局ゴジラがザコを倒すという展開に尺を取られた感じですね。
(尺の問題だけではないですが)

> んー、しかし、昔々の作品だと防衛庁の協力があっても戦車や飛行機が破壊されるシーンがあったはずだが・・・。

『VSキングギドラ』『GMK』のDVDのオーディオ・コメンタリーで言ってました が、
自衛隊/防衛庁の映画への協力姿勢も年々変わっているらしいです。
どうも堅苦しくなったのは『VSキングギドラ』の後のようです。
それまでは宇宙人が出てきたり、F15が撃墜されても文句は言わなかったですよね。

> 結果論で言えば、確かに1999年時点では作らないほうがよかったですね。(人材不足なのか?)

人材じたいはいるはずですが、(樋口慎嗣監督とか)
その人材にやる気があるか、スケジュールが空いてるか、
それほど脚光を浴びていない人材を見つける目があるか、
(平成ガメラの前の樋口監督なんて一般には無名に近かったですよね)
などと考えると、やっぱりトップ/プロデューサーが悪い、という結論になってしまいま した(^^;)
745
Re:補足 殿様ギドラ

2005/02/25 22:07


男性 42歳 O型

> などと考えると、やっぱりトップ/プロデューサーが悪い、という結論になってしまいま した(^^;)

うぐぅ。
短くレスしますと、それだけじゃなく、作品がどんなことになっていても「よっしゃよっ しゃ」と持ち上げるファンの存在も「悪い」のかも。
747
Re:補足 KJ

2005/02/26 21:10


男性 37歳 B型

> > などと考えると、やっぱりトップ/プロデューサーが悪い、という結論になってしまいました(^^;)
>
> うぐぅ。
> 短くレスしますと、それだけじゃなく、作品がどんなことになっていても「よっしゃよっしゃ」と持ち上げるファンの存在も「悪い」のかも。


これ、激しく同意します。言い切ってしまえば、こういった常に
(=ALWAYS)「好意的な」目で見てくれてばかりいる自称ファンの罪は
重大だと思いますよ。
746
総論です。 WARASI

2005/02/26 10:44




ハ イ、私もこの映画についてはもう語りたくもありませんが、とりあえず、シメとして、総論です。
私はこの映画を観て、頭を破壊されました。
つまり脳細胞をオッペケペ~状態にされてしまったのです。

それはどういう事なのかと言いますと、例えば、冒頭の「ゴジラVS海底軍艦」のスチュエーショ ン。
特 撮ファンならば、誰でも想像する夢の共演ですが、普通のセンスならば、なぜこのように至ったの か、、、、という理由をとことん考えてしまうと思うのですよ ね。少なくとも私なら色々考え込んでしまいます。また、そういう事をとことん突き詰めていくの が、物語という物を作る側での醍醐味でもあると思います。

ところがこの映画はなんの説明も無く、メチャクチャ無理やり短絡的にそのコンテンツに突っ込ん でしまう。
前述の常識しかなかった私はそれの常識をひっくり返され、ある意味、感心させられてしまいまし た。ああ、こういう方法論もあるのかと。
逆に、今までの平成シリーズも、やたらこういた屁理屈にこだわり過ぎていて、映画として、流れ が悪かったり、退屈だったりしましたので、最初は新鮮にも感じてしまいました。(でも誰もこれ は鬼門として恥ずかしくてやらなかっただけかもしれませんが。)
で も例えば、デカレンジャーの様な作品としてあくまで、洒落の効いた冗談、パロディチックな作品 ならこの、ムードも分かりますが、この作品はあくまで「ゴジ ラ作品最後の作品」として、流れとしては大真面目に作られたと報じられた作品ですから、昔から のファンもあくまで、その体制で観に来ている作品であるはず です。
そういう雰囲気の中で昔からのファンは、この過去の文化遺産達の粗末な扱い方、映画技法をほと んど無視した方法論、独自性のまったくない映像センスは我慢できなかったはずです。

北 村監督は、この作品で、100%だかの力を出し切ったとかどうたら、言っていたようですが、こ の内容で100%ならアンタの将来、先見えてますよ、、と言 いたいですが(「ごめんね。今回チョット遊んじゃた~。まあ気楽に楽しんでよ~」、、、なんて のならまだ分かりますが、、あ!それでもヒットマンが派遣さ れるか!(笑))
まあ、一歩下がって、この作風が富山Pなんかを含んで確信犯だとしましょう。
としたら、私が考えるに、中途で、バンクーバーで外人の子供が、ゴジラ、ガメラやらコンテンツ はごちゃ混ぜで怪獣ごっこをして遊んでますね。
あのシーンはこの映画の事を全て暗示的に物語っていると思えるんですよ。
つまりこの映画はそういった映画なんですよ、、、て。
あまり大きい子供ならなんですが(僕?)幼児が、ソフビなんかで遊ぶ際にあまり細かいデティー ルを気にするでしょうか?

い きなり、意味もなくゴジラVS海底軍艦だろうと、轟天号から発射されるのが「冷線砲」が「メー サー」でも、ミニラが急にでかくなろうと、細かい事は気にせ ず、自分が思うがままに遊びまくると思うのですよね。つまりこの映画はそういったレベルで作っ た作品ですので、そのように楽しんでください、、、といって いる感じが私には致します。

ですので、この映画をそういった方向性ではある意味、童心に返った、、といった感じで楽しめる 方がいるという事は、別にいい事だと思います。
最初の投稿で述べた様にこの映画の全てを否定するつもりはありません。

ゴジラ映画はこれでなくてはイカン!という決まり事は絶対にありません。

私は旧「ゴジラ」も「モスラ対ゴジラ」「ゴジラ対ヘドラ」「ゴジラ対メカゴジラ」も素晴らしい 作品だと思うし、「オール怪獣大進撃」も子供心をビッビドに描いたファンタジー映画の大傑作で す。私は小学校時代、5回は劇場に足を運びました。今観ても、感無量の作品です。

でも、これだけは言いたいですが、過去の作品達は、描き方はどうあれ、ゴジラや怪獣達、そし て、特撮映画自体に対して、かなりの愛情が感じられました。
たとえ低予算でも、それをフォローするべく情熱がムンムンと迫ってくる何かがあったような気が 致します。
今回の「GFW」は私的には、反論もありましょうが、それのインパクトは大変、薄かったと言わ ざる負えないですね。残念ながら。
そして、これからの世代の方々も、この作品の様な内容だけに満足せず、本当に面白い物語の作り 方や、エキサイトし、カタルシスを感じられる映画がまだまだある事を、過去の作品なんかを機会 があったら、観て貰って分かっていってもらえる事を祈るのみです。

で最後に、気になる事なんですが、私は最初の投稿で、ラストの戦闘シーンで、ピアノ線が露骨に 観えた、、と指摘しましたが、(私はあまり重箱の隅
を突付く様な、意地悪な事はしたくはホントは無いんですが、初日に見た時の露骨さは尋常ではな かったもので、、、)

そ れで、2週間位してから、再度、別の劇場で観なおした所、最初の印象程、露骨には見えなかった んですね。2回目に見えたギドラを投げ飛ばしたシーンの横の 引っ張るワイヤーも最初よりはカット割りが早くなっていた様でよく分かりませんでした。そこで 個人的な憶測ですが、このボケ親父の単なる見間違いであれ ば、バカな話ですが、初日は編集や修正が間に合わず、後日、そのヤバイシーンだけ、フィルムを 差し替えた、、、なんちゅ~事はありえるでしょうか?
この老眼親父の単なるフォローに聞こえるかもしれませんが、何か、最初見た印象とかなり違うよ うな気がしてならないんですよね、、、。


748
総括論 ルー等級つつ大臣

2005/02/26 23:23


男性 33歳 AB型

正 直もうこの作品に関しては語りたくないのですがギドラ氏の締め括りもあって久々に書きます。正 直この映画は私には退屈そのものでした。
特 撮シーンが次々と出て楽しめるかなと思ったら人間ドラマやストーリー展開に工夫のかけらもなく どばどは刺激的な特撮シーンが連続しても即座にだるい物にな り終いには「飽きて」くるのです。ジェットコースタームービーのようなアトラクション的には楽 しめたといいますがこれではジェットコースターに失礼な程の 娯楽性の悪さです。
正月鑑賞のあと一度見ましたが途中で帰りました。
何度も見ているうちにあまりにも退屈なので・・・。
コンセプ ト(何度も書いたのでうんざりですが)は悪くないのですが映画的に最悪な出来で映画には入り込 むのは不可能でした。だらだら洋画パクリで内容がないよう (寒い・・・。)だったので・・・。今考えたら安易にデストロイアの時に完結と言わず二年ぐら いのペースでじっくり製作すればファンも離れずに済んだと思 います。
とにかく脚本の悪い平成ゴジラ作品でマイナスのオーラを炸裂し最後の最後でとどめを刺されたの がこのGFWでした。
749
Re:総括論 ルー等級つつ大臣

2005/02/26 23:37


男性 33歳 AB型

と にもかくにも内容の無い怪獣映画というのも前代未聞でした。
怪獣映画(というジャンルの映画)にすらなってないし作品自体に映画の世界に誘うパ ワーもない。
ただあるのは近年の洋画のパクリをして観客に媚びるだけという適当な態度と怪獣を沢山 出してファンにウケるだろうという安易な態度です。
もしくは考証や設定(や理屈)にこだわり過ぎてさも自分は利口だといわんばかりの傲慢 さです。とにかく面白い怪獣映画を作るというスピリッツが微塵も感じられず適当に遊ん でいればいいとかでごまかす態度が見え見えでした。
750
まだ結論を出すには早いのかもしれませんが 殿様ギドラ

2005/02/28 15:15


男性 42歳 O型

2 月も終わりとなりまして、通常ならこの特撮祭掲示板も終了となるところですが、まだ話し合って おきたいことすべてを消化しておりませんので続行です。
WARASIさん、ルー等級つつ大臣さんからGFW総論をいただきましてありがとうございま す。

レスも含めて私のGFW総括を書いてみます。

以前も書いたことと思いますが、ゴジラ50周年企画としてはそんなに悪いものではありませんで した。
東宝特撮の人気怪獣・メカなどを総登場させて難しい観念などは取り扱わず、派手な特撮シーンの オンパレードにしようという発想だったのだと思います。
それは認めます。
このあたり、ルー等級つつ大臣さんの思いと同様かと思います。

しかし、そんな企画を具体化するための技が壊滅的に欠落した作品でありました。
東宝特撮の「お祭り」にするなら、各キャラクターへの理解と思いやりが不可欠なのにどれもこれ もいい加減な扱われよう。
そのうえ基本的なストーリーテリングも映画演出も出来ていないのですからゴジラ50周年以前に 商業映画として失格。
プロの撮影スタッフや俳優が参加しているのでなんとなく立派そうに見えますが、シナリオ構成・ 演出・編集は映画作りに興味を持ち始めた高校生レベルでしょう。

そんな壊れっぷりを嗤うという楽しみ方もあるのでしょうけれど、それは作品が評価されているわ けではありません。
また、嫌われることを覚悟ではっきり書きますと、
GFWに映画作品としての欠陥を感じない人は映画鑑賞眼がまだまだ未熟です。
(駄 作の欠陥を感知し得ないということは、名作の良さが解らないということである。これは好き嫌い ではありません。映画作品とは作り手から受け手へ何かを伝え るものであり、上手な伝え方をしているものを名作というのです。表現内容が好きであれ嫌いであ れそれとは別に名作・駄作の区別は存在する)

映画としてダメダメなのですから、特撮映画という枠組みで考えても同じこと。
さらに分離して特撮カットの出来がどうだったかという視点は持ち得ますが、記念大作といえるほ どの見事な映像もなかったです。

WARASIさん(746番)へのレスとなりますが、 カイザーギドラをひっぱるワイヤー、私もなんとなくなんですが、初日より後に見たときのほうが 気にならなかったような気がします。
(手直しがあったのかなぁ?でも、全国のフィルムを差し替えたりするとは思えないし・・)

そして、ソフビ遊びではないのか、というご指摘には頷かざるを得ません。(開田裕治さんも同様 のことをおっしゃっていましたね)
それが問題ですね。
お子様のソフビ遊びを金を払って見てしまった客の立場にもなって欲しいものです。
たとえ出発点がソフビ怪獣ごっこでも、「作品」に昇華されていないとおもしろくもなんともない です。
私も怪獣人形やメカフィギュアで遊ぶのは好きですが、映画を観るときにわざわざ知能を停止させ て「ごっこ遊び」のレベルに合わせるほど優しくはないです。
WARASIさんもおっしゃっている、童心に返って怪獣映画を観るということも、100%子供 返りして見ているのでは、その鑑賞には深みがないってことになります。
かつての名作というのは、子供が見ておもしろいし、大人の目で見ても見事な技を感じることが出 来るから名作なのです。
子供は直感的にものの善し悪しを見分けますが、それでも微妙な味わいや複雑な構成を感知するこ とは出来ません。
そんな子供と同レベルの鑑賞を基にして大の大人が善し悪しを語っているというようなことはない と信じたいですね。
(怪獣に感情移入できるかどうかという分かれ目が「童心」のありなしにかかっていると思ってい ます。怪獣という奔放な生き物に自己を見ることが出来るか否か。劇中の人物像やドラマ性などに 関心を持たないことが童心に返ることではありません)

GFW、怪獣映画は子供受けしなければならないという原則を大きく勘違いした作品ではないで しょうか。
子供を楽しませようという発想ではなく、作り手が子供になってしまっただけに見えます。
子供同士だけで流行る遊びというものもありますから、GFWもそういうレベルで子供には受ける のかもしれません。
しかし、それでは子供たちの感性を育むことは出来ません。
子供向け映画ではなく、子供が作った映画というものでしょう。

さて、しかし、「逃げ」をうつのかと責められそうですが、GFWを楽しんだ方を非難するつもり はないのです。
楽しめたことは喜ぶべきでしょう。
私が言いたいのは、欠陥を正すことでもっと多くの人を楽しませることが出来たはずだということ です。
(GFWを楽しめたとしても「名作」だというのはおかしい)

こんなものがゴジラ50周年記念作として公開されたこと、日本映画の衰退を如実に物語っていま す。
低予算のアート系(?)映画には優れたものも出てきているのでしょうけれど、広い意味での 「夢」を見せるべき特撮大作映画にしっかりしたものが出てこないのでは映画復活とは言えませ ん。

と、めちゃくちゃ貶しております。
本心からそう思うのでごまかすつもりはありません。
かつてここまでダメだった映画には一本しか心当たりがありません。
それは今から20年以上昔、某高校の文化祭で見た生徒制作の8ミリ映画。
とにかくピストルを撃ったりナイフで刺したりという暴力のオンパレードで、ストーリーが見え ず、どこで誰が何をやっているのかさっぱりわからないという代物でした。
GFWはそのレベルです。

(レ グルスさんがGFWを楽しめたのだということを考えると、ここまで貶していることに心が痛みま す。レグルスさんからGFWの評価点を書いて頂けると嬉しい です。良かったシーン、カットを挙げるだけもいいです。私の言い分は細かいところまで書きまし たから、もう反論はしませんので)

この掲示板、もうしばらく続けます。(多分3月一杯)
「ファイナル・ウォーズ」の話に区切りがついたら、ゴジラ映画の未来の話をしたいです。
そこでは747番KJさんのご意見にも関わる、「客の 問題」も考えたいです。(自戒を込めて)
751
私のGFW総括 レグルス

2005/02/28 21:12


男性 28歳 A型

『GFW』 の総括
悪かった点は皆さんに同意してその都度書いて来ましたし、
だいたい同じなので、楽しめたところを箇条書きしてみたいと思います。

○旧轟天号VSゴジラ
中尾彬の制服と彼の迫力・存在感。
制服も日本の軍服や自衛官の服装とは違い、まあアニメ的な格好良さかもしれませんが。
いきなりメーサー車が破壊されている、というのは意表を突いていい出だしだったと思い ます。
逆光ということもあってそれほどミニチュアっぽく感じませんでしたし。

○発掘ガイガン
アオリのカットは鉄骨じたいにパースをつけてあるのか、
スケール感が出ていた(数少ない)カットの1つでした。

○ミュータントVSエビラ
後から冷静に分析するとエビラとの殺陣(?)には問題もありますが、
少なくとも見ているさいちゅうは派手な爆発と動きは
いままでの(『ゼイラム』などの)非リアル系も含めた特撮映画にはなかったものです。

○人間のアクション
北村流決めポーズが好きな私には、人間のアクションシーンは割と退屈しなかったです。
(ガンアクションは別にして)
現実的にはありえない敵を攻撃しない戦闘中のシチュエーションも、
“そういうものだ”と思えばハマれるものです。
戦隊ものでの名乗りシーンに「今のうちに攻撃しろよ」と敵を叱咤しつつもやっぱり“燃 え”てしまう二律背反と似たものがあります。

○ゴジラ出現までの展開
畳み方を考えない風呂敷の広げ方、というのは本当は駄作の証明なのですが、
畳めなかった作品でも絶体絶命の状況そのものを楽しんでしまうんですね。
このあたりは、前にも書きましたが、「やおい系」じゃないですが、
物語としての“線”ではなく、場面ばめん、もっと言えばカットごとの“点”の
面白さを抽出して楽しんで、面白くない、へんな場面は“捨てて”鑑賞している、
という鑑賞法を私が身につけてしまっているのかもしれません。

これは多分、私だけではなくいわゆるアニメ世代の現代の若者には
ある程度共通の現象じゃないかと思うのですが…。
でも、これしかできない人もいるかもしれませんが、

ネットを見ているとドラマ、映画、アニメを見ても“萌え”とか“ハァハァ”とかいう反 応しかできない人もいるのかな、と思ったりしますし…。
もちろん若い世代でもしっかりした映画を作る監督も、鑑賞眼のある視聴者もいるはずで すが…。
たいていは古典とか、普通の映画は普通に見られると思いますよ。

『GFW』はそういう新人類が作った新人類のためのゴジラ映画であった、という結論で はいかがでしょう?(^^;)
ただ、これは趣旨としての話で、(映画の基礎知識/技能が伴わなかったために)結果的 には失敗作になったのだとは思いますが。
「その意気やよし」というところでしょうか(^^;)

そういう観点から失敗に終わった原因を考えてみると、
余計な理屈(科学風設定)や人間関係のドラマを入れすぎでしたね。
全編、中尾彬率いる軍団と北村X星人率いる軍団とゴジラ率いる怪獣軍団、
理由なしの三つ巴バトルロイヤルを延々と描く、
とかいうほうが北村監督らしさが発揮できたような気がします。
752
Re:まだ結論を出すには早いのかもし れませんが ねろんガボラ

2005/02/28 21:56


男性 21歳 A型

人 間のシーンが長いのと、怪獣の シーンにメリハリがなくてだらだらしていた以外は楽しかったです。皆さんの否定的な意 見も言われなければ全く気が付きませんでしたし、音楽もとりあえずは かっこよく、僕のような浅はかな客をだまくらかすには充分だったかと。北村さんてわざ と穴だらけの映画作ってるのか、本当に能力がないのか、どっちなんで すかね。

 今の映画界についてはいろいろ理由があるんでしょうが、映画界が新人教育自体を放棄 してるとか、予算の節約のために実景の再現 を放棄してるとか(節約した金をどこに使ってるんだ?)、ファンがモノホン作ってるか ら各人の妄想で足引っ張り合ってるとか、バンダイの圧力で四つ足怪獣 が出せないとか、いろいろ聞きますねえ。

 でも一番の原因はゴジラに対する堅苦しい固定観念でしょうね。ゴジラがシェーして何 が悪い!相 棒連れてて何が悪い!息子がいて何が悪い!歩き回って火吹くだけがゴジラじゃないだ ろ!もっと怪獣という題材を柔軟な発想で料理できる人じゃないとだめで すねえ。関沢さんとか円谷さんとか偉大だ。

 でも大部分のファンはそういうとこはトバして見てるんでしょうね。鈴木監督はゴジラ を飛び跳ねさせて降ろされたし。やだなあ・・・。
753
Re:まだ結論を出すには早いのかもし れませんが 殿様ギドラ

2005/03/01 13:49


男性 42歳 O型

レ グルスさん、早速のご投稿ありがとうございます。

GFWをどのように楽しんだのかを総論としてまとめていただけて助かりました。
私が楽しめなかったからといって、この掲示板全体が貶す一方になることは本意ではあり ません。
楽しめた方の感覚も表明して頂くことでいわば公開当時の資料としてバランスが取れたも のになると思っています。

そしてねろんガボラさんからもレスを頂きましてありがとうございます。

ねろんガボラさんもGFWを楽しんだのでしたね。
(けちょんけちょんに貶してしまって申し訳ない)
>僕のような浅はかな客
とおっしゃられると実に辛いところであります。
うう。言い訳はよします・・・。

>北村さんてわざと穴だらけの映画作ってるのか、本当に能力がないのか、どっちなんで すかね。

どっちなんでしょうね。
この掲示板の15 番投稿(殿様ギドラ)後半をお読みください。
どうも映画の作り方が間違っているんじゃないかと思われます。

ゴジラに対する堅苦しい固定観念が作品の首を絞めているんじゃないか、とは私も思いま す。
ゴジラを語るときに「恐怖」というキィワードのみでしか考えなかったり、逆になんでも ありだと考えてゴジラではないものにしてしまったり・・・。
ゴジラとはどういう生き物かということは円谷時代の作品を総覧すれば明確に描かれてい るんですけどねぇ。
そんな間違いを正していくのは、何度も何度も作品を鑑賞してゴジラについてあれこれ考 えてきたゴジラファンの役割でしょう。

私も「シェー」も「相棒」も「息子」もゴジラの魅力だと思ってます。

(ゴジラの大ジャンプ、私は好きでしたよ。でも、鈴木監督は背びれや放射火焔を赤くし ちゃうからなぁ)
755
Re:まだ結論を出すには早いのかもし れませんが ねろんガボラ

2005/03/03 00:27


男性 21歳 A型

  鈴木監督って「怪獣を登場人物と して演出して」いたらしいっす。これだ、これですよ!!ゴジラ自体に何の存在感も存在 意義も無かった機龍二部作のスタッフに爪の垢を煎じて・・・ってほと んどスタッフ同じ?でもさしもの鈴木監督も怪獣に動物的属性を与えるには至ってないの ね。

 ミレゴジのデザインって何が何でも奇をてらわないといけないみたいなムードがありま したねえ。アメリカ版の影響ですかねえ。僕は背びれとかは気にならなかったです。むし ろ全く稼動しない上半身が気に入りません。体が硬くちゃ感情表現が制限されてしまう じゃないか!!

  この延々と続くゴジラ無愛想路線はもううんざりです。制作者は頭の硬いにわか初代盲信 者(制作者自体がそう?)からバカにされるのを恐れてゴジラをふざけ させてくれません。ゴジラに対して「ガキ向けのローテクゲテモノ映画」という偏見を一 番持ってるのは他ならぬスタッフなのかもしれません。
757
Re:まだ結論を出すには早いのかもし れませんが 殿様ギドラ

2005/03/03 14:51


男性 42歳 O型

ゴ ジラ無愛想路線とは、なんと言い得て妙な言葉でしょう。

一体いつからゴジラに愛嬌があってはいけないことになってしまったのか。
(答・80年代のゴジラ論ブームから)

ゴジラが再評価されはじめた80年代前半にも、結局は「楽しさ」より「重苦しさ」のほ うが「高級」であるかのように取り扱う大勘違い批評がまかり通り、
第一作『ゴジラ』のみが傑作であとはオマケだという言われ方をしていました。
1万歩譲って、『ゴジラ』が最高傑作だとしましょう。
それでも、そこに登場した怪獣ゴジラが無愛想で不気味なだけの生き物だったというの か?
不気味に見えるカットがあるのは確かだけれど、それだけか?
ゴジラに親近感が湧くような演出がなされていたからこそ、映画『ゴジラ』は傑作になっ たのではないのか?
何によって親近感が湧くのかと言えば、感情表現であり、剽軽な一面を持っているとこ ろ。
円谷英二監督ははっきりおっしゃっています。
「怪獣は怖がらせるだけではダメだ。ユーモラスな面もないといけない」

怪獣物を担当しながら、「子供が怖がって泣き出すようなものを作るつもりだ」と平気で 言ってのける浅はかクリエーターは去れ!
GFWはそのような系列のものではありませんでしたが、ついにゴジラの剽軽さを見せよ うとはしませんでした。
厳めしいだけなら大魔神に任せておけばいいのだ。

無愛想ゴジラを望む輩は結局『ゴジラ』の価値もわかっていないのではないでしょうか。
756
個人的エピローグ for 北村監督(?) KJ

2005/03/03 13:45


男性 37歳 B型

先 日帰宅した時にTVで映画版「あずみ」がやっており、途中からチョロッと私も見ておりました。 うちのカミさんは結構最初から見ていたらしく、
「どう?」と聞いたところ、「何これ~? スッカスカって感じ。キャラの
立て方も悪いし、長編映画を撮った事が無い素人が作ったとしか思えない。
主役は学芸会?って感じだし」とのたまわっておりました。

途中から少し見ていた私も「さもありなん」といった印象を受けました。
「これGFW撮ったのとと同じ監督だよ。元々CM上がりの人らしいよ」
と伝えると、
「あ~、やっぱり。この人にこの作品撮らせちゃダメだわ。っていうか映画
撮る事自体向いてないんじゃない?何か短編の音楽プロモビデオをひたすら見せられてるみたい」 と、トドメのお言葉を頂きました。
・・・レグルスさん、あなたは正しかった(笑)

この際、原作が泣いている・何で上戸彩なんか・・・etc.といった
どこかで聞いた様な話はもうしませんが、何が言いたいのかといえば、
「ゴジラだの、北村監督だの、何の予備知識も持たない人が、北村作品を
見た時の正直な印象」が、上記のカミさんの言葉に凝縮されている様な気が
するんです。

もちろん、詰まる所は個々の感性(主観)の違いによって大きく左右される
ものという事は重々承知してはおりますが、それはあくまでその作品への
好き・嫌い(好み)の部分が大きく、客観的に見た作品としての自立性、及び
演出・脚本・撮影・編集諸々の要素から導き出される「完成度」というもの
は、必ずある程度標準化された上でジャッジされ得る筈です。
(だからこそ、あちこちに”批評”なるものが存在する訳で)

そんでもって、結論としての個人的暴論:
「もう、アンタは40分以上の映像作品(特に長編原作付き)は絶対撮っちゃダメ!撮りたいなら 鑑賞時は無料でね♪」
758
Re:個人的エピローグ for 北村監督(?) 殿様ギドラ

2005/03/03 14:52


男性 42歳 O型

「あ ずみ」、放送してましたね~。

私は北村龍平映画は「あずみ」とGFWしか見ていませんが、とにかくストーリーものを やっちゃいけない人ですよ。
登場人物に生命を与えることに興味がないし、そもそも芝居に興味がないようですから、 「劇」には向かないです。
KJさんのご意見は暴論でも何でもないと思いますよ。

ただ、映画も商業ですから客が入ればどんな作品でも正当化されてしまうわけで、北村映 画に一定のニーズがあって商売として成り立つならどうぞ御勝手に、というところでしょ うか。
(レグルスさんは北村映画ファンなんですよね)

しかーし、映画芸術の発展向上という観点からは北村映画は叩かなければなりません。
だって、下手くそなんだもん。(その根拠はたーくさん書きましたので省略)
760
Re:個人的エピローグ for 北村監督(?) レグルス

2005/03/03 23:15


男性 28歳 A型

> 「あずみ」、放送してましたね~。

私は録画しましたが、まだ見る時間がとれてません。

> ただ、映画も商業ですから客が入ればどんな作品でも正当化されてしまうわけで、北村映画に一定のニーズがあって商売として成り立つならどうぞ御勝手に、というところでしょ うか。
> (レグルスさんは北村映画ファンなんですよね)

『VERSUS』『スカイハイ 劇場版』『GFW』
の3作しか見てませんし、ファンというほどでもないですが…。

独特(わがまま?)なケレン味は嫌いではないですし、
ケレン味を強調したいがために構成がいびつになっているのは認めます。
特に『GFW』においてはそれが顕著ですが。

> しかーし、映画芸術の発展向上という観点からは北村映画は叩かなければなりません。
> だって、下手くそなんだもん。(その根拠はたーくさん書きましたので省略)

“叩く”必要はないでしょう?
誤解する人がいるのは問題なので(私みたいに?)、
“批評する”必要はあると思いますが。

監督ではなく、アクション監督とか、助監督とか、監修(?)とか、
とにかく全体を統括するのはやめたほうがいいかもしれませんね。
ただ、こういう乱暴なまでのパワーは日本の映像業界には貴重な存在だと思います。
(映画ではなく他の映像メディアに向かったほうがいいのかもしれませんが)

マンガや小説のように一人で全てを作れるメディアならともかく、
大勢の人員と金がかかる映画だと余計に
“論法”を守った作品を作らなければいけない責任も発生するのかもしれません。
これがマンガなら単なる好き嫌いの問題で終わっていたようにも思いますけどね。
764
Re:個人的エピローグ for 北村監督(?) 殿様ギドラ

2005/03/04 16:03


男性 42歳 O型

こ れは失礼。

強い言葉を使ってしまったので反感を買ってしまいましたか。
「叩く」と言ったのは決して不買運動みたいなことをするという意味ではありません。
もちろん批評せねばならぬという意味です。
その結果が叩くことになっているのはこの掲示板での私の発言に見えると思います。

私が見た二作からは作家として評価できるポイントがありませんでした。
ですから、「あんなものはダメだ」と叩くわけです。

806
北村監督っていつもそんなん みずさわ慶希

2005/03/23 22:31


男性 19歳 O型

> 「何これ~? スッカスカって感じ。キャラの立て方も悪いし、長編映画を撮った事が無 い素人が作ったとしか思えない。主役は学芸会? って感じだし」とのたまわっておりま した。

北村監督に対するこういう意見は、それこそもう100億回くらい見聞きしましたね、今 までに。またファンの私が言うのも何ですが、「全く以って正しい」意見でもあります。

その通りです。北村監督は「映画作りが下手」なんですよ。
その事は私のみならず、全ての北村ファンが承知しているはずです。

でも「良い」んですよ。構成の上手さとか心理描写の巧みさとか、映画の完成度そのもの の「さらに向こう側」にこそ、北村監督の良さがあるんですよね。
でもそれは、万人が見つけられるものではないし、見つけられたからといってその人たち (北村ファン)の審美眼がとりわけ優れている、と言えるわけでもないわけで。
まあ要するに「ツボにはまる」というヤツです。

なので、北村作品を酷評する人たちの意見には、正直同意するのです。「そうだよ、そう なんだよ」と。
しかし次の瞬間、「でも私は面白かったけどね」となるわけです。

一言で言えば、「理解はするけど共感はしない」、これですね。

そんな監督が今回『ゴジラ』を撮り……そしていつも通りに賛否両論の大騒ぎとなりまし た(もはや北村作品の恒例行事)。
否定派の人には「お気の毒」としか言いようがありませんが、私からしたら「『ゴジラ』 を撮っても、やはりいつもの龍平だった!!」というのがとても嬉しかった次第です。
808
Re:北村監督っていつもそんなん 殿様ギドラ

2005/03/24 11:44


男性 42歳 O型

み ずさわ慶希さん、お久しぶりです。
よくぞ投稿してくれました。

北村映画を応援する気持ちは尊いと思います。
多くの人からダメだと言われているものに何らかの価値を感じてそれを追い求めていくこ とが何かを生み出すでしょう。

何十年か前は怪獣映画は内容のないくだらないジャンルだと言われていました。
そのころまだ子供で、大人たちの「言葉」に対抗することも出来ませんでしたが、「じゃ あ、このおもしろさは何なのだ」と考え抜いてきた結果、昔の大人たちが考慮していな かった価値があることに気が付きました。

そのように北村映画から映画芸術の新たな価値が生まれるといいですね。
809
Re:北村監督っていつもそんなん レグルス

2005/03/24 21:49


男性 28歳 A型

ウィー クデーなのでいつもより短文で。

『GFW』、ここだけは直してほしかったところ。

1.ゴードンと水野真紀の恋模様はカット
2.ゴジラにエネルギー注入するのはナシ
3.ミニラの説明を入れる

これだけでも結構救われると思うんですが…。

(2)は、どうせならアントニオ猪木にビンタさせるとか(^^;)

(3)は、なぜX星人に操られているわけでもないミニラが現れたのか、
ということでも、ゴジラが復活した後に人間の前に出現すれば、
ゴジラの存在を感じて出てきた、と言えるのに、
X星人のコントロールでの怪獣総出現の時なのでそのへんもグチャグチャ。


先日TVで放送した『あずみ』は、上戸彩の茶髪だけで“退いて”しまって、
最初と最後しか見てないのですが、
やはり北村映画には勢いがあり、それが他の監督にはない魅力なんだと思いました。

作品全体としては好きではないのですが、つい見てしまう、というタイプです。

811
北村監督っていつもそんなん…ではない 時も みずさわ慶希

2005/03/25 00:37


男性 19歳 O型

> 殿様ギドラ様

ご丁寧なお返事ありがとうございます。「オレは北村映画を生涯受け入れられそうにない けど、まあ好きにやって」みたいなニュアンスも若干感じられましたが(笑)。

でも、あえて北村監督を弁護すると、『GFW』の人間パートのアクションに限って言え ば、今までの北村作品の中ではワーストかブービーか、というくらい出来が悪いです。

デビュー作の『ヒート・アフター・ダーク』、長編第一作の『VERSUS』、以後 『メッセンジャー~弔いは夜の果てで~』『荒神』あたりまでは素晴らしかったのです が、次の『ALIVE』から「…あれ?」みたいな感じになってきました。
まあそれでも、さらにその次の『あずみ』まではスケールの大きさと勢いとハッタリでど うにか押し切ってましたが、前作『スカイハイ』は、ファンの私すら「…あああ~」と 思ってしまうような出来でした。(一緒に観た友人は「北村作品はいつもこんなだぞ」と 言ってたが)

なので今回の『GFW』で一番残念だったのは、アクションの不調振りでした。 『VERSUS』の時のようなキレのあるアクション演出を見せてくれていたら、決して 誰からも「人間同士の対決シーン、長すぎだよね」などと言われなかったろうになあー。

ちなみにゲームキューブソフト『メタルギアソリッド ツインスネークス』のゲーム中のデモムービーの演出も北村氏が手掛けていますが、こちらは言われてもわからないくらい「フツー」の出来栄えです。


>レグルス様

では私も、直して欲しいというか「こうして欲しかった」という所を。

1.「怪獣をもっとたくさん出して欲しかった」
 ロフトプラスワンでのトークショーで、富山プロデューサーも「出番はほんの数秒の チョイ役でもいいから、とにかくもっと数を出したかった」と言ってました。まあ現実問 題として、数秒の出番のために何百万もの着ぐるみは作れないでしょうけど。

2.「小美人から貰ったお守りをもっと活用して欲しかった」
 作中の描写から、おそらくM塩基に何らかの作用を及ぼす物質かと思われるので、もっ といろいろと面白い使い方があったはず。

3.「マトリックスアクションは、人間ではなく怪獣にやって欲しかった」
 例を挙げますと、“ゴジラ、敵に向かってジャンプ→空中で静止→カメラ、グルーンと 回転→アクション再開、と同時に強烈な尻尾攻撃”みたいな。いっそこのくらいやって欲 しかったですね。

それにしてもDVD、いつ出るのかなあ。同時期に公開された『エイリアンVSプレデ ター』は来月出るのに。
812
Re:北村監督っていつもそんなん…で はない時も 殿様ギドラ

2005/03/25 11:39


男性 42歳 O型

> みずさわ慶希さん

人間の営みは新世代へと受け継がれていくもの。
人はいつか必ず死にますが、誰かが死んでも誰かが生まれるから流れが止まることはな い。

私は若者に期待したい。
若いということは良いことばかりではないけれど、若いということはより長い未来を持っ ているということ。
学び、考えることで現在の老人が到達した認識を超えていくことが出来るはず。

私はまだまだハナタレ小僧だと思っていましたが、いつまでも若造気分で居られるわけも なく・・・・。

GFWは底の浅い映画に見えました。
完成度の向こう側にある「何か」をまったく感じることはありませんでした。
私がGFWを見ながら何をどう感じたのかは出来うる限り細かく述べました。

出来の悪さに影響されない価値があると主張するなら映画の中身から具体的に指摘する必 要があります。
どのシーン、どのカットにどんな感情を喚起されたのか。また、それはなぜか。
自分の反応を掘り下げて考えていくことで認識が深まるでしょう。
(それを他人の認識と照らし合わせればもっと深い認識を得られます)
いますぐ何か書けとは言いません。
じっくり考えていけばいいと思いますよ。
759
ゴジラ無愛想路線 YS

2005/03/03 20:00


男性 47歳

始 めまして。YSと申します。

いつもはロムしているだけですが、ゴジラの愛嬌についての議論があったので、少しお話に参加し たくなりました。

私は、怪獣大戦争からゴジラの息子まで(3作にすぎませんが)をリアルタイムに、それ以前の作 品はTVまたはリバイバル上映で見てきました。
1984年の復活ゴジラ以後も何本かは映画館に足を運びましたが、ゴジラ自身に感情移入できる 作品には出会いませんでした。
ストーリーが良く出来ている作品もあるとは思うのですが、やはり映画というものは主人公に感情 移入できないとのめり込めません。

GFWですが、最後ということもあり久しぶりに映画館に足を運びました。
この作品は従来のゴジラ無愛想路線とは異なりますね。
親しみまではいきませんが。
今までのシリアス路線、または意図的に凶暴性を演出しようとする路線でのゴジラに比べれば、確 かに一線を画したものであるかもしれません。
しかし、この作品はそもそも「物語を見た」という気持ちにさせてくれませんでした。
あえて言えば、「全部のシーンは見たけど・・」で終わってしまったという感じです。
路線以前の問題があったように思います。

さ て、ねろんガボラさんや殿様ギドラさんが言っている「ゴジラ無愛想路線」(本来その書き込みに 対するレスですが、下の方に行ってしまいそうなので、スレッ ドを改めました。)ですが、私も同感で、80年代前半のゴジラ復活ムーブメントの中で、「ゴジ ラは怖くなければいけない」「悪でなければいけない」という ような呪縛が、その後のゴジラ映画の可能性を狭め、魅力的な作品が生まれにくくなった原因と 思っています。

昭和40年前後の愛嬌のあるゴジラは魅力があります。
「シェー」 が批判の対象となっている怪獣大戦争のゴジラは、実は私の最も好きなゴジラでして、X星に到着 し、電磁バリアを解かれたとき、寝起きのアクビをしていると ころをキングギドラの攻撃にあいあわてるゴジラ、最後のキングギドラとの戦いの中で、キングギ ドラの光線を手にうけ、その手を見つめて(まさに目を丸くし てという感じです。)怒るゴジラ、キングギドラに突進しようとするが光線を受けて、前傾姿勢の まま後ずさりするゴジラなど、魅力満載です。

GFWがもっとストーリー仕立てがしっかりした映画であったなら、そしてもっとヒットしたな ら、路線という意味では、80年代前半のゴジラ復活ムーブメントによる呪縛を解くキッカケに なったかもしれず、惜しいところでした。
761
Re:ゴジラ無愛想路線 レグルス

2005/03/03 23:42


男性 28歳 A型

YS 様
はじめまして。「初ゴジ」原理主義者(^_^;)のレグルスです。

> 1984年の復活ゴジラ以後も何本かは映画館に足を運びましたが、ゴジラ自身に感情移入できる作品には出会いませんでした。
> ストーリーが良く出来ている作品もあるとは思うのですが、やはり映画というものは主人公に感情移入できないとのめり込めません。

私の場合は初ゴジ原理主義的な部分と、復活ゴジラ以降OK路線がそれぞれあるので、
発言内容に分かりにくい部分もあるかもしれませんが…。

復活ゴジラ以降のゴジラは、『VSキングギドラ』の新藤会長との対峙のような、
あるいは『VSメカゴジラ』のベビーとの関係のような、
ゴジラの内面を伺わせる描写もないではありませんが、
基本的には平成のゴジラ映画において
主役は人間です。
ゴジラは興行的には主役ですが、
ドラマ的(実質的)には“現象”というのが適当かと思います。

ハリウッドのディザスター映画(竜巻、火山、地震、嵐などなど)の系譜ですね。

ですから感情移入できるか、というよりもそれ(=ゴジラ)によって起こされる
環境の変化をどう描くか、に興味があるのです。

そういう意味では昭和ゴジラとは別物でしょうね。
私の中では
 初代ゴジラ
 昭和ゴジラ
 平成ゴジラ
3種のゴジラ映画があると捉えています。
(初代ゴジラには「逆ゴジ」も含め、平成には「84」より後すべて)


殿様ギドラさんの発言からですが、
>ゴジラに親近感が湧くような演出がなされていたからこそ、映画『ゴジラ』は傑 作になったのではないのか?
>何によって親近感が湧くのかと言えば、感情表現であり、剽軽な一面を持ってい るところ。
>円谷英二監督ははっきりおっしゃっています。
>「怪獣は怖がらせるだけではダメだ。ユーモラスな面もないといけない」

『初代ゴジラ』に“感情表現”“剽軽な一面”が描かれていたでしょうか?
私には両者とも認められませんでしたが…。
光を嫌うのは(水爆実験の記憶とはいえ)“性質/生態”という描き方でしたし。
生物としての存在感は充分でしたが、どちらかといえばゴジラそのものは、
何を考えているか分からないが故の怖さ/不気味さを感じました。
水爆実験の被害者としての哀しみ、というのは劇中人物を含め、
我々がそのようにゴジラに投影するのであって、
ゴジラがそれを直接表わしているわけではありませんし。

円谷監督の発言は、いつのものか私には分からないのですが、
『初ゴジ』制作前後のものでしょうか?
内容からすると『キングコング』以降のような感じがするのですが…。

円谷監督が携わったものとはいえ、
個人の心境の変化や、
怪獣映画が受け容れられ・浸透したという時代の変遷もあって、
私には──先に書いたように──『初ゴジ』とそれ以降の昭和ゴジラは
完全に分離して捉えられていて、
どうしても同列に論じることができないのです。

同じ作者が作ったものでも、
年齢や時代環境によって描く内容/主張が変わることってありますよね?
763
Re:ゴジラ無愛想路線 ねろんガボラ

2005/03/04 01:22


男性 21歳 A型

  もしかしたら後に投稿したこのレスのほうが上に来ちゃうかもしれないんで紛らわしく なっちゃうかもしれず、申し訳ないです。

 レグルスさんのスレにレスを付けさせていただくのは確か初めてだったと思います。よ ろしくです。

 >ゴジラは興行的には主役ですが
昭 和ゴジラでもゴジラが災害であるという描写はあったと思うのです。「モスゴジ」までは 言わずもがな、「地球最大」での戦闘の衝撃が誘発した地滑りや「大戦 争」でX星に残されたゴジラとラドンに「普段は迷惑者だが・・・」みたいなセリフを言 うのとか、「南海」の「ゴジラは中立だ」とか。「息子」でも終始人間 側はゴジラを避けてますし(ゴジラもミニラと人間との接触を快く思っていない?)。分 量は作品によって異なれど、ゴジラや怪獣たちが人間の脅威であること と、無垢でコミカルな性格であること、この両面を描写すべきだと思います。災害として だけ怪獣を扱うのはもったいないです。

> 『初代ゴジラ』に“感情表現”“剽軽な一面”が描かれていたでしょうか?
> 私には両者とも認められませんでしたが…。
 僕も認められなかったです。なんか気持ち悪いんですよね。親近感ないです。初代ゴジ ラって、全然「カッコ良くない」んですよね。ヨゴレな怖さというか、妖怪じみてるとい うか。動物的な動きではあるんですが、それが生々しさを生んで、おばけのような印象を 受けます。

  昨今の「無愛想ゴジラ」は一見初代に乗っ取っているように見えて、この「おばけっぽ さ」から完全に逃げてます。カッコよく描きすぎです。ギドラさんとは考 え方が違っているのですが、こういう観点から今の制作者は、愛嬌のあるゴジラはおろ か、初代ゴジラさえも描写し得ていないと思います。

 僕も初代とそれ以降ではゴジラの性格は違っていると思います。映画の方向性や、対戦 怪獣という「共演者」とのカラミによって性格が変化していったのでしょうかねえ。ギド ラさんの言うほど、ゴジラの性格が一貫しているとは思えないです。
768
Re:ゴジラ無愛想路線 ルー等級つつ大臣

2005/03/05 18:30


男性 33歳 AB型

YS さんはじめまして、レグルスさん改めてはじめましてここの古株常連者のつつ大臣です。
私も「怪獣大戦争」は初めてのゴジラ映画でテレビで見た世代なのですが幼き私のハート を鷲掴みにした映画でした(これで伊福部サウンドにハマって後にサントラを集めるきっ かけとなりました)。
それは楽しき作品で同時期のアニメ(私は円谷作品をリアルタイムで観た世代でなく世代 的にはファーストガンダム世代ですので)が霞んで見えるほどの密度の濃さと作品の完成 度でした。
やがてテレビでゴジラ映画が放映されなくなり一抹の寂しさが募った1983年の夏一時 はゴジラを忘れていたのですがこの時期リバイバル上映が開始され忘れていた熱気が蘇り 観に行きました。
同時に第一作も上映されゴジラとの関係(?)も決定的となり東宝特撮ファンとなりまし た。
翌 年新作のゴジラの製作が決定となり私は楽しみにしてましたがこれが失望に近い出来の 為、がっかりしてしまいました。以後の平成VSシリーズはビオランテと キングギドラは前者はそれなりに緊張感を伴って見てましたがこれはゴジラとして見てい たというより東宝の新作特撮映画として見ていたのでゴジラ映画として はイマイチと思いました。
769
Re:ゴジラ無愛想路線 ルー等級つつ大臣

2005/03/05 18:49


男性

続 きです。ビオランテを楽しんだと いうのはゴジラ映画を観たというよりレグルスさんのおっしゃるアメリカデザスタームー ビーとしての見方をしていたと思って観たのですと改めて思いました。 やはり人間が主役でゴジラや怪獣たちは人間としての脅威でしか据えられてなかったので す。だから怪獣の描写が抑え気味で丹念に描くということをしなかった 為に私やギドラ氏のようなファンから不満たらたらの意見しか出なかったのです。(もっ ともこれはギドラのような怪獣が復活とかいいながらオリジナルとま るっきり別物の設定で逆鱗に触れ期待を裏切ったというのもありますが)怪獣を描くべき をどうでもいい人間のシーンが入っていたり余計なシーンのオンパレー ドでした。これはシリーズが進むにつれて肥大化していき不満は解消されるどころかます ます募ったのでした。(伊福部サウンドが唯一の救い(^_^;)平成 ゴジラはゴジラ自体を窮屈にしてしまった印象があります。造型も洗練されててよく出来 てますが反面昭和ゴジラのような生き生きとした生物としての躍動感や 初代ゴジラの得体の知れない生物感が失われたという感があります。これはミレニアムシ リーズでは改善されましたが・・・。
770
Re:ゴジラ無愛想路線 ルー等級つつ大臣

2005/03/05 19:10


男性

さ てミレニアムシリーズになっても ストーリーのパターン化は払拭されずに相変わらず「対ゴジラ映画」でした。あるいは 「設定しっかりがんじがらめで窮屈オリジナルの設定無視俺達ででっちあ げゴジラは敵でなければあかん」映画と言い換えてもOkでしょう。これは第一作のゴジ ラのスピリッツすら感じられず善悪を超越した初代とは別物と断言して もいいでしょう。おまけに前出した理由で設定の完成度はともかく肝心の(ゴジラ)映画 としての完成度が閉塞的かつストーリーの完成度も低い作品が連続して いると思えます。手塚監督の出現で一時は本来のゴジラ映画が復活したと思ったらメガギ ラス以外はオタク要素がくどくどとなってしまい観ていて辛くなりまし た。金子監督のGMKもそれに加え理屈ばかりが先行し「・・・。」となる作品でした。
さて今回のファイナルウォーズは本来のゴジラ映画らしさが出 て「平成版怪獣総進撃」となるべき作品になるかと思いきゃあの北村監督はといった ら・・・。演出は下手だしシナリオ構成は酷い・・・。おまけに無駄なシー ンのオンパレードでGMKとどっこいどっこいのブザマなゴジラが登場・・・。言葉を失 いました・・・。
771
Re:ゴジラ無愛想路線 ルー等級つつ大臣

2005/03/05 20:11


男性

長々 くどくどと申し訳ありませんm(__)m
さて「物語を観た気にならない」というYSさんには私も同意します。あの作品、特撮の 寄せ集めでストーリーのかけらすらなかったんですから・・・。うまく演出すれば久々の 傑作になると思いきゃああなんですから・・・。
さてレグルスさんギドラ氏のおっしゃる円谷監督のお言葉はサンダ対ガイラの頃(昭和 41年六月の現代の主役というドキュメンタリー作品があって円谷監督が出演していた時 です)ですので初代ゴジラの時とは違いますし初代の頃はそんな事は微塵もなかった筈で す。
こ れは多分推測ですが最初は凶悪な怪物として設定されたゴジラが円谷監督の中で次第に自 分の息子として据えられて孫が出来た時には凶悪な怪物のままで出来な くなったのではないかと思います。ですが私は初代ゴジラには凶悪な存在には思えません しましてはおばけのような存在ではありません。恰好よく生物のダイナ ニズム溢れる存在がゴジラだと思います。
初代のサイドビューを観た瞬間、生物の美すら感じました。後の昭和というか円谷作品の ゴジラはその点に関しては一貫してます。しかしその点に関して理解していないスタッフ の何と多いことか・・・。
772
Re:ゴジラ無愛想路線 ルー等級つつ大臣

2005/03/05 20:28


男性 33歳 AB型

初 代のゴジラは敵味方を超越した自然の力として描写し設定されてたにも関わらず84以降 の平成ゴジラでは単純に人類の敵とされててファンは初代の呪縛云々とかいいますがそれ は勝手な思い込みで第一作を作った本多、円谷監督に失礼です。
人類の敵という設定は平成ゴジラで初めて出てくるんです。
自 然の脅威としてならともかく。話は長くなったのでここまでとします。私は作品が丁寧で よく描写されてて円谷監督のスピリッツを継承したゴジラなら「~息 子」のような作品でもメガロでもOkなんですが昭和後半のゴジラは特撮の画面構成や描 写に難があるのでちょっと・・・なんですがストーリーやエンタメに徹 した演出は良しとします。しかしファイナルウォーズは・・・。
要素が多すぎて描写しきれなかった部分も多く今度新作が作られることがあるなら今一度 本多、円谷監督のオリジンゴジラを研究し製作される事を望みます。
あるいは円谷ゴジラ当時没になった関沢シナリオの映画化とか。
以上長々とすいませんでした。
762
Re:ゴジラ無愛想路線 ねろんガボラ

2005/03/04 00:53


男性 21歳 A型

  初めまして。ねろんガボラです。考えてみたらギドラさん以外の人にあいさつしたことな かったような気が・・・。いけませんな、こりゃ。というわけで皆さん、改めてよろしく お願いします。

  僕はVSゴジラ世代なのですが、愛嬌のない平成ゴジラには不満を感じており、楽しんだ のはむしろビデオでの昭和ゴジラでした。並み居る怪獣キャラクターが 見事な共演を果たした「地球最大の決戦」はシリーズ最高傑作だと思っていますし、人間 社会とは無縁の環境下での怪獣たちの生活を見事に描写しきった「ゴジ ラの息子」など、世間の酷評とは裏腹に大傑作と感じています。

 愛嬌のあるゴジラを「ガキ向け」だと切り捨てシリアスな描写にたよること こそ、制作者の「逃げ」以外の何者でもないです。「怪獣」という分野に与えられた無限 の可能性、それこそ怪獣を「災害」のみに限定せず、他の様々な作品の 人間の登場人物のような自由な発想の元キャラクターを転がしてゆくことで現れてくるの ではないでしょうか。
765
Re:ゴジラ無愛想路線 殿様ギドラ

2005/03/04 16:08


男性 42歳 O型

YS さん、ようこそおいでくださいました。
ご投稿ありがとうございます。

そしてレグルスさんやねろんガボラさんからのご意見もいただけて久々に盛り上がりそう な予感であります。

今日のところは一点だけ私から書きます。
初代ゴジラの描写について。
これもこれまで何度も書いてきたので、耳にタコという方もいらっしゃるかもしれません が、どうかひとつこらえてください。

『ゴジラ』でのゴジラ登場シーンは人間側から見たゴジラを描くことが圧倒的に多いの で、ゴジラを怖いものとして感じさせる「組み立て」になっているものがほとんどです。
また、作品全体のトーンから「おちゃらける」わけにはいかないのは当然で、後の作品に 見られるようなあからさまにふざけてみせるゴジラという演出はありません。

ですから全体としてゴジラから感じられるものが不気味さであったり、凶暴さであっても 仕方ないとは思います。
でも、これは一度試してみて欲しいのですが、徹底的にゴジラ側に立って『ゴジラ』を観 てください。
大戸島の八幡山から顔を出したゴジラが不気味でしょうか?
その後、逃げていく人間をのぞき込むゴジラはどうですか?
(以後、さまざまなシーンでのゴジラを考えましょう。たとえば、東京蹂躙中のゴジラを 大ロングで見せるシーンにギニョールを使っていますが、あのぼってりしたフォルムには 一種マヌケな感じがあります。
この例は感情表現ではありませんが、「おかしみ」を醸し出す効果になっています。作り 手の意図は別としても初代ゴジラに滑稽な味があるのは確かです。
ゴジラのデザインが何度もやり直されたことに関して、監督助手の梶田興治さんが「顔が 怖すぎたんだよ」とおっしゃっているので第一作目からゴジラをそんなに怖いものにしよ うという意図はなかったのは間違いないでしょう)

劇中、喜怒哀楽というほど多様な感情を見せているわけではありませんが、きちんと状況 に応じた感情を持つ存在であることは描かれていますし、ユーモラスな面もありますよ。 (海底で寝ていて、ちょっと首を持ち上げる仕草がかわいいと思ってしまう私は変です か?)
それが功を奏して、ゴジラに感情移入することが可能となり、一方では水爆そのものでは ないかとされるゴジラを観客には憎ませず、
最後にゴジラが殺されてしまうことに「抵抗感」を感じさせ得ていることが『ゴジラ』が 傑作たるゆえんです。
この抵抗感がなければ、オキシジェンデストロイヤーが単純な怪獣退治の新兵器になって しまう。

ゴジラ映画のトーンが変わってきたことには異議なしですが、ゴジラの性格設定が変わっ ているわけではないです。
初代ゴジラと二代目ではある程度性格付けが違うのかもしれませんし、映像演出としてゴ ジラの見せ方が変わってきているのは確かです。
しかし、初代ゴジラと『キングコング対ゴジラ』以降のゴジラがまるで別物になっている わけではありません。
766
Re:ゴジラ無愛想路線 レグルス

2005/03/04 21:48


男性 28歳 A型

> ですから全体としてゴジラから感じられるものが不気味さであったり、凶暴さであっても 仕方ないとは思います。

映画『ゴジラ』からは不気味さや凶暴さを感じますが、
ゴジラそのものからは不気味さや凶暴さを感じるわけではないですよね。

一見両者はイコールのように見えますが、
そのあたり、作り手が意識してきっちりと区別して演出されています。
そこが『初ゴジ』の傑作たるゆえんだと思うのです。

ゴジラの出現、行動(都市破壊)に対して、劇中人物は恐れ、恨み、不気味に思います。
それを通して(感情移入する/作品世界に没入する)視聴者(われわれ)もゴジラを怖い と思うわけですが、
殿様ギドラさんの言われるように、ゴジラの立場で考えれば、
ゴジラは意識的に(悪意をもって)破壊行為をしているわけではないのです。

<余談>
そう考えると、フィクション、ノンフィクションとわず、
世の中のあらゆるものにおいて、意識的に不気味たらんとしているもの、
恐怖そのものが存在意義なんてものなんてあるんだろうか……
などと考えてしまいました…。


> この例は感情表現ではありませんが、「おかしみ」を醸し出す効果になっています。作り手の意図は別としても初代ゴジラに滑稽な味があるのは確かです。

殿様ギドラさんが挙げられた例をもって「おかしみ」という言葉を使うのは適切かどう か…。
“違和感”というほうが適切な気がします。

静かに海底(洞窟?)で眠っていたところを起こされた違和感、
本来は地上で行動するはずではなかったのに地上に上陸するハメになった違和感、
争うつもりはないのに人類から攻撃される違和感、
同じく人類から畏怖され、恐れられ、恨まれる不本意……などなど。

これらは確かに不条理であり、
不条理は「おかしみ」“滑稽”“笑い”に通じる要素ではありますが、
私はやはりこれらの要素は生物ゴジラの悲哀、
孤独・寂寞感の演出と捉えたいですね。

もちろん両方に取れるような巧みな演出なのですが、
演出意図としては後者っぽいと思うんですよね。
(当然シリーズ化の予定などなかった)『初ゴジ』だけで見た場合。

> ゴジラのデザインが何度もやり直されたことに関して、監督助手の梶田興治さんが「顔が怖すぎたんだよ」とおっしゃっているので第一作目からゴジラをそんなに怖いものにしよ うという意図はなかったのは間違いないでしょう)

この発言も初耳ですが、私には
“あまり怖い顔にすると生物としてのリアリティがなくなる”
という意味にもとれます。

> ゴジラ映画のトーンが変わってきたことには異議なしですが、ゴジラの性格設定が変わっているわけではないです。
> 初代ゴジラと二代目ではある程度性格付けが違うのかもしれませんし、映像演出としてゴジラの見せ方が変わってきているのは確かです。
> しかし、初代ゴジラと『キングコング対ゴジラ』以降のゴジラがまるで別物になっているわけではありません。

たしかに“設定”そのものは変わっていませんが…。
「最初に会った時は怖い人だと思ったのに、
 次の機会にじっくり話してみたら面白い人だった」
という感じなんでしょうかね…(^^;)

私にはむしろ、
「あの俳優さんは悪役しかやってないイメージだけど、
 善玉もやったことがあるんだ…」
という感じなんですが。
(このたとえで分かりますかね…)(^^;)
767
Re:ゴジラ無愛想路線 KJ

2005/03/05 00:18


男性 37歳 B型

> 映画『ゴジラ』からは不気味さや凶暴さを感じますが、
> ゴジラそのものからは不気味さや凶暴さを感じるわけではないですよね。
>
> 一見両者はイコールのように見えますが、
> そのあたり、作り手が意識してきっちりと区別して演出されています。
> そこが『初ゴジ』の傑作たるゆえんだと思うのです。

> 私にはむしろ、
> 「あの俳優さんは悪役しかやってないイメージだけど、
>  善玉もやったことがあるんだ…」
> という感じなんですが。
> (このたとえで分かりますかね…)(^^;)


これらレグルスさんや管理人さん、及びYSさんなどのご意見を伺って
おりますと、やはりゴジラは「・・・でなくてはいけない」という物
では無いんだなぁ、と今更ながら感じます。

もはやその存在及び世界観が一つのジャンルとして大きく確立しえた
「ゴジラ」であるが故に、ゴジラというキャラクター(素材)を使いながら
様々な作品世界が誕生し得た、という甚だマクロ的かつ漠然とした見方では
ありますが、そういう肯定的な捉え方でまずは間違いは無いのでは、と
ここに確認したくなりました。
さればこそ、S29の「ゴジラ」あり、エンタメ要素が良い意味で強く
出た「キングコング対ゴジラ」があり、怪獣美の極致ともいえる
S39キングギドラ等、諸々のバラエティに富んだ作品世界が生み出された
訳ですもんね。

各々の狙った世界観、描き出したい物に違いはあれど、そのどれもが
それぞれのテイストで完成度が高くまとまっている限りは、全て好意的に
捉えたいです。

後は、正直個々の感性による好みでしょうね。
私は、個人的好み・受けた感動の度合い・作品完成度の高さといった
観点から、やはりトップにはS29「ゴジラ」を持ってこざるを
得ませんが。ただ、ヘタにそういう世界を作ろうとしてグダグダになって
しまった作品よりも、「怪獣大戦争」のような作品の色合い及びノリが
きっちりまとまっているものの方が余程好感が持てます。
まあ、伊福部マーチはもはや反則ですが。(あれが流れたら取り敢えず
納得というか、満足させられてしまうし^^;)

多分、ハード路線・全映画作品と比べた場合の意義、完成度・怪獣エンタメ魅力たっぷり のもの・SF色の優れたもの・自衛隊イケイケ路線(?)
等等、各切り口によってお手本となる作品は変わってくるのでしょう。

私は傾向的には「サンダ対ガイラ」や「ガメラ2」のようなまとまり方の
作品が好きです。

以上、取り留めのない閑話休題で失礼しました。
775
Re:ゴジラ無愛想路線 殿様ギドラ

2005/03/07 15:28


男性 42歳 O型

初 代ゴジラをどう見るかの話の続きです。

ゴジラ側に立って作品を鑑賞することをお勧めしたのは、巷間あふれるいわゆるゴジラ論 から距離を置きやすいからでした。
映画『ゴジラ』の全体像にはやはり強烈な戦争体験と科学の発達への問題意識が含まれて いますから、ゴジラという存在にもなんらかの観念が透かし見えてしまいます。
それはもちろん作り手の意図であり、決して間違いではありません。
けれども、ストーリーを通じてゴジラに仮託されている観念にとらわれすぎると、怪獣ゴ ジラそのもののあり方が見えにくくなってしまいます。

テーマ性の強い物語では、劇中の出来事を通じてなんらかの観念を伝えようとしますから 登場人物(や怪獣)を何かの象徴として扱うことはよくあります。
出来の悪い作品だとそんな作り手の意図が前に出すぎて、作品世界の中でのリアリティよ りも観念が強くなり不自然な存在になってしまいます。
初代ゴジラはそんな不器用な仕上がりではなく、作品世界でのリアリティが実に大事にさ れています。
つまり、ゴジラにどんな観念が仮託されていようと、劇中ではあくまでも野生動物として 扱われているということです。
(事態を複雑にするのは、ゴジラそのものの芝居はどうあれ、戦争や核兵器といった巨大 な暴力をゴジラに仮託するための演出と一体になっているためにゴジラに観念しか見ない 人が出てくることでしょうか)

もし初代ゴジラが殺されることなく、まったく別のストーリーに登場するならゴジラその ものの立ち居振る舞いが『ゴジラ』と同一であってもそこに醸し出される印象は『ゴジ ラ』でのものとはまったく違うものになるでしょう。

レグルスさんの
>世の中のあらゆるものにおいて、意識的に不気味たらんとしているもの、
>恐怖そのものが存在意義なんてものなんてあるんだろうか……

という疑問は重要です。
人間の感情を動かすことが存在目的になっているものなんてあるのか、ということですよ ね。
少なくとも生き物にはそんなものはないはずです。
感情を動かすことが目的になっているものがあるとすれば、それは(広い意味での)芸術 作品だけでしょう。(サイコ野郎とか神仏悪魔の類を持ち出せばそんな設定をひねり出す ことは出来ますけど)
映画『ゴジラ』になんらかの恐ろしさを感じたとしても、登場した怪獣ゴジラが人間を怖 がらせようとしていたわけではないということです。

生物ゴジラを誠実に演出しているのが『ゴジラ』。
ゴジラの感情を考えれば、レグルスさんのおっしゃるとおりにとまどいや違和感が軸に なっていると思います。
そんなゴジラの内面を感じ取りながら『ゴジラ』を鑑賞すれば、怪獣ゴジラにユーモラス な面を見るのは容易だと思ったんですが、意外とそうでもないようですね。
私の受け止め方では、人間にとっては大変深刻な一大事が起こっているのにゴジラにはそ んな意識がなく無邪気に振る舞っているところにそこはかとない「おかしみ」があるので す。
それは確かに悲劇と表裏一体なのですが、ゴジラの無邪気さが滑稽に見える瞬間があるの です。
まあ、電撃を受けて都内へ侵攻してからは怒りが勝っていて、無邪気というだけではなく なりますけれど。

『ゴジラ』と『キングコング対ゴジラ』を比べてもゴジラが変わったという印象はないん ですよね。(顔かたちはぜんぜん違いますが)
レグルスさんがおっしゃった
>「最初に会った時は怖い人だと思ったのに、
>次の機会にじっくり話してみたら面白い人だった」

という感覚は当たってます。
私の受け止め方に非常に近いです。

先の投稿で引用した梶田興治さんの発言はBSで放送した「さらばゴジラ」でのものでし た。
怪獣ゴジラも企画段階では観念が優先していたことは確かで、キノコ雲をベースにしたデ ザインが出発点であり、宣伝スチール写真などで見ることが出来る初期段階の原型はかな り不気味な顔をしています。
ところが最終的には「あの顔」になりました。
生物的なリアリティを求めたのだとしても、「恐怖」を体現させようとはしなかったとい うのは間違いないです。

私もルー等級つつ大臣さんと同様に近年のゴジラ映画は、
>「設定しっかりがんじがらめで窮屈オリジナルの設定無視俺達ででっちあげゴジラは敵 でなければあかん」映画と言い換えてもOKでしょう。これは第一作のゴジラのスピリッ ツすら感じられず善悪を超越した初代とは別物と断言してもいいでしょう。

と言っても過言ではないと思います。
で、ルー等級つつ大臣さんにフォローして頂いてしまいましたが、757番 で引用した円谷監督の発言は確かに「キンゴジ」以降のものです。
ですが、ルー等級つつ大臣さんとはちょっと意見が違っていまして、第一作『ゴジラ』の ころから怪獣演出にはユーモアが必要だとお考えだったんじゃないかと推察しています。
一番の根拠は実際に私が『ゴジラ』を観るとゴジラに剽軽さを感じてしまうことなんです が、どうもそれでは私の主観でしかないので不十分ですね。
もうひとつは香山滋さんも『ゴジラの逆襲』直後のエッセイ(毎度おなじみ「ゴジラざん げ」)で「漫画的愛嬌をたたえた」と形容していますから、私の受け止め方もあながち的 はずれではないと思います。
また、ゴジラ演出に当たって『キングコング』を相当参考にしていたことは有名です。
円谷監督が初代ゴジラの頃から怪獣演出におそろしさだけではないものを求めていたのは 間違いないのではないでしょうか。
(流血を避けるなどといったことはのちのち確立していったのでしょう)

上記のような硬軟(?)取り混ぜた魅力があるのが本来のゴジラです。
ゴジラにそんな自由さがあったからこそ、ゴジラ映画には多くのバリエーションを作るこ とが出来ました。
ゴジラの存在にストーリーが縛られることがないからです。
KJさんと同様に

>各々の狙った世界観、描き出したい物に違いはあれど、そのどれもが
>それぞれのテイストで完成度が高くまとまっている限りは、全て好意的に
>捉えたいです。

と私も考えています。
ゴジラが人類の敵でなければならないとか、ゴジラ映画は反核を訴えなければならないと か狭い発想に閉じこめてはいけないのです。
そして、ゴジラ映画の自由度を確保するためにはゴジラそのものの設定・気質を原点に戻 すことが大事。
怒るだけの存在だったり、放射性物質を「食い」に来るものだったりではバリエーション が生まれませんよ。
また、作品ごとにゴジラの属性が変わってしまうのではアイデンティティ喪失につながっ てしまいますから、実はゴジラかくあるべしという基準は必要です。
ゴジラ映画のパターンに制限はなくとも、ゴジラそのものは厳密に同一の物でなければな りません。
その二つの条件を満たそうとすれば、自然と円谷時代のゴジラ像に回帰するしかないので す。
(まあその、巨大な怪獣を登場させるという「縛り」に合わせればある程度はストーリー にも制限がかかってくるとは思いますけど。ちなみに現在放送中の「ウルトラマンネクサ ス」は怪獣・巨大ヒーローを全く活かさないストーリーになっているので落第)
777
Re:ゴジラ無愛想路線 レグルス

2005/03/07 21:36


男性 28歳 A型

> 感情を動かすことが目的になっているものがあるとすれば、それは(広い意味での)芸術 作品だけでしょう。(サイコ野郎とか神仏悪魔の類を持ち出せばそんな設定をひねり出す ことは出来ますけど)
> 映画『ゴジラ』になんらかの恐ろしさを感じたとしても、登場した怪獣ゴジラが人間を怖がらせようとしていたわけではないということです。

たとえばホラー映画の代表の1つである『エイリアン』だって、
エイリアンそのものに感情移入すればそれほど怖いとは思わないでしょう。
(『エイリアン』では演出が巧いのでさすがにそんな隙はありませんが)
『エイリアン2』では子供を殺されたクィーン・エイリアンの悲哀すら感じさせますし。
(この作品は怪獣映画のテイストに近いかもしれません)

> 私の受け止め方では、人間にとっては大変深刻な一大事が起こっているのにゴジラにはそんな意識がなく無邪気に振る舞っているところにそこはかとない「おかしみ」があるので す。
> それは確かに悲劇と表裏一体なのですが、ゴジラの無邪気さが滑稽に見える瞬間があるのです。
> まあ、電撃を受けて都内へ侵攻してからは怒りが勝っていて、無邪気というだけではなくなりますけれど。

私と殿様ギドラさんとで、おそらく一番の違うのがこの「無邪気」の使い方/捉え方では ないでしょうか。

無邪気という言葉には、邪気が無い、すなわち純粋/素朴である、という意味もあります が、
普通はもう少し天真爛漫というか豪放磊落というか、子供みたいなものを指すというイ メージですよね?

私の場合はマンガ版のナウシカに出てくる巨神兵や粘菌のような、
敢えて単純な言い方をすると、下等生物の行動を観察している生物学者的な見方、
というんでしょうか…、そんな捉え方なんですね。
感情を無視して行動だけを捉えているというか…。
(その意味では「無邪気」の原義に近い捉え方といえるとも思うのですが)

もちろん初ゴジは生物としてもしっかり描かれているので、無生物的というか、
下等生物的(下等生物と書くと見下した感じになってしまうのが困ったところなんです が)に
見るのはおかしいのですが、
殿様ギドラさんとの違いを浮かび上がらせようとするとこう書くしかないかな…と思った もので。

こんな捉え方をしているので、『初ゴジ』のゴジラの行動を見ていても滑稽だとは思わな いんです。
私のイメージでは『フランケンシュタイン』的というか、
自分の身体を自分の理性で制御できずに暴走しているような感じ、に見えるんです。

正確に表現できているかどうか心もとないんですが…。
少なくとも自由に動き回っている「無邪気」とはほとんど対照的であることは感じて頂け るかと。

> そして、ゴジラ映画の自由度を確保するためにはゴジラそのものの設定・気質を原点に戻すことが大事。
> 怒るだけの存在だったり、放射性物質を「食い」に来るものだったりではバリエーションが生まれませんよ。
> また、作品ごとにゴジラの属性が変わってしまうのではアイデンティティ喪失につながってしまいますから、実はゴジラかくあるべしという基準は必要です。
> ゴジラ映画のパターンに制限はなくとも、ゴジラそのものは厳密に同一の物でなければなりません。
> その二つの条件を満たそうとすれば、自然と円谷時代のゴジラ像に回帰するしかないのです。

ここからは初ゴジ原理主義者ではない、全肯定主義の私の発言になりますのでご注意を (^^;)

 “ゴジラ映画のパターンに制限はなく”てよく、
さらに
 “ゴジラ像(設定)にも制限はない(自由に変えて良い)”
というのが私の意見です。

ゴジラ映画が既に広義の怪獣映画と同義になっている(東宝のマーケティング的に?)現 状では、
色々な可能性を試してみていいと思います。

またまた同じG作品、ガンダムシリーズを挙げてしまうのですが、
伝説の初代『ガンダム』、
初代を否定したかのようなクールな『Z』、
ロボットアニメの軽いノリを出した『ZZ』、
ある意味『GFW』の方向性に近い『Gガンダム』、
牧歌的な『ターンA』、
女性ファン開拓を果たした美少年もの『W』『SEED』などなど、
長い歴史、幅広いファン、作品ごとに違う監督、コンセプトの散らばりかたなどは、
比較の対象としては充分だと思うのですが。

なにより、『ガンダム』というのが1つの作品に留まらず、
ジャンルにまで拡大してしまった、ということが共通しています。
(知らない方、スイマセン)

もちろん技術的にも内容(テーマ)的にも優れた作品なら、という大前提があるのは言う までもありませんが。
(これは重要です)

> (まあその、巨大な怪獣を登場させるという「縛り」に合わせればある程度はストーリーにも制限がかかってくるとは思いますけど。ちなみに現在放送中の「ウルトラマンネクサ ス」は怪獣・巨大ヒーローを全く活かさないストーリーになっているので落第)

いちおうチェックだけはしてますが、何がしたいのか見えてこないんですよね…。
最後か中盤かでそれまでの場面がくるっと反転するような仕掛けがあれば良いのですが。
778
Re:ゴジラ無愛想路線 殿様ギドラ

2005/03/08 14:20


男性 42歳 O型

お おーっと、レグルスさん、スリーセブンおめでとうございます!
(そーかー、もうじき投稿数800番台か。過去最高間違いなしです)

エイリアンと怪獣の対比は掘り下げるべき課題ですね。
ギドラの巣特撮祭でも過去に何度かエイリアンが話題に上ったことがありますし。

第一作『エイリアン』でのエイリアンは狭義の怪獣にすごく近いものがあったと思いま す。
絶対に殺せない怪物であり、人間と共存は出来ないというあたりは怪獣映画の構図によく 似ています。
エイリアン側に立って鑑賞すれば決して悪ではないし、生きるために必要なことをしてい るだけなのでエイリアンがんばれとも思えなくもない?
まあ、あの作品は人間側から描くことで恐怖感を作り出していますから、作品をストレー トに受け止めればエイリアン側に立つことは無理なんですけど。
で、第二作以降徐々にエイリアンの立場も感じさせる作りになっていって、『エイリアン 4』に至ってはリプリーのエイリアン化を経て明らかに観客をエイリアン側に立たせよう としてますよね。
キャラクターの発展過程として興味深いです。
(エイリアンシリーズの場合、作品によって生物エイリアンの設定が変わってしまってい ることがあるのであまり上出来とは言えませんけど)

私がゴジラに対して使った「無邪気」という言葉はレグルスさんの解釈で正しいです。
でも確かに一般的に「無邪気」というと「あどけなさ」と同列に使われていますから、 ちょっと誤解を招く表現だったかもしれません。

多分レグルスさんも私も初代ゴジラの描写を通じて受け止めている「現象」は同じなのだ ろうと思います。
そこから先が主観の領域になっていって、たとえば降りしきる雪を見たときどんな感情が 喚起されるのかは十人十色というのと同じことになっているのでしょう。

その違いはそのままでいいと思います。
つまり、無理矢理ひとつの受け止め方に収斂させるような演出までいかなくてもいいん じゃないか、と。
(んー、それでも『キングコング対ゴジラ』以降鮮明になっていくゴジラの剽軽さは大事 にしたいなぁ)

重要視したいのは、初代ゴジラであっても「人間に対する恨み」とか「怒り」だけに突き 動かされて上陸してきたわけではないということで、
初代ゴジラがひたすら恐怖を煽るだけの芝居をしていたわけではないということです。
この部分が世間ではまだまだ誤解されたままであると感じています。
ゴジラをことさら恐ろしげに見せることでさも初代を継いでいると思いこんでいるよう な・・。

レグルスさんの全肯定主義に立脚したご意見、緩く構えればそれもあり、という感覚はわ かります。
映画は学問ではありませんから、論理的な整合性が無くても「やったもん勝ち」という部 分はありますし。

>ゴジラ映画が既に広義の怪獣映画と同義になっている(東宝のマーケティング的に?) 現状
これはどうなんでしょう。
一般的にそんな認識になってしまったんでしょうか。
確かに東宝のやり方を見ていると、怪獣をゴジラに集中させてしまって何が何でもゴジラ シリーズにしてしまっているようではありますね。
私としては、そんな現状に否と言いたいです。
なにもかもをゴジラに背負わせるからゴジラがゆがんでしまうんじゃないか、と。

ガンダムシリーズのたとえが出ましたが、私は第一作(ファーストって言うんでしょう か)と「Z」「ZZ」の途中までしか知らないので認識不足はありましょうけれど、
ゴジラ映画がガンダムシリーズのような筋の通し方をしてバリエーションを広げることに はそんなに反対ではないです。
ただし、そうなるとゴジラが出ないゴジラ映画が作られることになってしまいますけど。
たとえば、アムロ中心だったファーストですが、それとは別の方向を目指した「Z」では 主人公がアムロではありません。
アムロの設定や気質を変えて別の物語に登場させているわけではないのです。
ガンダムもそう。
RX-78はあくまでも一種類であって、ガンダムの名前を持っていても別機種であるな らそれこそ「Z」とか「ZZ」と名前が変わっていますね。
また、第一作とは別世界が舞台になっている作品もあるようですが、そこにはRX-78 は出てこないんじゃないでしょうか?
(ひょっとして出てくるの?)
ゴジラの設定や気質を変えてしまうというなら、相当の覚悟を持って枠組みを変えてしま わなければなりません。(←第一作『ゴジラ』のストーリーから引き継いでいながら別物 を出すのは間違っている)
(実は、その部分ではエメリッヒ版は間違ったことをしていない。それでもあんなのゴジ ラじゃないと言われてしまうわけで、やっぱりゴジラを名乗るには守るべき基準があるの では?)

厳格な基準で考えれば、本多・円谷コンビ作の精神を受け継いだものでなければ、枠組み 変更というような筋を通していようがいまいが認められないところですし、
出来不出来の判断とは別に、鑑賞しても好きにはならないとは思います。

>ネクサス
く~、言いたいことはたくさんあるけど、板違いなので我慢我慢。
780
再び「ゴジラ映画とは?」 レグルス

2005/03/08 23:28


男性 28歳 A型

> おおーっと、レグルスさん、スリーセブンおめでとうございます!

全然気が付きませんでした(^^;)

> で、第二作以降徐々にエイリアンの立場も感じさせる作りになっていって、『エイリアン4』に至ってはリプリーのエイリアン化を経て明らかに観客をエイリアン側に立たせよう としてますよね。
> キャラクターの発展過程として興味深いです。

平成ガメラでも同様のパターン(掘り下げ)がなされていますが、
これはシリーズ化というよりも○部作というような、
閉じられたタイプの作り方です。
この形式だと掘り下げる対象が底を突くので、何作も作ることはできません。
反面、内容的にはレベルの高いものができると思います。

私はSF映画の続編はこの方式が良いと思うんですが…。
寅さんとか座頭市とか、人間が主役の映画なら何作でも作れますが…。
あ、殿様ギドラさんが要望/主張されている40年代ゴジラの方法なら
これと同じ方式で何作も作れるわけですよね…?

> 多分レグルスさんも私も初代ゴジラの描写を通じて受け止めている「現象」は同じなのだろうと思います。
> そこから先が主観の領域になっていって、たとえば降りしきる雪を見たときどんな感情が喚起されるのかは十人十色というのと同じことになっているのでしょう。

そのようですね。

> (んー、それでも『キングコング対ゴジラ』以降鮮明になっていくゴジラの剽軽さは大事にしたいなぁ)

あれから思い浮かんだのですが、
40年代ゴジラって(良い意味で)“子供向け”といえるのではないでしょうか?
でも『初ゴジ』はより一般的な大衆娯楽映画ですよね?(大人向けの娯楽作品と言っても いいかも)
もちろんゴジラ映画や映画全般に限らず、マンガなどでも、
“子供向け”であっても良い作品はありますし、個人的に好きな作品もあります。
(『クレヨンしんちゃん 戦国大合戦』『同 大人帝国の逆襲』なんかほとんど大人向け の領域です)

でも、私が『初ゴジ』を絶賛するのはゲテモノ設定映画を、
大人が普通に観られる映画として作り上げた点にあるのです。
CG技術の発達によってハリウッドのスペクタクル映画が、
模型が動いている“ごっこ遊び”ではなく、実写と変わらぬ(違和感のない)“普通の映 像”として、
何の抵抗もなく観られるようになった事と近いのかもしれません。

“子供向け”の意図を誤解されるといけないので補足しておきますが、
逆に、“子供だまし”なのが『GFW』である。
と、こう書けば理解して頂けるかと(^^;)


> 重要視したいのは、初代ゴジラであっても「人間に対する恨み」とか「怒り」だけに突き動かされて上陸してきたわけではないということで、
> 初代ゴジラがひたすら恐怖を煽るだけの芝居をしていたわけではないということです。
> この部分が世間ではまだまだ誤解されたままであると感じています。
> ゴジラをことさら恐ろしげに見せることでさも初代を継いでいると思いこんでいるような・・。

この“世間”が、ゴジラ映画をあまり見たことのない一般ピープルを指しているのか、
最近のゴジラ映画制作者をも含めているのか。
殿様ギドラさんは両方とも、という意図ですよね?

私に言わせれば、これには『オール怪獣』から『対メカゴジラ』までの
ゴジラのウルトラマン化のトラウマなのだと思えます。
「正義の味方ゴジラなんて、わたしゃ認めないよ」という反動・反発が
『初ゴジ』で描かれた以上にゴジラを恐怖の象徴と解釈させてしまったのでしょう。
(しっかり再見せず、昔観た記憶をたよりに曲解している部分も多いと思われます)

全ての元凶は『オール怪獣』から『対メカゴジラ』にあるのかも……?

> 確かに東宝のやり方を見ていると、怪獣をゴジラに集中させてしまって何が何でもゴジラシリーズにしてしまっているようではありますね。
> 私としては、そんな現状に否と言いたいです。
> なにもかもをゴジラに背負わせるからゴジラがゆがんでしまうんじゃないか、と。

テーマを第一に考えれば、ゴジラである必然性のないゴジラ映画は多いです。
『84ゴジラ』以降でみると、ゴジラである必然性が感じられたのは、
『VSデストロイア』『メガギラス』『GMK』『×メカゴジラ』
くらいでした。(長くなるので今回は理由は省略)

こうなると、逆にゴジラ映画のゴジラ映画たる所以はなにか、という所まで考えが及んで しまいます。

昭和ゴジラにしても映画のテーマ的にゴジラでなければならない必然性がない作品も多い です。
厳密には『対メカゴジラ』くらいではないでしょうか。
ゴジラ映画として違和感を感じないのは、
殿様ギドラさんの言われている
ゴジラというキャラクター設定が『初ゴジ』から継承されているという点、
(個体としては『初ゴジ』と『逆ゴジ』以降別ですが)
これに尽きるでしょう。
ゴジラのアイデンティティが極めて明解なので、
『座頭市』が“勝新太郎主演作品”であるように、
“ゴジラ主演作品”として視聴者が違和感を抱くことはありません。
(まあ『ヘドラ』なんかは怪しいですが…)


> たとえば、アムロ中心だったファーストですが、それとは別の方向を目指した「Z」では主人公がアムロではありません。
> アムロの設定や気質を変えて別の物語に登場させているわけではないのです。
> ガンダムもそう。
> RX-78はあくまでも一種類であって、ガンダムの名前を持っていても別機種であるならそれこそ「Z」とか「ZZ」と名前が変わっていますね。
> また、第一作とは別世界が舞台になっている作品もあるようですが、そこにはRX-78は出てこないんじゃないでしょうか?

私のオリジナルではなく誰かの至言ですが、
たくさんあるガンダム作品の主役は“ガンダムという名前のロボット”です(^^;)
またはファーストから続く架空歴史(宇宙世紀)に収まっているか、
そのどちらかに当てはまります。

> ゴジラの設定や気質を変えてしまうというなら、相当の覚悟を持って枠組みを変えてしまわなければなりません。(←第一作『ゴジラ』のストーリーから引き継いでいながら別物 を出すのは間違っている)

ですから上のガンダム作品論理から(そして私のゆるいゴジラ映画基準も)、
“第一作『ゴジラ』のストーリーから引き継いでいながら別物を出す”
のもOKなんです。姿が“ゴジラ”なら。
あるいは初ゴジ原理主義的に初ゴジと同じ設定/世界観/テーマ/演出方法であるか。
つづきはこちら
773
ゴジラの愛嬌について YS

2005/03/05 23:33


男性 47歳

レ グルスさん、ねるんガボラさん、ギドラさん、つつ大臣さん、KJさん、ご意見ありがとうござい ます。

初めての投稿で、これだけのご意見をいただき感激しています。
ゴジラ関係の掲示板の中で、この掲示板が一番議論が深いように感じて、今までずっと読ませてい ただいていました。

実は私も84年のゴジラ復活前は、初ゴジ信望者でゴジラは怖くあるべきだと思っていました。
その後、平成シリーズには今ひとつのめり込めず、もう現代では怪獣映画を創る設定が無理なのか と思っていました。
対ゴジラ兵器が強くなるにつれ、どんどんゴジラの強さもエスカレートし、ストーリーはシリアス さを追求している風ではあるが、リアリティがどんどん失われてきているような気がしていまし た。

ゴジラの愛嬌を肯定的に捉えるようになったのは、ごく最近のことです。
昭和(主に40年前後ぐらい)作品は、時代もあったのでしょうけど、もともとおおらかという か、あまりリアリティというものを意識せずに作品世界に入り込めるように思えます。
もちろんストーリー展開上のリアリズムはあるのですが、設定自体はもともと架空のものとしてい わゆる「お約束」として捉えられるものでした。
そんな中で怪獣をやんちゃ坊主のように扱うことで、表現上の幅が広がったのではないかと思いま す。
怪獣同士の対決シーンも、軽快な動きも不自然でなくなりますし。
画面を見ていても楽しいし、怪獣に感情移入ができるんですよね。
これが復活以降の重々しいゴジラだと動きが重厚でなければという制約が生じます。

私も初ゴジは別格と捉えていますが、シリーズ化するとなると最も成功した昭和40年前後の設定 から学ぶところが多いかと思います。
GFWが惜しかったというのはそういうところにもあって、あれは怪獣大戦争の焼き直し的な面も 強いので、もっと昭和テイストを出せていたらと思うんです。
776
Re:ゴジラの愛嬌について 殿様ギドラ

2005/03/07 15:31


男性 42歳 O型

YS さん、なんと嬉しいことをおっしゃってくださるんでしょう。

私はゴジラ映画の現状に大変な危機感を持っています。(いや、実際シリーズ休止になっ てしまいました)
ゴジラファンが新作を肴に親睦を深めるような掲示板はよそに山ほどあります。
そんな中、きちんと作品全体を論評する場がないのでは困ると思いまして三年前から始め たのが新作ゴジラ映画を語る掲示板でした。
嬉しいことに毎年投稿してくださるレギュラーメンバーも出来、また、新規に書いてくだ さる真剣な方も多く、みなさんの力で目的に添った話し合いが出来る場となりました。
自分としてはただ一所懸命やってきただけなのですが、深い議論になっているなら本当に 嬉しいです。(参加者の皆さんのお陰です)

759番スレッドで初代ゴジラを切り口にあれ これと書きましたが、議論を単純化するには受け止め方にばらつきの大きい初代ゴジラは ひとまず置いておいて、昭和40年前後のゴジラを軸にしたほうがいいんですよね。
『キングコング対ゴジラ』から『南海の大決闘』までのゴジラをベースにすればまず間違 いないと思います。
(初 代ゴジラもキンゴジ以降とそんなに変わりがないよと主張しているのは、私の持論である ことはもちろん、そこをしっかり主張しておかないと、今後創る作品で ゴジラを変容させることの言い訳《昔のスタッフだってゴジラを変えちゃったじゃない か》にされそうで怖いからだったりします)

>怪獣をやんちゃ坊主のように扱うこと

大賛成です。
これが大事なんです!!(DVD『三大怪獣地球最大の決戦』オーディオコメンタリーに よると円谷一監督も円谷英二演出に同様な感想を持っていたそうです)
この感覚を保持した怪獣映画が絶滅しています。
『ゴジラ2000ミレニアム』と『ゴジラ×メガギラス』での怪獣演出には惜しい物が あったと思います。
ところがいわゆるゴジラファンにはあまり好評ではなかったようでもあり・・・。
どうも、80年代のゴジラ論に洗脳されたファンが多いんじゃないか、また、怪獣映画評 論がまだまだ発展途上で核心を突いていないんじゃないかと心配です。

近年の怪獣映画は「深刻な事態」さえ設定すれば「感心」してもらえると勘違いしている ように見えます。

初ゴジは別格というご意見にはある面で賛成です。
映画『ゴジラ』はゴジラ映画の中で別格(特殊)ですから、『ゴジラ』の仕上がりを参考 にしてもシリーズ化のヒントはあまり見つからないでしょう。
782
Re:再び「ゴジラ映画とは?」 殿様ギドラ

2005/03/09 17:03


男性 42歳 O型

780番記事のつづきですが、スレッドがすっかり長く なったので別スレにしますね。

主役キャラの内面に入り込んでいくのはシリーズ物として危険な行為なんですよね。
レグルスさんが指摘したように「掘り下げる対象が底を突」いたときに先へ進めなくなってしまい ます。
あるいは、その「主役キャラ」が本来担っていた物語上の役割を果たせなくなり、結果魅力を発揮 できなくなります。
(近年のウルトラマンはそこにはまりこんでいる)

このやり方が高度な内容を描くことになるのかどうか、私はちょっと疑問に思います。
私小説的な「掘り下げ」が可能ではありますが、複数の視点から大きな出来事を描くことで得られ る「高度な」ストーリーとは両立しにくいのが難点でしょう。

シリーズ物といっても、長いストーリーを分割した物と主人公が共通で毎回別のストーリーを描く 物では考え方を変えるべきですね。
例に挙がった寅さんや座頭市では主人公の立場が不変なのでシリーズ化しても自滅することがな かったものと思います。
(寅さんは、だんだん劇中での役割が変わっていって人間的成長があったみたいですね。初期の作 品しか見たことがないので後期にどうなっていたのか想像するしかないですが、「男はつらいよ」 シリーズは長大なストーリーを分割したものだとも言えそうです)

ゴジラだと寿命がどれぐらいかわからないし(加齢を描く必要がない)、人間のようなしがらみや 葛藤とは無縁ですからゴジラの内面的成長をほとんど気にする必要はありません。
(「三大怪獣~」でモスラに説教されて少しは考え方が変わったのか??)
ですからゴジラが変容しなくても問題ないですし、ゴジラは特定の人間と関わりを持つわけではあ りませんから毎回のストーリーや舞台に縛りがないです。(←このあたりは座頭市に近い?)
昭和40年代、というより昭和40年前後のゴジラ映画から方法論を盗めば無限にゴジラ映画が作 れるはずだと思います。
(YSさんのご指摘であります)

『オール怪獣大進撃』はほかのゴジラ映画とはまったく別枠の作品なので除外しますが、1960 年代のゴジラ映画を基本にして欲しいといってもいいです。
(「オー ル~」はほんとにものすごい「覚悟」で枠組みを変えている作品です。曖昧さを残しているとはい え、劇中の「現実」に怪獣が登場することがありません。そこ までやってようやく少年の成長物語を主軸に出来たのだと思います。それまでのゴジラ映画の枠組 みで同じ内容にしてしまったなら相当いびつな作品になったで しょう)

1960年代までのゴジラ映画は客層を限定しない全方位の娯楽映画だったと思います。
それは第一作『ゴジラ』も同じで、『ゴジラ』公開当時、子供たちの人気も相当な物だったようで すよ。
(「サザエさん」にゴジラを見たいとせがむカツオがネタになったものまである)
ゴジラ映画に限定して見渡すと、『ゴジラ』『ゴジラの逆襲』と来て、突然雰囲気の違う『キング コング対ゴジラ』が出てくるので大きく方向転換したように錯覚することもあるかと思いますが、
これを東宝特撮映画の流れで見ていくと、『空の大怪獣ラドン』もあるし『地球防衛軍』やら『大 怪獣バラン』、『モスラ』と徐々に変わってきたことに気が付きます。
これは日本映画全体の雰囲気が変わってきたことに呼応しているのだと思います。
『ゴジラ』が持っている雰囲気は昭和20年代の日本映画の味と密接な繋がりがあるのではないで しょうか。
(『ゴジラ』以外の作品を見ても、現代劇であれば戦争の影響が随所に出てきます。『東京物語』 の原節子は戦争未亡人ですし)

もちろん『ゴジラ』には平和への願いという重い観念が含まれていますから、作品全体の雰囲気が 怪獣スペクタクル重視の作品とは違っているのは当然ですが、『ゴジラ』当時でも子供の観客を十 分意識していたと推察します。
(新吉の存在に作り手が年少観客を意識していたことが見て取れる)
一般的な大衆娯楽映画という括りでは1950年代のゴジラ映画も60年代のゴジラ映画も同様で あったと考えています。
(1970年代に入って明らかに子供中心に変わる)

>この“世間”が、ゴジラ映画をあまり見たことのない一般ピープルを指しているのか、
>最近のゴジラ映画制作者をも含めているのか。
>殿様ギドラさんは両方とも、という意図ですよね?

おっしゃるとおりです。
そのうえ、ゴジラファンにも誤解している人がいるんじゃないかと・・・。だもんで「世間」と大 雑把に書いてみました。

>ゴジラのウルトラマン化のトラウマ

確かにそれもありそうですね。
70年代ゴジラを幼少期に見た世代が、幼児性から脱却したと言いたいために正義の味方ではない ゴジラを求めるあまりゴジラを「悪」と規定してしまったと言ったら言い過ぎ?
書籍などで論評を読むのも役に立つけれど、まずは作品そのものに触れなきゃダメですよ。
もともとゴジラは「敵」とか「悪」とかいう単純な物ではなかったのです。
(劇中、倒すべき相手とされていることもありますが、観客の気持ちを「ゴジラを倒せ!」の方向 へ持っていく作品はほとんどないです。『ゴジラ』であっても、無条件にゴジラを殺して良いこと にはなっていない)

ゴジラ映画がゴジラ映画たるゆえん、となると、究極には

>ゴジラというキャラクター設定が『初ゴジ』から継承されているという点

でいいと思います。
作品全体のテーマがゴジラという存在と密接に結びついているのは『ゴジラ』だけと言っても良い かもしれません。
(ゴジラありきで発想されたストーリーというのとはちょっと違うことです)
それは映画『ゴジラ』のために創案された怪獣がゴジラなのですから当然のことですね。
しかし、実際に映画に登場したゴジラは生物としての存在感を強められた結果、『ゴジラ』のス トーリーが要求する以上の個性を発揮してしまった。
(『ゴジラ』での役割だけを全うするなら、あの姿形と熱線、あとは暴れていればそれでいいの に、ちょっとした仕草にまで気を遣った演出があったので『ゴジラ』以外でのゴジラも見たい気持 ちにさせられるのであります)
そんなゴジラがいろんなシチュエーションの中で何をするのかを見たいですし、それに対して人間 「たち」がどう対処するのか、どんな迷惑を被るのかというのがゴジラ映画ではないかと思うので す。
それを基本にして考えると、一連のメカゴジラもの(機龍も含む)や「×メガギラス」などはゴジ ラありきで発想されているためにストーリーの広がりに乏しく、あくまでも変化球という受け止め 方になります。
(ゴジラがゴジラ以外の要因とどう絡むかという話のほうがおもしろいのでは?まあ、メカゴジラ ものはニセ黄門みたいなものですから、20年に一度ぐらい作ってもいいですが)

>ガンダム作品の主役は“ガンダムという名前のロボット”です(^^;)

そーなんですよね。
ガンダムは機械なので、それもありなんですが・・。(ただまあ、第一作とまったく繋がりのない 世界に出てくるモビルスーツにガンダムと名付けている場合は無理があるなーと思う)
それは機龍がメカゴジラと称されるのと同じようなことだと思うのですが、ゴジラとなると特定の 個人(個獣?)を指すんじゃないかとも思えるわけで・・。
こ れが、最初からゴジラというのが種族名であるという描かれ方(いや確かにそうでもあるんです が)をしていて、同一作品に複数のゴジラが出てもおかしくない ようなシリーズだったら別世界のゴジラやぜんぜん気質の違うゴジラというものもバリエーション として認められるところかもしれません。
『ゴジラ』のころだとそういう展開もありだったのかもしれないですが、その後のシリーズ展開を 見れば、ゴジラというのは特定の個体を指しているとしか思えないですし、
また、そうであったからこそゴジラが人気者になったとも言えるのではないでしょうか。
ゴジラが固有名詞ではなく普通名詞になってしまったら、「ゴジラが好き」と言っても「どのゴジ ラ?」と問わなければなりません。
そして、ガンダム作品の主役がガンダムだといっても、ガンダムに「萌えて」いる人っているんで しょうか。(いるのかなぁ?メカ萌えもありか・・)
それでもどのガンダムにも均等に萌え~ってことはないんじゃないでしょうか。
やはりそこにはそれぞれにアイデンティティがあるわけで、その差別化が「好き」「嫌い」の基に なっているはずです。
アイデンティティなきものには人気も出ないと思いますよ。
783
Re:再び「ゴジラ映画とは?」 レグルス

2005/03/11 21:59


男性 28歳 A型

> 主役キャラの内面に入り込んでいくのはシリーズ物として危険な行為なんですよね。
> レグルスさんが指摘したように「掘り下げる対象が底を突」いたときに先へ進めなくなってしまいます。
> あるいは、その「主役キャラ」が本来担っていた物語上の役割を果たせなくなり、結果魅力を発揮できなくなります。

つまりは“シリーズとして何作も続ける”ことが必要なのかどうか、ということが相違点 ではないかと。

私の場合、寅さんや座頭市のような毎年毎年何作も作る必要があるのか、
それもゴジラ映画において質と量の両立が可能なのかどうか、懐疑的なんです。


殿様ギドラさんは「40年代ゴジラがその証明ではないか」と言われると思うのですが、
私は『モスラ対ゴジラ』を除くと、そのあたりの作品が(嫌いではないにせよ)それほど 好きではないので…。

怪獣映画というのは本質的に“閉じた”ものではないか、
あるいはそれでこそ魅力を発揮できると思っています。

その魅力とは“怪獣の発見─出現─破壊─対策─撃退/退去”という
“非日常の発生からその終息”であり、
それともなって起きる人間の感情の変化です。

怪獣というのは人間とは異なる生物であり、
それがどう異なるかを描くのが怪獣映画だと思ってます。
なので、それが人間と順化してしまうと、
それによるドラマ(日常の異化)もまた終わってしまうと思うんですよね…。

ゴジラと人間が共存することが普通になってしまい、
なおかつ怪獣映画たらんとすると、毎回新怪獣を出さざるをえず、
そうして新怪獣を真摯に描くと『ヘドラ』のような本末転倒になるしかない気がします し…。

『三大怪獣』『怪獣大戦争』『怪獣総進撃』などは、
ある種パラレルワールド的に、毎回異なる舞台設定を用意したので
(完全な続編でも、明らかなパラレルワールドでもない)
それなりに破綻のない世界観を作ってはいますが。

> 昭和40年代、というより昭和40年前後のゴジラ映画から方法論を盗めば無限にゴジラ映画が作れるはずだと思います。

というわけで初ゴジ原理主義の私はシリーズ化には反対なのです。
全肯定主義の私は“そういうバージョンのゴジラ映画もあっていい”という感じです。

はたしてここまでゴジラの設定がこじれた現在、逆ゴジの現在を描けるかどうかはちょっ と難しいと思いますが。

> もちろん『ゴジラ』には平和への願いという重い観念が含まれていますから、作品全体の雰囲気が怪獣スペクタクル重視の作品とは違っているのは当然ですが、『ゴジラ』当時で も子供の観客を十分意識していたと推察します。
> (新吉の存在に作り手が年少観客を意識していたことが見て取れる)

勝手に順番を入れ替えて申し訳有りませんが、
それは
> 1960年代までのゴジラ映画は客層を限定しない全方位の娯楽映画だったと思います。
こういうことですよね?


> 70年代ゴジラを幼少期に見た世代が、幼児性から脱却したと言いたいために正義の味方ではないゴジラを求めるあまりゴジラを「悪」と規定してしまったと言ったら言い過ぎ?

一日考えていて思いついたんですが…。

これは怪獣映画ファンが言う意見だ、ということを踏まえて読んで下さい。

おそらく怪獣なんていうのは出てくるだけ恥ずかしい存在なんですよ。
怪獣が暴れてるだけのTV番組や映画を見ていて、どことなく気恥ずかしかったり、
「作り物だってことは分かってるよ!」と開き直って見る必要があるのは、
視覚効果/特撮技術の未熟さをおいても、
やはり怪獣が出てくる作品なんて幼稚だ、という理性(?)が
どこかに働いているのだと思います。

だからその恥ずかしさを覆い隠すために
「人類とは」「生命とは」「戦争とは」「科学/技術とは」「自然とは」
というような大層なテーマが必要になるんです。
『ゴジラ』『ラドン』などを殊更気負うことなく観られるのはそれがあるためです。

平成ガメラにはそれがないですが、
それはこれまでの怪獣映画のオマージュ/メタ的な制作者とファンの共同意識と、
戦争映画のスタイルを導入している、というひねりがあるからでしょう。


> ゴジラが固有名詞ではなく普通名詞になってしまったら、「ゴジラが好き」と言っても「どのゴジラ?」と問わなければなりません。

殿様ギドラさんの趣旨を誤解しているかもしれませんが、
私は『84ゴジラ』が最初に見た平成ゴジラ世代なので、
「どのゴジラ?」というのにも違和感を感じません。

現状では個体としては固有名詞的ですが、メタ的(ゴジラ映画的)には普通名詞化してい るといっていいでしょう。
“ゴジラ映画”というのも、あのゴジラ(逆ゴジ)が主役のゴジラ映画ではなく、
黒いゴツゴツした表皮に、二本足立ちで背ビレがあるゴジラという名前の怪獣が出てくる 映画、
というのが一般的な、そしてある程度までのゴジラ映画ファンの認識になっています。
(殿様ギドラさんはその現状を嘆かれているわけですよね?)

> そして、ガンダム作品の主役がガンダムだといっても、ガンダムに「萌えて」いる人っているんでしょうか。(いるのかなぁ?メカ萌えもありか・・)

キャラはどうでもよくてメカにしか興味がない/メカのほうが好き、って人も多いです よ。
私なんかもどちらかというとそのクチですが。
784
Re:再び「ゴジラ映画とは?」 殿様ギドラ

2005/03/12 12:20


男性 42歳 O型

お お、いいですね。
未来に繋がるいい話になって参りました。
さすがに世間様のGFWへの興味も薄れたか、アクセス数は減少傾向ですが、ある意味こ こからがこの掲示板の本番です。(ええっ、そうだったの!?)
ゴジラ50周年の節目であり、シリーズ休止が発表されている今語らずにどうしますか。
ここでこんなことを書いても読んでいない人には伝わりゃしませんが、新作があるときだ けゴジラファンなりぃと浮かれ騒ぐ程度じゃ甘いですぞ。
(と、煽る)

さてさて、シリーズ化に価値があるのかどうかですね。
レグルスさんが怪獣映画に感じる魅力というのは怪獣映画の第一段階だと思うのです。

未知の怪物が現れ、その出自や性質を解き明かしつつ対策していくというストーリーが怪 物ものの基本ですね。
そして、怪獣の特徴にストーリー全体のテーマ性が織り込まれている、という構造になる わけです。
この基本形を至上の物とすれば、同一の怪獣がシリーズ化されるのは間違っています。
同じ怪獣を登場させてしまえば、同じ物語にしかなりえないことになります。
(それを考慮して、私はゴジラ一匹しか出てこないゴジラ映画には反対なのです。よほど の変化球を考えなければ『ゴジラ』の再話になってしまう。ないし、芯がボケた『ゴジラ (84)』になる)

『ゴジラ』以外の怪物映画(『原子怪獣現る』『放射能X』『地球へ2000万マイル』 などなど)もその基本形に則っていますね。

『ゴ ジラ』でゴジラを倒したのが人類の英知ではなく、ひとりの天才が偶然発見した「現象」 (オキシジェンデストロイヤーは徹底的にぼかされていて、薬剤のよう にも見えるし力場を発生させる装置にも見える)であり、そこには科学技術の未来像とい う観念が込められているために、
ストーリー上では再現不能のものとされています。
本来的には二匹目のゴジラが出現してしまったら、人類には打つ手無しという発想であ り、シリーズ化してはいけない設定であります。
(二匹目のゴジラならぬドジョウを狙った『ゴジラの逆襲』でもその設定は守られてお り、オキシジェンデストロイヤーなしにはゴジラを殺すことは出来ないために氷に埋める という消極的なゴジラ撃退法になっている)

東宝怪獣映画も『大怪獣バラン』ま では怪獣を殺すことで物語を終焉させていますが、『モスラ』で大転換します。
人間側に「悪」を登場させることでストーリーの終着点から怪獣撃退を逸らしたのです。

ここから怪獣映画の第二段階が始まります。
怪獣が死ななくても怪獣映画は成立することに気づいたのです。

それは、レグルスさんも指摘している「日常の異化」さえあればたとえ怪獣が殺されなく ても映画表現の価値を生み出せるということです。
それをはっきり示したのが『キングコング対ゴジラ』でしょう。
ここには悪人は登場しません。
それでもゴジラ・キングコング・怪獣対策に苦慮する人類という三点を軸に、それらをリ ンクさせるように主要登場人物が動いていくことで見事な「日常の異化」を行っているわ けです。
これは、もう殺すことが出来ないゴジラを登場させつつストーリーを終わらせるにはどう すればいいかと苦慮した結果かもしれません。
怪獣の退場を怪獣同士の対決に委ねた作りになっています。
これは続く『モスラ対ゴジラ』『三大怪獣地球最大の決戦』『怪獣大戦争』でも同じで す。

これこそ、ゴジラ映画の黄金律であると考えます。
またこれによって、通常は人類の勝利で終わらせるべきディザスタームービーにもうひと つのパターンを作り出したわけです。
人類は当面の危機から脱するものの、人類が勝ったわけではない。人類には及ばない力が あるのではないか、という観念を打ち出すことです。
(このあたりの考え方は、怪獣映画よりむしろ『士魂魔道大龍巻』《監督稲垣浩・特技監 督円谷英二》にはっきり表れています)

ここで大事になるのはやはり「日常の異化」なんですよね。
極めて空想的な怪獣映画にリアリティを与えるためには、劇中の事物が現実味を帯びてい なければなりません。
怪獣という「空想」を際だたせるため、と言っても良いかも知れません。
観客にとってなじみのある現実が、怪獣という空想で「異化」されるわけです。

ですから、怪獣映画にはよほどの必要がない限り架空の社会体制や組織を出すべきではな いのです。
(そのルールを守るためには、シリーズ化したときでもあまりがちがちに前作からストー リーを繋いではいけない。そこを失敗したのが平成vsである)

観客がゴジラやその他のスター怪獣にすでに慣れ親しんでいたとしても、劇中の人間たち が(たとえゴジラの存在を知っていたとしても)ゴジラに対してきちんと驚異(脅威)の 念を持って新鮮にリアクションすればその感情は観客にも伝わります。
観客が体験として知り得ない感情を喚起するのも芝居というものでしょう。
1960年代までの怪獣映画はそれが出来ていました。
(非常に巧みな例としては60年代作品ではありませんが『ガメラ対大魔獣ジャイガー』 があります。劇中の子供たちは観客と感情を共有しており、大人たちは劇中世界のリアル な感情を持っている)
それを実現するには、作り手がまず、怪獣に対して新鮮な気持ちを持ち続けることが大事 であると考えています。
(ファン上がりの作り手がファン意識のまま怪獣映画を作ってしまってはいけない)
劇中の社会や人間がリアリティを持って描かれることで「日常の異化」が成立するはずで す。
(多少の慣れはあるとしても、何度も見た『ゴジラ』であっても見るたびにゴジラ出現で 心が騒ぐのはなぜか?)

>勝手に順番を入れ替えて申し訳有りませんが、
>それは
>> 1960年代までのゴジラ映画は客層を限定しない全方位の娯楽映画だったと思います。
>こういうことですよね?

そうですそうです。
『ゴジラ』と『ゴジラの逆襲』もその成り立ちとしては1960年代のゴジラ映画と変わ らないと思うのです。

怪獣映画を観ることの気恥ずかしさというのは確かにあるんですよね。
そんなものが全くなくて、ストレートに怪獣を「信じる」ことが出来るなら、理屈付けな んかいらないわけで・・・。
私が怪獣を「現象学的存在だ」などと小難しく主張していることもそんな気恥ずかしさと 無縁ではないかも知れません。
(決してそんな言い訳のつもりではないんですけどね。関沢脚本に見られるゴジラやモス ラなどなどには確かにそういう発想があると確信してはいます)

それでも、怪獣映画を評価することの理論武装として怪獣に理由付けしたにせよ、ゴジラ を「恐怖」だ「悪」だと規定することとは結びつかないですね。
やっぱり70年代正義の味方ゴジラへの反動が行き過ぎているんじゃないでしょうか。
正義の味方ゴジラを批判するのはいいんですが、それなら本来のゴジラ像というものを先 入観なしに作品から読み取る努力をすればいいのに、と思います。

レグルスさんの世代が「ゴジラにもいろいろある」という状態からゴジラ映画に入ってし まったためにゴジラの変容も気にならないというのはわかります。
いまある現状を認めてしまえば、ゴジラとはなんだと問うたとき、「いろいろあるよ」と いうことになるのですよね。
原理原則で考えればそれは間違っている(同じ名前で別の物とはおかしいじゃないか、て なところ)わけですが、
私の考えでは、そんな現状を認めて次々と違うゴジラを作り続けていけば、ゴジラという 名前からブランド力が失われる結果になります。
つまり、ゴジラという名称が何の価値も保証しなくなるわけです。
私の主張を、ゴジラブランドを確立した「ゴジラ」を大事にしましょうと言い換えてもい いです。

(以前も書いた余談ですが、何年か前にご近所の主婦の方から「ゴジラの身長って何メー トルなんですか」と聞かれました。そこで、「最初は50メートルだったけれど、その後 80メートルになったり100メートルになったり、いまは55メートルだと思います よ」と答えたら、
「ええっ?ゴジラにいろいろあるんですか?」と驚かれました。それがもっとも普通のリ アクションだと思いますよ)

まあ、ゴジラの設定がこじれてしまっている現状を踏まえて軌道修正が出来るのか、とい うのは難しいところですが、私としては大ナタを振るってでも軌道修正すべきだと考えて います。
具 体的な方法としては、新作の冒頭で『ゴジラ』から『ゴジラの息子』まで(『怪獣総進 撃』を除外する理由はわかりますよね?)のハイライトシーンを示しつつ このゴジラの続編なのだとぎっちり説明してしまうのです。(実に不器用なやり方です が、劇中で曖昧にほのめかすだけでは伝わらないかもしれない)

>メカ萌え
思えば、それは十分ありますね。
拙者、元祖轟天やマイティ号には十分萌えてますからぁ!切腹!!
(でもいろいろあるガンダムもそれぞれ別の物であるという枠組みと区別はしっかりして いるわけですよね。それはゴジラの現状とは異なりますよね)
785
Re:再び「ゴジラ映画とは?」 YS

2005/03/12 20:43


男性 47歳

「“シ リーズとして何作も続ける”ことが必要なのかどうか」ということについては、私は現に “シリーズとして何作も続けられた”ことを前提をすべきと思います。
それが行き詰ったことで、今回のGFWでゴジラシリーズが終了することになったわけ で、何故そうなったかを考えることは、シリーズ化してもなおかつ映画としてのクオリ ティを保つことの考察に他ならないのではないかと思います。
もっともシリーズ化したこと自体が間違いだったとか、シリーズ化に避けられないマンネ リに陥ったという答えもあり得ますから、レグルスさんのおっしゃることに反対というわ けでもないです。

また、レグルスさんのおっしゃる怪獣映画の「魅力とは“怪獣の発見─出現─破壊─対策 ─撃退/退去”という“非日常の発生からその終息”であり、それともなって起きる人間 の感情の変化」という見方は正論だと思います。
だからこそ、昭和40年前後の東宝はゴジラシリーズと併行して他の怪獣映画も作成して いたのだと思います。

ゴジラのシリーズ化は、恐らくゴジラ自身の魅力・人気ゆえのもので、映画としてのクオ リティ追求以前に興行としての要請があったものと思われます。
シ リーズ化するためには、レグルスさんのおっしゃる正論が成り立たなくなりますから、ギ ドラさんのおっしゃる「もう殺すことが出来ないゴジラを登場させつつ ストーリーを終わらせるにはどうすればいいかと苦慮した結果」「怪獣の退場を怪獣同士 の対決に委ねた作り」を考え出し、ストーリーの展開は様々ですが、基 本的にもともと観客が抱いているゴジラへの愛着を断ち切らないような作りにしたのでは ないかと思います。
また、製作者自身のコジラというキャラクターへの愛情も大きかったと思います。

その路線が当たったからこそ、当時の東宝怪獣映画の隆盛があり、私のようなファンがい るわけです。

さて、東宝の怪獣映画の傑作は、初代「ゴジラ」以外では、ゴジラシリーズではなく、他 の怪獣映画、例えば「ラドン」や「サンダ対ガイラ」など「他の」怪獣映画にあるとの見 方があり、私もこれにほぼ同感です。
また、この見方は恐らくレグルスさんのご意見が正論であることを裏付けるものだとも思 います。
しかし、私にとってはやはりゴジラは別格なんです。
いかに当時のゴジラというキャラクターが自分のハートを掴んだことか。

仮に自分の気持ちに立って考えると(世代や人によってもゴジラシリーズに対する見方は 違いますが、すべの人の立場で考えることは無理がありますから)、このゴジラの「別 格」感は、ゴジラ自身のキャラクターに起因しているわけです。
だから、私はゴジラのシリーズ化にはゴジラ自身に愛着が芽生えるような設定が必要で、 それには復活以降の設定では窮屈だと感じています。
786
怪獣映画はどうあるべきか レグルス

2005/03/13 01:04


男性 28歳 A型

な かなか答えが見えず、かなり悩んで書いてるので、
あちこち回り道をした、論旨が明確でない文章になってますが、
現在おかれているゴジラ映画の混迷を象徴するかとも思って(うぬぼれすぎ?)、あえて 書きました。
何か発言することできっかけが掴めるかもしれないと思ったので。


> これは、もう殺すことが出来ないゴジラを登場させつつストーリーを終わらせるにはどうすればいいかと苦慮した結果かもしれません。
> 怪獣の退場を怪獣同士の対決に委ねた作りになっています。

私がいちばんひっかかりを覚えるのがここなんです。
ゴジラに限ったことではありませんが、ストーリーを終わらせるにはどうするか?という のが。

日常の異化/怪獣が出現することが物語の発端なら、終結は日常の回帰です。
日常の回帰には、
1.怪獣の消滅
2.怪獣の退場
3.怪獣の日常化
しかなさそうです。

1は今さら言うまでもないとして、
2は人類の対応による撃退/退散か、怪獣の自主的帰還か、どちらのパターンが考えられ ます。
3はあまり思い浮かびませんが昭和ゴジラは広い意味ではこれに該当するかもしれませ ん。

いわゆるファンタジー風物語には外部からの来訪者が主人公と共存するパターンが結構あ ります。
藤子不二夫マンガなんかこのパターンがほとんどですよね。『ドラえもん』とか。
ただ、どれにしてもやってきた目的があるわけで、それがなくても最終的には“別れ”が あります。
ペットの犬のように自然死して終り、という作品ってあるんでしょうか?


2の自主退場パターンには『サンダ対ガイラ』『モスラ対ゴジラ』などがありますが、
個人的にはどうも煮え切らないんですよね…。
『サンダ対ガイラ』のように一過性の災害的な作品ならそれもいいでしょうが、
シリーズとして毎回それをやられると、本編パートのバラエティはともかく、
特撮(怪獣)映画としてシリーズの各作品ごとの緊張感がなくなります。
名探偵が主役のミステリー映画で名探偵が犯人でないことが自明なように、
ゴジラが負けない/死なないのが分かってるんですから。

> ここで大事になるのはやはり「日常の異化」なんですよね。
> 極めて空想的な怪獣映画にリアリティを与えるためには、劇中の事物が現実味を帯びていなければなりません。
> 怪獣という「空想」を際だたせるため、と言っても良いかも知れません。
> 観客にとってなじみのある現実が、怪獣という空想で「異化」されるわけです。

それはその通りですね。
ただ、40年代ゴジラのスタイルで描かれた日常が、“観客にとってなじみのある現実” と言えるのかどうか…。
私としてはあくまでも“怪獣の存在したことのない世界”こそが“観客にとってなじみの ある現実”であると思います。

なぜそこにこだわるかというと、日常から非日常へのギャップ、
怪獣がいない世界から怪獣がいる世界への差が大きければ大きいほど、
怪獣映画としてのインパクトが大きいと思うからです。
過去に怪獣が出現した、つまりゴジラという怪獣が認知されている設定だと、
その触れ幅がそれだけ狭くなってしまうので。

> それでも、怪獣映画を評価することの理論武装として怪獣に理由付けしたにせよ、ゴジラを「恐怖」だ「悪」だと規定することとは結びつかないですね。
> やっぱり70年代正義の味方ゴジラへの反動が行き過ぎているんじゃないでしょうか。
> 正義の味方ゴジラを批判するのはいいんですが、それなら本来のゴジラ像というものを先入観なしに作品から読み取る努力をすればいいのに、と思います。

全肯定主義の私から言わせて頂くと、
「正義の味方ゴジラがあるなら、悪のゴジラがあっていいじゃないか」
となるのは別に行き過ぎでもない発想だと思います。
(まあゴジラの設定を変えることはまた別の問題ですが)
逆ゴジと同一個体(設定)で悪のゴジラを描くこともまた可能でしょう。


> これこそ、ゴジラ映画の黄金律であると考えます。
> またこれによって、通常は人類の勝利で終わらせるべきディザスタームービーにもうひとつのパターンを作り出したわけです。
> 人類は当面の危機から脱するものの、人類が勝ったわけではない。人類には及ばない力があるのではないか、という観念を打ち出すことです。

ここまでの私の意見は、やはり殿様ギドラさんの言われる“怪獣映画の第一段階”から抜 け出していないようです。

では、殿様ギドラさんの言われる“怪獣映画の黄金パターン”とは何なのか、
私なりに考えて思い至ったのが、
怪獣映画とは“神々の戦い”を描くものだ、というものです。

人間とは意志疎通も充分できず、人間が抗うことも倒すこともできず、もちろん意のまま にすることもできない。
ギリシア神話のように、人間は神々の戦いに巻き込まれたり、あるいはただ傍観すること しかできません。
神々は人間とは切り離すことができず、半ば共存することが自明の存在であり、
どちらの陣営が勝とうが負けようが、和解しようが神々の勝手です。

この関係はまさにピッタリだと思うのですが…。
闘争の歴史ということでギリシア神話や黙示録的な西洋神を挙げましたが、
これを日本に置き換えれば、八百万の神信仰があり、
土地土地の守り神がいて、山奥にいろいろな神(怪獣)がいても違和感はありません。
(『バラン』の世界ですね)

こう捉えると殿様ギドラさんの言われる怪獣映画のスタイルが分かった気がしたのです が…。
間違ってますか?(あくまでもきっかけとして)
787
Re:再び「ゴジラ映画とは?」 ルー等級つつ大臣

2005/03/13 14:00


男性 33歳 AB型

私 もギドラ氏の意見には賛成でやはり今後ゴジラを製作するならきちんと円谷本多作品を踏 襲し中期ゴジラの性格を盛り込んだゴジラを製作すべきです。
あ と、最近ウルトラマンでもそうですが内面的世界感を盛り込むストーリーはほどほどにし て徹底的なエンターテイメント作品として作られるべきでしょうね(地 球最大の決戦、怪獣大戦争、キンゴジやモスゴジはその点は非常に上手い。これはゴジラ のみならず最近の日本映画最大の欠如した要素である。高度経済成長の 反動からか70年代では内省的作品が尊ぶようになったがこれは作品次第で傑作になった り駄作になったりする両刃の剣である。最近この傾向が余計に目立つよ うだ)
これはゴジラのみならず最近の日本映画全体にいえるけどこうした内面的のみが高尚なも のとしてるのでまずはこの流れを変えなければ今後ますますひどくなるでしょうね。
そ の意味でファイナルウォーズは惜しかったと思うのですが監督が映画作法を知らない監督 ですから・・・。怪獣映画は閉じた構造とレグルスさんはいいますが私 は逆に解放的なジャンルだと思ってます。具体的にはストレス溢れる社会を破壊する存在 の怪獣を見て発散させるものだと。
788
Re:再び「ゴジラ映画とは?」 ルー等級つつ大臣

2005/03/13 14:24


男性 33歳 AB型

あ と70年代にあったゴジラのウルトラマン化についてですが幼少の時にこれを見ていた人 は逆にヒーローゴジラの新作を望んでいたはずですよ。悪役ゴジラの新作は寧ろ第一作ゴ ジラ至上主義者からの意見では?と思えますが。
キャラクターをある枷にはめれば作品の自由度は極端なまでに狭められ同じパターンのス トーリーしか作れなくなる危険性があります。現に84以降のゴジラは全てこれにあては まりますしこれを続けては全方位の観客は望めないと思います。
そ れを打破出来る可能性があったのはギドラ氏も何度も書いた昭和40年代のゴジラだった のです。設定は同じでもストーリーの豊さでは他に類を観ないほどで必 要以上の描写はない筈です(ただしストーリーに必要な丁寧な描写はされている。ただそ れ以上の内面的部分は観客に委ねられている。それが脳内補完という形 で逆に印象が残る)
それとストーリーは単純でいいですからもっと社会と怪獣の結びつきを学んだ作品が観た いですね。
あと特撮の描写もディテールを丁寧にし過剰なCGは避けろと。
789
Re:再び「ゴジラ映画とは?」 ルー等級つつ大臣

2005/03/13 21:24


男性 33歳 AB型

逆 ゴジの続きとしては直接的にではありませんがキンゴジできちんと踏襲されてます(氷山 から出現するゴジラがまさにそう)。
私としてはこれからのゴジラは善悪を超越した恐くて恰好いいかと思えばちょっとユーモ ラスな部分をさりげなく見せる本来のゴジラが観たいです。きちんと日常の世界から出現 し翻弄されるみたいな。
あと気になったのはシリーズを連続して製作するのは正直私には反対で二年に一度くらい のペースでやってほしいですね。子どもとマニア向けという限定した観客ではなく大人か ら子供まで見れる特撮映画として。
(あるいは予め20本近くのプロットと脚本を用意し何時でも製作が可能なように準備期 間を用意するとか。テレビシリーズのようですがシリーズ構成を考慮すればこの方法が妥 当では?)
本 来ゴジラ映画は理屈抜きの存在ですから何故ゴジラは日本に出現するのか?だのゴジラの 謎とかにこだわった脚本は作らずにキンゴジやモスゴジ辺りを基本にし て余計なドラマは排除し製作すればいいと思います(その前に円谷ゴジラ作品をデジタル リマスターでリバイバル上映し本来のゴジラを再確認させるのがよろし いかと。現に第一作は海外で5.1ステレオDVDされてますし)。
790
またまた別スレ 殿様ギドラ

2005/03/14 15:40


男性 42歳 O型

782 番から始まるスレッドの続きです。

>YSさん

大変重要なポイントを指摘していただきましてありがとうございます。
「ゴジラへの愛着」がどのような形で保持されているかが大きな分かれ目かもしれません。
それはファン・製作者双方の問題です。
ゴジラにこだわっている人は多いけれど、そのこだわりの内容は千差万別です。
私のこだわりは、YSさんの愛着に近いのだと思います。
それは、ゴジラが好きだということであり、ゴジラが憎まれたり痛めつけられたり殺されるのはイ ヤだということです。

しかし、ゴジラへのこだわりといってもゴジラを愛でる気持ちはあまり無く、強敵としてのゴジラ に魅力を感じている人もいるようです。
その発想でストーリーを考えると「×メガギラス」・「大怪獣総攻撃」・機龍二部作になるのでは ないでしょうか。
(GFWも全体の主軸がゴジラから離れてしまっているけれど、ゴジラの扱いは人類の「強敵」で ある)

ゴジラの生態や気質の設定をオリジナル通りに守るなら、「愛すべきゴジラ」も「強敵ゴジラ」も ストーリーのバリエーションとして正当なのかもしれません。
けれども、劇中世界では破壊をもたらす迷惑者ゴジラであっても観客にまでゴジラ退治に肩入れさ せるような作りが正しいのでしょうか。
オリジナルのゴジラシリーズは決してそんな作りになっていません。(ぎりぎり『モスラ対ゴジ ラ』ではゴジラ撃退を望ませるような作りになっているか?)
観客・製作者双方がゴジラに愛情を持っていたからでしょう。

すごく根本的なことを申し上げます。
人間、愛すべき者を持つことは幸せなことです。
ゴジラが好きだ、だからゴジラが出てくる映画を観たい。観ている間は幸せな気持ちになるから。

その映画の中でゴジラがやたらと憎まれていたり、痛めつけられたりするのは辛いというのが私の 感情です。
かといって、ゴジラが劇中世界でもすっかり愛されていて人間社会に受け入れられているのでは 「葛藤」が生まれませんからドラマになりません。
劇中ではゴジラは厄介者であって人間はゴジラ対策に奔走する。
観客はゴジラと人間両方の立場を理解して意識の拡大を感じるというのが「良いゴジラ映画」では ないかと思うのです。

平成vsもミレニアムシリーズも共通しているのは大枠で「ゴジラ退治」の話しか作らなかったこ と。
どうしてそんな発想になったかと考えると、人類による対怪獣作戦のみが怪獣映画の醍醐味だと勘 違いしていたからではないかと思われます。
その結果、登場するゴジラは「敵」として扱われ、ゴジラ撃退=善という図式が強調され、ゴジラ に愛情を感じさせるような演出が減少し、ゴジラ人気がなくなったという分析は乱暴でしょうか?
少なくとも私は、84以降の作品でゴジラそのものに多少なりと愛着を感じられたのは「2000 ミレニアム」と「×メガギラス」だけです。
(それはゴジラの気持ちが伝わるような芝居がある程度あったから。でも「×メガギラス」は主人 公がゴジラ退治に執念を燃やしているのですごく窮屈だった)

>レグルスさん

明確でなくてもなんでも発言していただくことで話し合いの幅が広がります。
レグルスさんの粘りには助けてもらいっぱなしであります。

死なない怪獣を登場させつつシリーズ化することの難しさというお話ですね。
レグルスさんのひっかかりは至極もっともだと思います。
怪獣出現がストーリーの動機なのに、その怪獣が死なないことが最初から解っているのではドラマ にならんじゃないかということですよね。
そこがゴジラ映画の難しさなのだと思います。
ゴジラは死なないということを大前提としながら、人類とゴジラの攻防にどうやって緊張感を持た せるか、あるいはゴジラの退場を劇的にするにはどうするか。
そんな縛りの中で観客に満足感を与えることが出来れば傑作になるのだと思います。
その難しさにチャレンジせず、ゴジラが倒されてお終い(GMK、GMMG、変則的だがG×M も)というのは逃げだと思います。

Lansさんがずーっと主張なさっていることですが、ゴジラが無敵でなくてもいいんじゃないか という考えがヒントになるでしょう。
『キングコング対ゴジラ』の埋没作戦はそれほどでもないですが、『モスラ対ゴジラ』の放電ネッ ト作戦はゴジラ対人類の緊張感をきちんと表現できていると思いますよ。
それは、たとえ頭では「ゴジラがやられるはずはない」と判っていても映像・音響で体感的にゴジ ラ撃退までもう少しという状況を感じることが出来るからだと思います。
その上で、やっぱりゴジラは倒せません、という結論が出てくるのでゴジラシンパとしてはカタル シスを感じるわけです。
(そのパターンも毎回連続で繰り返すのはダメですけど)

そしてゴジラ退場をどのように演出するか。
非常に多いのは「海にドボン」ですね。
これもあまり続けざまに繰り返すのは得策ではないんでしょうけれど、海のイメージを考えるとど うもそれしかないようにも思います。
海中には人間社会はありません。それでもあまたの生物が生活しているひとつの世界です。
怪獣映画が人間社会に怪獣という野性が侵入することで始まるドラマならば、怪獣がもとの世界へ 回帰したことで終結するというのもありじゃないかと思えます。
また、水に飛び込む描写から「熱が冷める」ような感覚が喚起されますからエンディングにふさわ しいのでは。

私も子供の頃は『キングコング対ゴジラ』のラストに不完全燃焼だったのを覚えています。
「どっちが勝ったんだよーー」と。
ただし、それはチャンピオン祭用の短縮版を見ての印象。
全長版だとクライマックスの闘いが実に激しくて熱海城をぐちゃぐちゃにするあたりにはもうおな か一杯という感じなんですよね。
どっちが勝つかなんてどうでもいいと申しましょうか。

『三大怪獣地球最大の決戦』では明らかに地球怪獣連合が勝っているので、勝利したゴジラ・ラド ンがクールダウンしてその後おとなしくどこかへ去ったのかな、と感じさせることが出来ていると 思います。
(エンディングで島へ帰っていくモスラを二匹がどこかの岬から見送っている。私などはこの暖か さがたまらなく好きなんですが、ゴジラ=外敵と感じている人にとってはまったく納得できないん だろーな)

とつらつら書いてきたことは怪獣に親近感を持つ人にはかなり有効な手法ではありますが、そうで ない人をも納得させるにはどうするかというところに工夫が必要ですね。
それはストーリーから導き出す論理的帰結というよりもっと感覚的な部分で納得させるのが得策か もしれません。
『モスラ』では悪人ネルソンの死がエンディングとして作用しています。
あの作品ではモスラの行動原理が小美人を取り返すことなので、ネルソンの死とモスラ退場にはき ちんと論理的な繋がりもありますけど。
(同様のパターンとしては洋画『巨大怪獣ゴルゴ』や『大巨獣ガッパ』『ゴジラvsメカゴジラ』 もある)
『三大怪獣地球最大の決戦』では怪獣ドラマの他にセルジア国の政争を設定し、進藤刑事とサルノ 王女の淡い恋を取り入れることで怪獣にそんなに興味のない層を惹きつける努力をしています。
怪獣に興味の薄い層には進藤と王女の空港での別れがエンディングとして作用するのではないで しょうか。

(この問題はもっと掘り下げる必要がありますね)

>日常の異化

すいません、くどいようですが大事なポイントなので。
参考にすべきは昭和40年代の作品ではなく、昭和40年前後に作られた作品であります。
(最重要作品は昭和30年代の終わりに集中しているでしょう)

ゴジラシリーズに厳密な繋がりを持たせないにせよ、先行作の内容を踏まえたストーリーで発想さ れるならだんだん怪獣に対する驚きのない世界になってしまうというのはその通りです。
世界設定としてリアリティのみ追求するならそれこそGフォースだの特生自衛隊だののご登場と なってしまいます。
そのほかにも人物のリアクションに怪獣がいる世界でのリアリティを持たせれば、観客にとっての 現実とはかけ離れてしまうのは必定。
ところがそれでは怪獣映画の楽しみが減少してしまいます。

そこで必要になるのが、いい意味での曖昧さなのです。
これも昭和40年前後の作品にきちんとお手本があります。
結成されていてもおかしくない対怪獣組織なんて出てきません。
怪獣出現時に特化した非難方法なんてありません。
そんなこんなは世界設定のリアリズムを考えるとおかしなことなんですが、あえて当時の現実社会 と変わらぬ状態にしています。
また、それとは別に、登場人物の生活感を大事にすることで観客の日常に劇中世界を近づける努力 をしています。
(未来世界を舞台にしている『怪獣大戦争』ですら、そこに登場する日常生活は公開当時の現実社 会に準じていると思われる。補足すれば『怪獣総進撃』では逆に観客の世界とは違うよというサイ ンがあって別種の作品であることがわかる)

そうすれば、まったく初めて怪獣が出現する世界というわけにはいかずとも、観客にとってなじみ のある世界が異化される感覚は十分出せると思いますよ。

>正義のゴジラ・悪のゴジラ

劇中で果たす役割にそのどちらもあっていいとは認めます。
『モスラ対ゴジラ』では悪「役」ですし、『三大怪獣~』ではキングギドラと戦うことで善玉に なっているとも言えます。
しかし、それはストーリーの流れ上醸し出されることであり、ゴジラの性格が邪悪になったり善良 になったりすることではありません。
どうもゴジラを「悪だ悪だ」と主張する方の多くは、殺人鬼が悪だというのと同レベルの悪をゴジ ラに求めているように思えてなりません。
(GMKでのゴジラ描写はずいぶんいやな性格になってますよね)

>怪獣映画とは“神々の戦い”を描くものだ

そうです。その通りです。
これはもうここ何年も主張し続けていることなんですよ。
かつては怪獣を神と見ることに大反対だったのですが、某掲示板でLansさんとその件をやりと りする内に怪獣をそれこそギリシャ神話や日本神話の神のようなものとして捉えれば怪獣対決もの の構図がすっきりと理解できることに気づきました。
その発想に基づく発言、この掲示板でも書いてます。
過去ログ318 番「Re:初ゴジ原理主義を受けてその2」にあれこれと書いてます。

>ルー等級つつ大臣さん

>内面的のみが高尚なものとしてるのでまずはこの流れを変えなければ今後ますますひどくなるで しょうね。

賛成賛成。大賛成!
人間の心の問題をおろそかにしてはいけないけれど、そればっかりやっているとスペクタクルは作 れません。
さらに、最近の作品では誰かの内面をメインに据えているくせに人間心理への洞察が薄っぺらとい うものもあるのでたまったもんじゃありません。

>悪のゴジラを望む声

70年代ゴジラで洗礼を受けた人には、当然ヒーローゴジラを望む人がいるはずですよね。
それが、個人差があるので正しくは統計調査でもやらないとわからないのかもしれませんが、 webでのゴジラファンのみなさんの発言を見てきたところ、
ゴジラを悪と考えつつ同時にゴジラファンであるという人はどうも私より少し若い世代、70年代 ゴジラ直撃世代に多いような実感があるのです。
(70年代ゴジラは見ていなくて『ゴジラ』だけが傑作だという人はwebではあまりお見かけし ないタイプで、第一作目を封切りで見た世代に多いように思います。そして、そのタイプは映画 『ゴジラ』を評価しても怪獣ゴジラのファンではない)
GFW公開後にはチャンピオン祭の再現だなどという風説に乗っかる形で、70年代ゴジラ世代の 方々がヒーローゴジラでもいいのだと言っているように見えますが、その方々が以前からヒーロー ゴジラを望む発言をしていたものかどうか・・。
GFW以前からヒーローゴジラ待望論が盛り上がっていたとは思えません。(いくつかそんな主張 を読んだ覚えはありますが、70年代ゴジラからファンになった方の主流ではないのでは?)
その世代の方は年齢から考えても80年代前半の第一作目至上ゴジラ論にどっぷり漬かっていそう です。
本心ではヒーローゴジラになじみが深いのに、背伸びしたい時期に第一作目だけが傑作だという 「難しそうな」ゴジラ論に接したためにぐるりと反転して第一作目至上主義になっちゃった人って 多いんじゃないでしょうか。
そして第一作目の内容を読み違えてゴジラは悪で倒すべき相手として描けと言い始めたように見え るのです。
第一作目至上主義者の多くは70年代ゴジラ直撃世代ではないか、と。
(そうではない第一作目至上主義の方もいらっしゃるのは承知してますよ~)

私の世代だと、(個人差はありましょうが)そのゴジラ論ブームの前から積極的に作品を再見し、 自分であれこれ考えていますからどこかのライターさんが書いたことにころっと参るということは なかったはずです。
(なーんて憶測ばっかりですな。いかんいかん)
791
Re:またまた別スレ ルー等級つつ大臣

2005/03/14 21:10


男性 33歳 AB型

ギ ドラ氏に言われて確かに納得しました。
70年代ヒーローゴジラに幼少の頃接した世代は80年代には丁度思春期辺りですからね (^_^;
自分がゴジラファンと堂々といえるのはこの時期再評価されていた第一作を盾に認識する ほか無かったですから・・・。
つ まりヒーローゴジラを観た世代が第一作を観てゴジラを再確認したと。しかしゴジラを善 悪としか見れないのはやはりこの世代ならではで単純な論理という点で は確かにそうだと・・・(^_^;ちなみに僕のゴジラ観はそれより下のリバイバル昭和 ゴジラ全作品俯瞰世代(笑)ですので善悪を超越した自然の怒りであり 不死身の生物といったところですが。(何だかキャプテンスカーレットみたいです が・・・。)
円谷作品を高く評価し70年代ゴジラを低く評価するの は何もゴジラが善悪云々ではなく全体的な完成度(ドラマ、特撮含めて)で見ていたから で初代、逆襲、キンゴジ、モスゴジから大戦争までの作品はゴジラ映画 としての理想ですし今後作られるだろうゴジラ映画で復活させねばならない要素だと思い ますよ(南海~はミニチュアワークにやや難あり。逆に~息子はミニ チュア特撮はグレードアップしていたがストーリーコンセプトがやや・・・。)
792
なぜ、戦うのか レグルス

2005/03/14 22:42


男性 28歳 A型

> ゴジラは死なないということを大前提としながら、人類とゴジラの攻防にどうやって緊張 感を持たせるか、あるいはゴジラの退場を劇的にするにはどうするか。

ゴジラは(昭和では死ぬところまで行きませんでしたが)勝ったり負けたりしてますよ ね。
私が愛読していた「ゴジラ入門」なる本では『メカゴジラの逆襲』までの星取り表が載っ ていたのを覚えてます。

“負け”の延長としてゴジラが死ぬ、という話もありでしょう。
パラレルワールドや別設定で毎回リセットせずとも、
同じ種族がまた登場した、ということで次作は作れますし(どうも面白くなさそうです ね…)

> それは、たとえ頭では「ゴジラがやられるはずはない」と判っていても映像・音響で体感的にゴジラ撃退までもう少しという状況を感じることが出来るからだと思います。
> その上で、やっぱりゴジラは倒せません、という結論が出てくるのでゴジラシンパとしてはカタルシスを感じるわけです。
> (そのパターンも毎回連続で繰り返すのはダメですけど)

創造性のない凡人の考えかもしれませんが、
そのバリエーションといっても、緊張感を持たせながらカタルシスを生じさせるパターン は
ある程度限られてくるように思うのですが…。
「座頭市」が何作も(20作くらいはあるんでしょうか?)作られていたり、
日本映画黄金時代まで含めればヒーローのシリーズものがいくつもできた作品も多いんで しょうから、
質と量は両立するのでしょう、たぶん。

個人的な趣味で考えてみると、たとえば推理小説においては
全然面白くないのに年に何作も書いている人もいれば、
寡作ながら、どれも面白い作家もいるわけですよね。

> そしてゴジラ退場をどのように演出するか。
> 非常に多いのは「海にドボン」ですね。
> これもあまり続けざまに繰り返すのは得策ではないんでしょうけれど、海のイメージを考えるとどうもそれしかないようにも思います。

シリーズ化しようと思えば、
人間社会にとって非日常の存在であるゴジラが登場した以上、
人間の日常が回復するには非日常の存在が退場するしかなく、
退場するとなると来たところへ帰るしかないですよね。
構造的には「海に還る」これしかない、と言っていいでしょう。

それを不自然と感じさせない全体の構成やテーマ、人間ドラマを映画全体として組み立て るか、
というのがここでも重要になってくると思います。

怪獣(ゴジラ)の出現およびその理由/原因を追及しない以上
(ゴジラ映画のシリーズ化とはつまりそういうことですよね?)
怪獣バトルと人間ドラマは並列で進行することになりはしないでしょうか。

モスラのような(小美人を通してですが)ある種人間の思い通りに動く便利な怪獣の場合 は別ですが、
ゴジラのような怪獣では、誘導したりほかの怪獣と戦わせるにも無理が生じます。

たまたま上陸したところに怪獣がいる、という怪獣だらけの世界観でもいいんでしょう が、
それも“日常”とは違う感じもしますし。

なにより『キンゴジ』以降のほぼ全てのゴジラ映画において、
つねに疑問だったのは、“なぜゴジラはほかの怪獣のところに行って戦うのか?”
ということです。

闘争本能だと言われますが、
ふつうの動物ではライオンだって飢えていなければ他の動物を襲うことはないのに、
何故怪獣は無意味に戦うのか?

最も可能性が高そうなのはなわばり争いですが、
多くの怪獣の場合生態系もはっきりしていないし、
なんとなくしっくり来ません。

ゴジラ映画において戦う理由に疑問が湧かなかったのは
 出てきた時から戦っていた『ゴジラの逆襲』
 テレパシーなどの第6感的なSF的処理をした『ビオランテ』
 怨念という意志を持たせた『GMK』
くらいでした。

> しかし、それはストーリーの流れ上醸し出されることであり、ゴジラの性格が邪悪になったり善良になったりすることではありません。
> どうもゴジラを「悪だ悪だ」と主張する方の多くは、殺人鬼が悪だというのと同レベルの悪をゴジラに求めているように思えてなりません。
> (GMKでのゴジラ描写はずいぶんいやな性格になってますよね)

初ゴジ原理主義的に言えば、『キンゴジ』以降のゴジラには“性格の存在”が感じられる から嫌なんです。
(嫌というと言葉として強すぎます。ひっかかったと言ってもいいでしょう)
確かに『初ゴジ』でも時計の音を聴いて時計塔を壊したり、戦闘機をうるさがったりして ましたが、
それは性格というより意識(条件反射)ていどのものでした。

前にも議論したポイントではありますが、
性格といえるところまでのものが出てくると、(悪い意味での)ゴジラの擬人化だと感じ てしまうんです。

『GMK』では確かに性悪っぽい設定ではありますが、
瞳を消すことで意志/感情を排除して『初ゴジ』に近いゴジラ像を感じさせていたと私に は思えます。

“悪のゴジラ”につながるところなのですが、
“悪のゴジラ”とは、ゴジラじたいが悪なのではなく、
ゴジラに重ね合わせて描かれる作品のテーマが悪、ということですよね。

『初ゴジ』では人間の引き起こす戦争という悪、科学の善の面と悪の面がそれです。
ゴジラは人間の悪による被害者として投影されているの過ぎません。
人間の悪による被害者が、いつの間にか人間に悪をもたらす加害者にすり替わっている、
というのが非常に興味深いところですね。
おそらく殿様ギドラさんが言われるような正義のヒーロー・ゴジラの反発が短絡的・浅薄 的な解釈をさせるのでしょう。
もちろん山根新吉少年の視点で見ればゴジラが加害者に見えるようになってはいるのです が。

余談かもしれませんが……
全く同じ人間の科学技術の悪の面、公害が投影されたのがヘドラです。
そのヘドラを満身創痍になりながら倒すのが“その”ゴジラである、というのが非常に皮 肉ですよね。
公害がなくならない限りヘドラはまた現れる、というのも
戦争/水爆実験が公害に変わっただけで、『初ゴジ』と同じテーマです。
まあ厳密にはヘドラは公害の犠牲者ではなく、公害そのものから生まれたので微妙に立場 は違いますが。

> >怪獣映画とは“神々の戦い”を描くものだ

> その発想に基づく発言、この掲示板でも書いてます。
> 過去ログ318番「Re:初ゴジ原理主義を受けてその2」にあれこれと書いてます。

ひとまわりしてしまったようです。m(_ _)m
794
Re:なぜ、戦うのか KJ

2005/03/15 23:12


男性 37歳 B型

> それを不自然と感じさせない全体の構成やテーマ、人間ドラマを映画全体として組み立て るか、
> というのがここでも重要になってくると思います。
>
> 怪獣(ゴジラ)の出現およびその理由/原因を追及しない以上
> (ゴジラ映画のシリーズ化とはつまりそういうことですよね?)

> 初ゴジ原理主義的に言えば、『キンゴジ』以降のゴジラには“性格の存在”が感じられるから嫌なんです。
> (嫌というと言葉として強すぎます。ひっかかったと言ってもいいでしょう)
> 確かに『初ゴジ』でも時計の音を聴いて時計塔を壊したり、戦闘機をうるさがったりしてましたが、
> それは性格というより意識(条件反射)ていどのものでした。

上記部分、仰りたい事は良く分かります。
私も、ゴジラ(及び怪獣)を必要以上に擬人化する事は反対です。

荒神としての、或いは人智・科学を超えた超生物として描く事は賛成
(というか、そうしないと殆どの「日本的」怪獣映画が成り立たない)
ですが、必要以上に人間的感情表現が見えた段階で、(大人の鑑賞者と
しては)冷めてしまいます。一気に「ああ、お約束の縫いぐるみ怪獣映画
ね」という気分になってしまいます。
・・・というか、そう思わせないだけの映像・演出が伴っていれば
まだ誤魔化されるんですが。

生物の反射的行動は逆にある程度描く必要はあるでしょう。そういう意味
でも初ゴジは良く出来ていました。
超生物(通常の方法では中々殺害出来ない物)としての理由付けは、
下手に取ってつけた様なショボいエピソードよりも、例えば;

「博士(隊長でもいい)、何でアイツは平気なんですか!?」
「・・・」
「博士、普通あれだけの火力を受けて生存できる生物というのは
 存在しませんよね?博士っ!?」
「判らん!!・・・あり得ん。一体どうなっているんだ・・・」

とか何とか劇中人物のリアクションのみで、その存在の超自然性を
浮き彫りにするだけ(後は、良く判んないけど徹底して色んな作戦
実行してみる)の方が、却って世界観がまとまるような気もします。

もしくは逆にS31「ラドン」、或いはUSゴジラや「トレマーズ」
のように、「こんだけやったら幾らなんでも流石に生きてはいない」という
前提ありきで、劇中の諸事情(スピード、場所、他環境/状況要因等)で、
中々そこまで持っていけない、という設定にしてしまうかのどちらかなの
では。そう考えると、やっぱ初代ラドンは良く出来てるなぁ。

まあ、後者を取った段階でゴジラ映画は難しくなるかも知れませんが。

それでも以前のスレで少しコメントしたように、「核」使用を前提と
した攻防戦・葛藤ドラマがあってもいいかも知れません。

いずれにせよ「どれだけうまく誤魔化せるか」が重要ですね。

尚、シリーズ化する事で質が下がる、とは断言出来ないと思います。
もちろんそうは言っても作品数に限度はあるでしょうが、
それでもかつての「座頭市」や「必殺シリーズ」(*但し新必殺仕置人
迄)のように、何割かの確立で素晴らしい出来の作品が生まれる可能性も
上がる訳ですから。
十割バッターである必要はないと思いますよ。
(ただ、’84以降は一本のホームランすら無いのが問題なんですが)

すいません、少し主旨が外れましたが久しぶりに書かせて頂きました。
793
Re:またまた別スレ YS

2005/03/15 01:36


男性 47歳

> そこで必要になるのが、いい意味での曖昧さなのです。

そう思います。
私も若い頃は、「海へドボン」の終わり方では何も解決していないじゃないかと思ってい たくちなのですが、この歳になってくるとそれが自然に受け入れられるようになってきま した。
特に昭和40年前後(私の感覚では37年から42年「キンゴジ」から「息子」までで す。「南海」と「息子」少々難があるかもしれませんが、今見るとかなり良く出来た作品 ではあると思いますので。)の作品はある種のおおらかさがあるので。
この頃の作品はエンターテイメント路線を突っ走っていましたから、ある種の割り切りが あって、作品自体に軽快感がありました。
それが結末の曖昧さを許容しているのだし、また結末の曖昧さが作品の軽快感に寄与して いるともいえます。
大切なのは、作品の中の観客に訴える部分で、恐らく当時のゴジラ映画は各作品ごとのス トーリーの展開も重要ですが、その中でゴジラの魅力をどのように見せるかに腐心してい たと思います。
ストーリーに絡ませて、怪獣の大きさ感、強さ、怖さ、怪獣同士の戦い、都市破壊など観 客の見たいと思っている要素を過不足なく見せる。
その要素の中に怪獣の愛すべき部分(愛嬌とか擬人的なしぐさとか)もあるんだというの が円谷監督や当時の製作者の考えだったのでは。
そうするとゴジラ退治のみのストーリーでは設定が窮屈になるとわかっていたのだと思い ます。

去年は台風などによる食料不足で熊が町に出てくるということがありました。
それで、やむを得ず射殺することもありましたが、本来熊が山に戻ってくれればそんなこ とする必要はないのです。
怪獣映画の本筋は怪獣退治になるかと思いますが、ゴジラのような稀有なキャラクターを 活かしてシリーズ化(多くの作品を作る)するのであれば、「熊が山に戻る」状況をもっ てストーリーを終結させた方がバリエーションを増やすことができます。
昭和シリーズはまさにそれだったのだと思います。
(それでも全盛期の作品数はさほど多くはないのですが)
でも、ゴジラを悪と規定すれば、ゴジラを消滅させるしかストーリーの終結がないので、 ある作品でゴジラの消滅に失敗すると次の作品では対ゴジラ組織が出来ているのが自然 で、復活以降はむしろまじめにゴジラ映画に取り組んだともいえるとは思います。
でも、私のようなファンはそれでえって袋小路に迷い込んだのではないかと思ってしまい ます。

不真面目にやれということではなく、何が一番大切かを絞ることで、他の要素は曖昧でも むしろ良いこともあるのではないかと思います。


796
Re:またまた別スレ 殿様ギドラ

2005/03/16 14:14


男性 42歳 O型

く~、 昨日は投稿する時間が作れませんでしたぁぁ。(もーしわけない)

>ルー等級つつ大臣さん

84年の製作再開(厳密には復活ではないのでこのような言い方をします)までのゴジラ 再評価の流れが実にいびつなんですよね。
ゴジラは素晴らしいと言いながら、結局は作品のテーマによって優劣をつけるという間 違った評論がまかり通ってしまったように思います。
つまり、スペクタクルによるカタルシス(精神浄化)より政治的問題や社会批判性のほう が上位であるという考え方です。

第一作『ゴジラ』のみを傑作とする評論はその根底において、怪獣映画はくだらないとす る立場と同じなのです。
ありもしない巨大怪獣が出てきて街を壊したり怪獣同士が戦うことのどこに価値がある か、という切り捨て方です。
そんな狭い映画の見方に合わせると、文明批判・人間批判の視点がはっきりしている『ゴ ジラ』だけが傑作になってしまうわけです。
(実は良くできた怪獣映画にはかならず人間批判の視点はあるのだが、怪獣スペクタクル を前面に押し出している作品だと表面的な鑑賞ではそれを感知できない)

しかし怪獣映画の核心はそこではないことを自覚し、「偉そうな人の意見」に惑わされる ことなく自主的に判断できる人は少ない・・。
(反 核なら『ゴジラ』より『世界大戦争』のほうが良くできているし、厭戦反戦なら『人間魚 雷回天』や『戦艦大和』のほうがストレートである。『ゴジラ』に特異 的なのはあの時代に科学批判の視点を持ち得たことだが、それも今となっては珍しくはな い。『ゴジラ』の真の価値は実は怪獣ゴジラを生み出したことではない のか?)

1980年代に『ゴジラ』のみが傑作であるという評論になびいてしまった人は、思春期 にありがちな「思想かぶれ」の罠にはまったんじゃないかと思われます。
また当時はホームビデオ黎明期でありますから、簡単には旧作を再見できなかったという 事情も考慮すべきかも知れません。
昔の作品がどんなものであったのかを記憶と他人の評論から判断するしかなかったという のもまずかったでしょう。
(私自身、『ゴジラの息子』は封切り時に見たきりで、1982年に再見するまでは子供 におもねったダメなゴジラ映画だったのだろうと思っていました)

つつ大臣さんのように「昭和ゴジラ全作品俯瞰世代」であれば、そんな偏った見方に陥る 危険は少ないですね。
(しかし、つつ大臣さんより何年か下の世代になると平成vs直撃世代となりオリジナル とは違うゴジラ像を刷り込まれてしまう・・・)

>レグルスさん

そうそう。
私もいつもゴジラが勝たなくてもいいと思います。
このごろはとにかくゴジラが強くなくちゃイカンという意見が強くて、その結果がGFW なのでしょうけれどゴジラをやたらと強くした結果その他の怪獣からスター性が失われる ことになってます。
ゴジラの強さがインフレを起こすのは平成vsからですね。
放射火焔が必殺技になってしまって・・・。
(これも何度も書いていることですが、もともとゴジラの放射火焔というのは怪獣相手に はさほど効果のないものだったのに)
とはいえ、ゴジラの負けの延長にゴジラの死というのはやっぱりまずいですね。

ゴジラは死なないという前提の中でゴジラ絶体絶命を演出するのは、感覚的な部分を丁寧 に積み上げることで実現できると思います。
何度も観ている映画でも良くできた作品ならサスペンスシーンで毎回ハラハラしますよ ね。そういう作りをすれば解決でしょう。

>怪獣(ゴジラ)の出現およびその理由/原因を追及しない以上
>(ゴジラ映画のシリーズ化とはつまりそういうことですよね?)
>怪獣バトルと人間ドラマは並列で進行することになりはしないでしょうか。

その通りだと思います。
ゴジラ(怪獣)側の動きにはそれほど複雑なドラマ性を持たせるのは難しいですから、作 品全体の背骨として怪獣の動向を単純な形で示しつつ、
そこに巻き込まれる形で人間の問題(ドラマ)を毎回工夫するというのがシリーズ構成の あり方だと思っています。
その中に変化球としてゴジラ退治の話が盛り込まれてもいいですが、それはゴジラと人類 の関係を再提示する形が望ましいでしょう。
ゴジラ(怪獣)が人類が解決(退治)することの出来ない災難であるという視点を明確に するためなら、という意味です。
怪獣映画が戦争映画に近いというのは、怪獣災害があらゆる立場の人に降りかかるもので あり、社会を動かすものだからでしょう。
しかも台風や地震と違って武力で闘いを挑める相手であることも戦争に近い。
ですから、怪獣映画に織り込める人間ドラマは無数にあると言っていいでしょう。
怪獣の描写に感覚的な「楽しみ」(映像スペクタクル)を受け持たせ、人間ドラマの部分 に知的な「楽しみ」(観念性)を持たせれば全方位の娯楽映画になります。

怪獣対決物において怪獣同士が戦うきっかけをどうするかというのが、怪獣側のドラマと なりますね。
人間の意図なのか、なんらかの偶然なのか、これも怪獣映画の力のいれどころだと思いま す。
少なくとも本多・円谷コンビの作品では実にうまく出来ていますよ。
ただ闇雲に戦っているということはないです。
一例を挙げれば、ゴジラとキングコングの場合、奥日光での出会いでは互いに示威行動す るだけで戦ってはいません。
互いの存在を認識したというところにとどまっています。
富士山で始まる決戦は、人間がコングをゴジラの前に落とし、斜面を滑り落ちてきたコン グがゴジラに激突することで始まります。
ケンカが始まる理由として十分です。
その他の作品でも、いちいち戦うことの大義を設定していなくても戦い始める状況づくり が上手くできています。
(曖昧にされているのはゴジラ対ラドンですが、横浜に上陸したゴジラが上空を飛びすぎ るラドンをばりばりに意識して見上げているのでその後二匹が戦っていても不自然な感じ はしない)

動物が相手を殺すところまで戦うのは捕食のためだけなのかもしれませんが、不審な相手 に対して攻撃することはよくあることだと思いますよ。
怪獣バトルといったときに、「死闘」をイメージする方が多いようですが、私はその考え 方に反対です。
怪獣同士は殺し合わなくていいというのが私の考え。(いや、円谷時代の怪獣対決映画で は殺し合わないものが多数ある)
どちらかが逃げれば勝負あり、ということで構わないでしょう。
(『ゴジラの逆襲』でアンギラスが殺されてしまうのが実に残念)

ゴジラに性格が感じられるのはイヤだというのは個人差の領域なので、それではダメだと は言えませんけれど、犬でも猫でもその気質には個体差があってそれぞれの性格というも のがありますから、
ゴジラやその他の怪獣に性格があることの何がいけないのかわからないです。
むしろ生物感を高めるためにも性格描写は必要なことと考えます。
(推測ですが、怪獣たちの知能は鯨より高いんじゃないでしょうか)

そして、ゴジラに悪役をやらせるというのはレグルスさんがおっしゃるように、ストー リー上ゴジラが立たされる位置に批判されるべきなんらかの観念を盛り込むというやり方 が正しいでしょう。
ただ、観客にゴジラを憎ませるような構図になってはいけないので『ゴジラ』でのように 二面性を持たせるしかないですね。
また、そこまではっきりしていなくても、『モスラ対ゴジラ』のようにゴジラは悪意がな いまま主要キャラクター(モスラ)に危険を及ぼすという流れを作れば自然と観客の意識 はゴジラをなんとかしなきゃイカンとなりますから、
ゴジラが憎くはなくても「ゴジラを倒せ」という気持ちになるかも知れません。

『ゴジラ対ヘドラ』、ゴジラ・ヘドラ・人間の関係性は実に興味深いというか、ゴジラの 立ち位置は間違っていないんですよね。
でもあの作品はどうもヘドラ退治にゴジラが現れたように見えるので、ゴジラのウルトラ マン化第一弾ですね。

>KJさん

怪獣の超絶性を劇中で説明するのは、ほんとにさらりとやるだけで十分効果的なんですよ ね。
『キングコング対ゴジラ』での科学者たちのリアクションで十分だと思ってます。
それを、ゴジラは謎の力を持っているとばかり、ゴジラ細胞が特殊な機能を持っているだ のなんだのと具体的な謎を提示してしまうと逆にゴジラ解明のヒントになってしまいま す。
科学知識を援用してゴジラの謎を補強しようとするのは、(少なくとも現在の)科学では 捉えきれない謎であるという怪獣本来のコンセプトを否定することになってしまいます。

また、怪獣が倒される場合の状況作りに関してもKJさんのご意見に賛成です。
初代ゴジラはもちろん、二代目ゴジラもラドンも再現性がきわめて低い方法で撃退されて いますから、その後再登場したときに撃退は難しいという図式がちゃんと出来ているんで すよね。
バランはその点わりと簡単に倒されていますから、『怪獣総進撃』まで出番(それも顔見 せ程度)がなかったというのは考えすぎ?

そこでゴジラシリーズというか怪獣シリーズのひとつのあり方として、新怪獣は最初単体 で登場、人類との攻防を中心にしたストーリーで怪獣の特徴を十分描き(ただし、科学で 解明出来てはいけない)最後は再現性のない特殊な方法で撃退される、
しかるのちにゴジラと共演、対戦するか共闘するかという構成にすればシリーズ全体のバ リエーションも増えるし、もはやゴジラではやりにくい怪獣対人間も扱い続けることが出 来るのではないでしょうか。
そして、この「再現性のない特殊な方法」にアイディアを凝らすことでドラマ性が豊かに なり、最新の科学知識を応用するならSFにもなりうるかもしれません。
(ああ、そんな新怪獣の映画を観たいぞ!)

私も「核」使用を取り入れる作品にも可能性があると思います。
『ゴジラ(84)』では偶発事故で核爆発が起こってしまいますが、実に処理が甘いとい うか、もっと世界的な核兵器に対する意識の違いなどを盛り込んで、核使用を巡る政治ド ラマを作るべきだったでしょう。
現在でも、大国が小国に対して核兵器開発を制限しながら、自国は山ほど核兵器を持って いるという現実があります。
核兵器の恐怖は決して過去のものではありません。
今回の投稿の冒頭で、社会批判性があればいいってもんじゃないと申し上げましたが、ま るっきりなくて良いと言いたいわけではないです。
現実社会の問題をストーリーに取り込むことで、空想が身近なものになるのです。
そんな志を持った怪獣映画を再び見てみたいものです。

>YSさん

お気持ち、すごくよくわかります。
円谷時代のゴジラ映画には、いい意味での大らかさがあるのですよね。
それが何に起因するのかと考えると、怪獣たちに対する暖かい視線であり、人間以外の動 物にも親しみを持って接する感覚ではないかと思います。
だから怪獣のデザインにしても、生理的に気持ち悪いものにすることはなかったんじゃな いでしょうか。
(劇中の役割を考えれば、徹底的におぞましい姿形であっても構わないであろうバラゴン も見た目はけっこう愛嬌がある。見るからに極悪そうなのはガイラですが、ガイラは自然 に発生した生物ではなく、フランケンシュタインから派生した者なので純粋な怪獣ではな いでしょう)

もし怪獣なるものが現実に出現してしまったら、人間は全力を挙げて殺そうとするので しょう。
しかし、フィクションである怪獣映画でそれを描いても怪獣の魅力を最大限に発揮するこ とにはならないのではないでしょうか。
別の見方をしている方もいらっしゃるのでしょうけれど、私は怪獣たちを見るときに動物 ドキュメンタリーを見る感覚も持っています。
ハンターが野生動物を狩りたてるのを見るのは不愉快です。

(怪獣の場合、街を壊したりそのせいで人が死傷したりと大迷惑な生き物なので退治しな ければならないことにはなりますが、窮屈な人間社会を壊してくれる怪獣に対する期待感 もあるのです)
797
Re:またまた別スレ ルー等級つつ大臣

2005/03/19 15:57


男性 33歳 AB型

確 かに今の目で見ると「南海~」も「息子」もストーリーと演出は良く出来ていると思いま すし有川特撮も特に後者は例の操演技術も素晴らしいくらいでこれらを見ていた自分が実 に浅はかだったと反省しております。
ゴジラへの愛情もこれらにはありますし(造型的には後者は難点はありますが・・・キャ ラクター過剰なデフォルメの仕方をされてますし動物としてのゴジラの造型美がない。) 人間との関わり方もさほど違和感がなく円谷監督をはじめとしてスタッフの愛情とこだわ りを感じます。
で 84ゴジラなんですがギドラ氏のおっしゃる通り核反対というゴジラのテーマ(の要素の 一つ)を挙げておきながら原子炉の放射能を吸い取ったり(これが逆に 巻き散らすなら別)ゴジラを倒すためにカドミウム弾などを設定したり政治家のドラマが パニックから人々を守るとかで力入っている割には放射能の危険性の描 写がほぼ皆無に等しかったり揚句にはゴジラがよく出来た作り物にしか見えず肝心の生物 としてのゴジラが不在だったりと演出がバラバラで「金かけて魂入れ ず」の作品になっていてゴジラへの愛情がまるで見えないのです(テーマ支配になってい 過ぎで肝心の作品の完成度がおろそかになっている。)
800
改めて、怪獣映画の定義 レグルス

2005/03/21 22:17


男性 28歳 A型

つ い最近出版された
 品田冬樹『ずっと怪獣が好きだった』岩波書店
を読んでいろいろ考えるところがありました。
(巻末の対談集での品田&押井守は怪獣映画ファン必読だと思います。
 私はこのために買っちゃいました)

> 第一作『ゴジラ』のみを傑作とする評論はその根底において、怪獣映画はくだらないとする立場と同じなのです。
> ありもしない巨大怪獣が出てきて街を壊したり怪獣同士が戦うことのどこに価値があるか、という切り捨て方です。

また怪獣映画の定義を蒸し返すようで申し訳ないですが、
私が見たい怪獣映画とは、『ゴジラ』『ラドン』『バラン』などの単体怪獣一話完結もの ですが、
これってテーマ的にも『日本沈没』『世界大戦争』などの怪獣が登場しない特撮を使った 映画に近いですよね。

いわゆるゴジラ映画のように、ゴジラが出てくることが観客にも、
そしてある程度は劇中人物にも既知の作品を“怪獣映画”と呼ぶのが適当なのではないか と思った次第です。

ということは、私が見たいのは“怪獣が出てくる特撮映画”であって、“怪獣映画”では ない、
ということのようです。
殿様ギドラさんたちと議論が噛み合わない気がするのは、これが原因なのではないでしょ うか?
もちろん個人的な好みはおいといて、ですが。

戦隊ものやウルトラマン、仮面ライダーのようなTVシリーズにおいてはまあ怪獣映画的 でもいいでしょうが、
できれば単なる宇宙人とかではなく、『龍騎』のように怪物の存在にも理由を与えて貰え ると、より楽しめます。


> 怪獣同士は殺し合わなくていいというのが私の考え。(いや、円谷時代の怪獣対決映画では殺し合わないものが多数ある)
> どちらかが逃げれば勝負あり、ということで構わないでしょう。

改めて考えてみればそうでした。
ただ、私が平成VS世代だからかもしれませんが、現代に作る怪獣映画では、
相手が尻尾巻いて逃げ出しておしまい、というのでは映画のウリとして“弱い”のではな いかと思ってしまいます。
それか全体的に徹底してノスタルジックにするか…。
そういう意味では子供の親の世代・60年代を意識した映画版『クレヨンしんちゃん』の 空気感は
怪獣映画にはまさにピタリなのかもしれません。
じっさい『温泉ワクワク~』や『大人帝国』には、ある種ギャグとしてではありますが、 怪獣が登場しますし。

> ゴジラやその他の怪獣に性格があることの何がいけないのかわからないです。
> むしろ生物感を高めるためにも性格描写は必要なことと考えます。
> (推測ですが、怪獣たちの知能は鯨より高いんじゃないでしょうか)

普通の人に鯨やイルカの“性格”を感じることができるでしょうか?
犬や猫の“性格”が分かるのは他の個体と比べるからであって、
馴染みのない動物には、いくら知能が高いといっても性格を感じることはできないように 思います。
種としての“生物的習性”は分かると思いますが。

もちろんイルカを飼育している係の人や、
しょっちゅう水族館に通っている人はそれぞれの違い・個性・性格は見えてくるでしょ う。

このことから、ゴジラやラドンのように初めて人類が遭遇した生物の“性格”は分からな い、
敢えて性格を見せようとすると人間がする仕草をそのままやらせるしかない、
ということになるのではないでしょうか。

“怪獣の出てくる特撮映画”ならばまず譲れないところで、
“怪獣映画”としても、ゴジラのように種というよりも個体として出てくるものにおいて は、
私にはやはり厳しいように思えます。


> そして、この「再現性のない特殊な方法」にアイディアを凝らすことでドラマ性が豊かになり、最新の科学知識を応用するならSFにもなりうるかもしれません。

昔の怪獣にはちゃんと弱点があったものですけどね。
『84ゴジラ』以降の勝敗は全部気合いか偶然かで、論理的必然性がありません。
完全に頭から抜けてましたが、これは大変重要な指摘だと思いました。

というより、ふつうの映画(洋の東西を問わず)での敵生物は、
弱点を見つけないと倒せないのが普通ですよね。
801
Re:改めて、怪獣映画の定義 KJ

2005/03/22 00:53


男性 37歳 B型

> また怪獣映画の定義を蒸し返すようで申し訳ないですが、
> 私が見たい怪獣映画とは、『ゴジラ』『ラドン』『バラン』などの単体怪獣一話完結ものですが、
> これってテーマ的にも『日本沈没』『世界大戦争』などの怪獣が登場しない特撮を使った映画に近いですよね。

実はここのレグルスさんのご意見、私も判るんですよね。
正直、過去の「怪獣映画」パターンを踏襲する必要は全く無いから、
怪獣という存在を扱った「現在」の「一般観客」に通用する
SFスペクタクル映画を観てみたい、という気持ちは基本として強く
有りました。その意味では、別にモスラもラドンもキングギドラも出てくる
必要は無いんです。独立した質の良い作品であれば、諸手を挙げて歓迎
します。ただ、それがゴジラを扱った作品であれば最高なんですが。
(レグルスさんの言いたい事と若干違っているかと思います。ご容赦を)

> ということは、私が見たいのは“怪獣が出てくる特撮映画”であって、“怪獣映画”ではない、
> ということのようです。
> 殿様ギドラさんたちと議論が噛み合わない気がするのは、これが原因なのではないでしょうか?
> もちろん個人的な好みはおいといて、ですが。

この“怪獣が出てくる特撮映画”と“怪獣映画”の違いは一見近い様に
見えて中々大きな隔たりがあると言わざるを得ませんね。
私も以前「ジャンルムービーとしての怪獣(ゴジラ)映画」という言葉を、
否定的な意味合いで使いました。ここでレグルスさんの言う「怪獣映画」と
いう表現が持つニュアンスと、「ゴジラ映画」という言葉はほぼ同義語に
なるかと。(残念ながらあまり良い意味ではなく)

以下、ゴジラに好意的なファン・マニア以外の一般観客論でお話します。
(個人的極論と思われるかもしれませんが。敢えて書きます。)
今度またゴジラ映画が公開される場合、彼らの受け止め方はどうでしょう。多分;

・ああ、またやるのね。どうせ同じようなアレでしょ?
・固定客は観にいくんだろうな。ウチも子供連れてってやるか。
・また?よっぽど手堅く稼げるんだろうな。
・また縫いぐるみの怪獣が、こんな程度のレベルの映像で、こんな程度で
 話し進めてくんだろうな・・・
・ここまできたら、理屈じゃなくて続けたら?貴重なキャラだよね。

・・・こんな感じの人が大半なのではないでしょうか。

イヤな言い方をしますが、「インディペンデンス・デイ観に行こうぜ」と
言う場合と、「ゴジラVSメカゴジラ観に行こうぜ」と言う時の
カップル(じゃなくてもいいですけど)のテンション・感覚・心理は
全く一緒でしょうか。・・・違いますよね。これは理屈じゃなく、皆さん
皮膚感覚レベルでお分かりになると思います
(もちろん別にIDが特別優秀な作品だって事じゃないですよ)

そこに「ジャンルムービー」に成り果ててしまったゴジラ映画に対する
「こんな感じの」「この程度のレベル」という先入観がある事は、
否定できない「重い」事実だと思います。観に行く人は、無意識にでも
何らかのフィルターを掛けて観に行ってる訳です。(許せる程度のレベルに自己の評価眼 を下げる、或いはハナから酔狂・暇つぶしという意味で)
これはここ20年位の各作品群の出来に責任がある事は明らかです。

その意味でも、「ゴジラ」の呪縛から一度離れて、「怪獣の出てくる
SF映画」を新しく真剣に作った方が良いのかも知れません。

> それか全体的に徹底してノスタルジックにするか…。
> そういう意味では子供の親の世代・60年代を意識した映画版『クレヨンしんちゃん』の空気感は
> 怪獣映画にはまさにピタリなのかもしれません。
> じっさい『温泉ワクワク~』や『大人帝国』には、ある種ギャグとしてではありますが、怪獣が登場しますし。

ここも仰りたい事判るような気がします。
「温泉ワクワク~」並びに「オトナ帝国」は、ここ20年位の作品中で、
東宝怪獣映画(及びその中の伊福部音楽)に対する最も良質なパロディで
あり、かつ素晴らしいオマージュと成り得ていました。
ただ、同じ事を実際にゴジラ映画でやる意味があるかと言うと正直
??ですが。そうであれば過去の作品をリバイバル上映すれば良いだけで。

怪獣の性格描写の点ですが、それが「擬人化」に見えた時点で私も
「アウト」です。
ただ生物としての反応・反射等の描写をうまく扱い、結果的にその怪獣の
習性・個性のようなものが垣間見える形になれば理想でしょうね。

> というより、ふつうの映画(洋の東西を問わず)での敵生物は、
> 弱点を見つけないと倒せないのが普通ですよね。

そう、だからそこを徹底的に追い詰めて描写・ストーリーを持っていけば
取り敢えず物語としては成立するんです。あくまで一つのパターンですが。

もっとも、擬人化した怪獣の存在する事が許される世界観を完璧に
作り上げ、かつその為の演出・ストーリー・映像が素晴らしいもので
あれば、それはそれで一つの良く出来た作品として成立する、と言う事も
当然あり、かと。

P.S.
*伊福部昭 音楽と映像の交響-先にレビュー書かれちゃいました(笑)
798
Re:またまた別スレ ルー等級つつ大臣

2005/03/19 16:44


男性 33歳 AB型

続 きです。
テーマを取り上 げるというのは別に悪くはないし作品に深みを与える役割も果たします。しかし、それに こだわる余り、肝心の作品のトータルとしての面白さが削がれていては 意味がありません(そのバリエーションの一つとして主人公の内面を掘り下げるというも のがありますが物語が「外」に向かわずに尻すぼみで終わってしまうし 肝心の描写すべき要素がおろそかになる。ここでは主人公はゴジラを指すが他者としての 人間に絡まなければそれこそ縫いぐるみショーとなってしまい「特撮映 画」でなくなってしまう。だからといって人間個人をピンで立たせる機龍二部作も個人の 内面的部分が支配してる為にキャラクターとしてのゴジラがまるで描き きっていない。)。テーマ至上主義もそれに描写が伴っていなければ作品的には崩壊して るのと同じです。
では理想のゴジラ映画とは?それはゴジラを 主役にし人間ドラマは個人だけを描写するのは避けてゴジラと人類というテーマで製作す ることだと思います。ゴジラの分析云々でやったり余計なドラマはほど ほどにして(その意味でVSシリーズは惜しかったと思うのですがいかんせん丁寧な描写 というものが皆無だった・・・。)ほしいと。
799
Re:またまた別スレ ルー等級つつ大臣

2005/03/19 17:09


男性 33歳 AB型

そ れにはどうするかですが人間ドラ マ以上にゴジラとその周辺をきちんと描写することです。そしてゴジラのキャラクターと しての魅力を改めて持たせるということでしょうか。ライバルとなる新 怪獣も出現の描写は勿論としてキャラクターをきちんと丁寧に描くことですね。未知なる ものを人間は驚くのでそれのリアクションも含めて人類の葛藤としての ドラマも描写すべきと思います。テーマはあくまで背景にしてキャラクター(怪獣、人類 全て)を描き込むということです。
802
つづきでーす 殿様ギドラ

2005/03/22 16:06


男性 42歳 O型

ここでまた新スレッドとしま す。(790番スレの続きです)

>ルー等級つつ大臣さん
ゴジラ映画に限定しても、バランス感覚に欠ける作品が連発されて いるのは困ったものです。
観念的なものを扱おうとして失敗しているGMK、機龍二部作。
それとは逆の方向を目指したはずのGFWもいらぬ観念的なセリフ をアンバランスに取り入れて、
その上怪獣描写が上っ面だけで焦点がぼけてしまいました。

怪獣映画なら、まずは怪獣を見せることを考慮すべきなのに、それ が出来ない。

怪獣を映画に登場させることの意味を考え抜いているとは思えませ ん。
慣れに任せているというか、惰性で作ってしまったというか・・。
それを考えると、ゴジラ映画一時休止というのは正しい判断なので しょう。

怪獣に対置されるべきは、一個人ではなく社会であることが忘れ去 られているように思います。

>レグルスさん

「ずっと怪獣が好きだった」はチェックしてませんでした。
(岩波とは!)

単体怪獣物が怪獣対決物より怪獣の登場しない特撮映画に似ている というのは、劇中の対立構図の基本線が怪獣対人類にまとまるから だと思いますよ。
怪獣同士の対決がない分、人類の怪獣対策に比重がかかりますか ら、災害映画や戦争映画により近い雰囲気になるものと思います。

私としては「怪獣映画」というジャンルわけをするなら、やはり 「怪獣」が登場する映画と考えます。
そうなると怪獣とはなんだ、という壁にぶち当たるわけですが、科 学で解明しきれない大自然の謎を体現する生き物という定義が一番 近いように思います。
それを映画的に適切な膨らませ方をすれば、巨大な体とか強力な破 壊力・強い生命力という属性がくっついてくるのではないでしょう か。
(もちろん例外もある)

『大怪獣バラン』は記念碑的な作品かも知れません。
『ゴジラ』の段階ですでに十分怪獣の概念は示されていましたが、 『ゴジラの逆襲』や『空の大怪獣ラドン』では恐竜の変種というよ うな扱いがまだ残っています。
ところが、バランは一貫して「怪獣」と呼ばれます。
(中生代の怪獣だ、と。この頃はまだ「怪獣」という単語には怪し い生き物全般を指す意味があったでしょうから、明確に恐竜との差 別化を狙ったものかどうかは定かでない)
そして、バランの死によって地球の謎の一つが永遠に失われたのだ という結び方をしています。
冒頭宇宙ロケットの発射シーンから始まり、そんな科学の進歩と対 置される形でバランが登場していることから、「科学で解明しきれ ない大自然の謎」という観念は明確にあったでしょう。
なぜバランのような怪獣が生まれたかには一切説明がないのです。
これは大変重要です。
(時代が下って、ガメラシリーズでははっきりと怪獣類という呼び 方をしている)

私の「怪獣」定義からは、バランで怪獣が確立したと言えそうで す。
しかしながら、怪獣映画の確立となると次の『モスラ』まで待つこ とになるのは以前申 し上げたとおりです。
(いくら謎の生物でも、最後には殺されてしまうのでは「克服不 能」ではない。モスラは原子熱線砲の照射にも耐えるあたり、ゴジ ラに匹敵する生命力があると設定されているのでは?)GMK掲示板では このように書いてます

それでもレグルスさんのおっしゃることもわからないではないで す。
「怪獣映画」と聞いたときにイメージされるものが、70年代怪獣 映画的お約束世界である人は少なくないでしょう。
そこから怪獣映画にはあまり魅力を感じない、という意見が出てく るのも仕方ないところです。
(それは、KJさんのご意見にあるようにここ20年位の怪獣映画 全般にも責任があるわけですが・・・)

1950年代60年代の怪獣映画をそのまま現代に移し替えろとは いいません。
劇映画全体に要求されるものが当時と現在では違っている部分があ るでしょうから。
それでも、根本にある「哲学」は一切変えることなく現代に通用す る怪獣映画を作ることが出来るはずだと考えています。

もし現実に怪獣が現れたら何が起こるのか、どんな気持ちがするの か、そんな基本的なことをおろそかにしないで丁寧に描くことで新 鮮な驚きを与えることが出来るのではないでしょうか。
怪獣映画にどっぷり漬かっているような人が見逃している盲点を突 くことで普遍性一般性を獲得できるはずです。
(盲点とまでいかなくてもいいです。初期の怪獣映画がきちんと押 さえている要素を洗い出して模倣するだけでも一般的な怪獣映画へ のイメージを覆すに十分である)

怪獣が死なないことには怪獣映画の成立にも大事な意味がありま す。
「神々の闘い」としての怪獣映画なら、怪獣が死んではいけませ ん。
怪獣対決ものでありながらどちらの怪獣も死なないことで、「怪 獣」に対する「人類(あるいはその科学力)」が浮かび上がってく るはずです。
まあ、そこまで難しいところへ行かなくても、「殺さない」劇展開 を大事にしたいですし、怪獣が死ななくても成立するストーリーや 演出に腐心して欲しいと思うのでした。

性格描写の件ですが、たしかになじみのない動物の個性を感じるこ とは難しいです。
だからこそ、映画を通じて性格を感じさせることに意味があるので はないでしょうか。
ホエールウォッチングなんかでたまたま遭遇した鯨にいきなり個性 を感じるわけはありません。
でも、もしその鯨をずーっと追いかけたドキュメンタリーフィルム なら?
性格が感じられるぐらいに対象に迫ったものでないと良い出来とは 言えないでしょう。
怪獣映画も同じだと思うのです。
各怪獣の性格まで伝わる描写がないのでは、怪獣が主役とは言えま せん。

擬人化の問題はちょっと別で、怪獣演出にどこまで「おふざけ」が 許されるのか、という問題だと思います。
そもそも怪獣に人間の身振りと同じ動作をさせることはリアリティ 無視ですから、「遊び」の演出ということになりますね。
私も基本的には擬人化はすべきでないと考えています。
怪獣は人間寄りの生き物ではないのですから。
でも、「遊び演出」としてならある程度の擬人化もおもしろがって しまいそうです。
(『南海の大決闘』での鼻こすりや新しいところで『×メガギラ ス』での笑うメガギラスは許容範囲)
これは映画全体の目指すところと合わせて考えないと、単純に擬人 化アクションが良いか悪いかと断ずることは出来ないようにも思い ます。
擬人化の程度にもよるでしょうし・・。
(『ゴジラ対メガロ』でゴジラとジェットジャガーが背中合わせに なって火炎陣の中でうろうろするのは映画全体の雰囲気には適って いる。嫌いだけど)

KJさんの
>擬人化した怪獣の存在する事が許される世界観を完璧に
>作り上げ、かつその為の演出・ストーリー・映像が素晴ら しいもので
>あれば、それはそれで一つの良く出来た作品として成立す る、と言う事も
>当然あり、かと。

というご意見と同じになっちゃいますか・・・。

と、今日はこんな感じで。
804
Re:つ づきでーす YS

2005/03/23 01:07


男性 47歳

今までは私個人の思い 入れを述べていて、レグルスさんやKJさんの意見とはか み合っていなかったかもしれません。
そこで、今回は、怪獣映画というジャンルのことと擬人化 について少し私見を述べてみます。

まず「怪獣映画」。
これはレグルスさんのおっしゃることは理解できます。
私は、それ以前から洋画にもあったモンスター映画から、 「怪獣映画」として日本で独自の発展を遂げたものとでと 捉えています。
単体怪獣ものや、対決ものでも「ゴジラの逆襲」のように 最終的に怪獣退治で終わるものは以前からあったもので、 「キンゴジ」以降のゴジラ映画は日本で独自の発展を遂げ た「怪獣映画」という捉え方です。
特徴としては、「怪獣退治で物語が終結するわけではな い」「人類の通常兵器が怪獣には通用しない」「怪獣を撃 退できるのは怪獣しかいない」「怪獣のキャラクター重 視」というところかと思います。

これは、ゴジラ映画をシリーズ化する(おそらく興行的な 理由で)ための設定をどうするかということと当時の円谷 監督を中核とした製作陣の怪獣に対する思い入れ、さらに 時代背景などもあって、日本独自の「怪獣映画」という ジャンルが形作られていったではないでしょうか。

もちろん映画としては、怪獣を人間社会に対する脅威とし して捉えそれを克服するという筋立ての方が普遍性があり ます。
しかし、日本独自の「怪獣映画」も現実にそれが多くの ファンを獲得し怪獣ブームを巻き起こしたという事実は無 視できないと思います。

これはどちらが良いということではなく、映画に限らない ですが、作品というものはある種の「割切り」が大切で、 「怪獣映画」には娯楽作品という割切りが必要であって、 それによって創造の羽が大きく広がるものだと思うので す。「たかが怪獣映画されど怪獣映画」なんです。

「84ゴジラ」以降は、その辺を少し混同していたがため に設定がちぐはぐになったと私は見ています。

次に「擬人化」です。
私はゴジラの愛嬌を肯定しているので、しぐさレベルでの ある程度の擬人化は認める立場です。程度問題ではありま すが。
私たちは、動物が人間に似たしぐさをするとすると思わず ほほえましくなりますが、その範囲であれば私は文句なく OKです。
ただ、「三大怪獣」以降はその範囲を超えていると思われ ます。
私的にはOKなのですが・・・。
805
Re:つ づきでーす KJ

2005/03/23 14:37


男性 37歳 B型

ゴジラ映画とはこうい うものだ、という世間一般認識について少し話を
させてもらいましたが、先日ハリウッドの「Walk  of Fame」
にゴジラが殿堂入りした際の、某米TV(?)レポーター の話の中から下記
の一節を見つけました。

Godzilla's producers have avoided glitzy special effects,
relying on an actor in a rubber suit, as they have for 50 years.
Only the Hollywood version of the Godzilla story, released in 1998,
violated that rule and incurred the wrath of the movie's many fans.

以下拙訳です;

「ゴジラの製作者は、派手な(きらびやかな、華やかな) 特撮を避け、この
50年間縫いぐるみ特撮に頼り続けてきた。’98ハリ ウッド版のみがこの
手法を破り、結果、多くのゴジラファンの怒りを買う事と なった。」

上記中のglitzyという言葉は、この場合「最先端 の」という言葉に
置き換えてもほぼ同意となります。

まあ、ハリウッド版ゴジラの評価が厳しいのは、別に現代 的なレベルの
VFXを使用したから、という訳ではない(少なくとも日 本では)事は
皆さん良くご存知かとは思いますが。

要は、「50年間殆どやってる事は変わんない」「だから こそ独特の魅力を
持ちえた」=やっぱゴジラ映画とは、こうあるべきだね。 と言ってる訳
です。
これに絡む全体の文を読んでも、私はそう受け取りまし た。
(問題は、80年代以降の作品も、特撮映像的には「変わ り映えしない」と
 受け取られている事ですな。)

ともかくアメリカでは、ゴジラ映画はジャンルムービーと いうよりも既に
一つのジャンルそのものになっているのは、既知の事実で す。

この世界市場を含めた「一般認識」の恩恵に、これからも あずかり続ける
のか、或いは良い意味で新しい「認識」を植えつける作品 を作り上げる
のか・・・

次の復活が正念場でしょうね。

*イカンな・・・仕事中にこんなの書いてちゃ(笑)
807
Re:つ づきでーす 殿様ギド ラ

2005/03/24 11:34


男性 42歳 O型

>YSさー ん!!

>「怪獣退治で物語が終結するわけではない」「人 類の通常兵器が怪獣には通用しない」「怪獣を撃退できる のは怪獣しかいない」「怪獣のキャラクター重視」

この条件、怪獣映画の基本形として大賛成です。
そして私も怪生物すべてが怪獣であれとは思いませんし、 怪獣映画以前の怪物退治映画だってどんどんおもしろいも のを作って欲しいと思っています。
それはもうジャンル違いだと思っていますので、どちらが 上ということではないです。
(好みで言うと怪獣映画のほうが好きではあります)
それと、作品の自由度を高めるためにはあんまり厳密な基 準を作らないほうがいいのだろうなとは思うんですが、
逆にいまは緩くなりすぎて真の怪獣映画が見失われている と感じています。
ですから、YSさんが示した基準をクリアした作品の登場 を待ちわびるのです。
(ん、この基準で考えるとGFWは怪獣のキャラクターを 重視していなかっただけであとはほぼクリアしているの か・・・。だからこそ一映画作品としてちゃんとしたもの になっていて欲しかった)

KJさん

ま、その、お仕事中にカキコもゴジラのためにはよろしい んじゃないでしょうか、と無責任なことを言ったりして。

「ゴジラ映画」というひとつのジャンルになってしまって いるというのは、多分日本でも似たような状況なんでしょ うね。
「特撮」という言葉が本来の意味を離れて、着ぐるみや仮 面ものを指すようになっているという現状ですから。
(「仮 面ライダー」放送開始時は変身アクションドラマであっ て、誰も特撮番組だとは思っていなかったです。補助的に 特撮を使っているシーンはありましたがそれは メインではありませんでしたから。それでもいまでは仮面 ライダーは特撮ヒーローということになっている。いまの 仮面ライダーは特撮番組なんでしょうけど)

特撮の技法も含めてジャンルの特徴だということにされて しまうのはまずいんじゃないかな、と思います。
ミニチュア・着ぐるみ・操演という形式の「美」も私は認 めますけど、それは表現内容とは別のことなのでそれはそ れとしてデジタルなし芸能という形で存続してもいいかと 思いますが、
大衆娯楽にはならないでしょう。

ゴジラ映画には大衆娯楽映画であって欲しいと願います。
(ゴジラ映画の独特の魅力というのはホントはYSさんが 指摘した内容面の特徴によるのだと思うんです が・・・・)
813
ゴジラの未来 殿様ギドラ

2005/03/25 11:42


男性 42歳 O型

この掲示板もそろそろ締めに入 らなければならない時期になりました。
ゴジラについては語っても語っても語り尽くせるものではありませ んが、この特設掲示板では一区切りして全投稿を「ギドラの巣」コ ンテンツにまとめます。
ゴジラ関係の継続的な話は映像作品掲示板のほうでやりとりできま す。

ゴジラ50周年記念作品の公開も終わり、シリーズは休止となりま した。
それでもいつか再びゴジラ映画が製作される日が来るでしょう。
これまでさんざん書いてきたように、ゴジラ映画にはその他の映画 にはない非常に希な特徴があります。
ゴジラやそれに類する怪獣たちが主役であるということは、劇中の 人類が「相対化」されるということです。
恋愛映画でも犯罪映画でも戦争映画でも事態を動かすのは人間だ け。
そこでは人類が絶対的な存在です。
人間とは何かという問題を人間の枠内だけで考えるものです。
わずかに災害映画や人間以外の意志を登場させるSF映画に人類の 相対化が見られますが、怪獣映画ほど人間以外の存在に感情移入さ えうる形式は見あたりません。

幼児向けの絵本には動物を(擬人化させているとはいえ)主役にし たものが多数あります。
それがなぜなのか、私にはまだ答えが見いだせませんが、人間の原 初的な欲求に人間以外の動物への憧れや彼らと親密になりたいとい う気持ちがあるのではないでしょうか。
怪獣映画にも同じ意識が流れてはいないでしょうか。
とすれば、怪獣映画が滅びることは絶対にありません。

しかし、人間以外の動物への共感を失った怪獣映画も作ろうと思え ば作れます。
怪獣の表層は非常に特異(巨大な体・強力な破壊力・異様な 姿・・)ですから、表層さえ怪獣であればたとえ単なる敵扱いでも ストーリーを成立させることが出来るでしょう。
近年はそんな怪獣映画が多すぎました。
そして、私が昨今の怪獣映画に満足できないのもそこに原因があり ます。
(ああ、「東京SOS」は初代ゴジラの意識に注目してくれたもの の、人間の仲間に仕立て上げられてしまった。それでは人類の相対 化にならない)

怪獣を応援できるような怪獣映画の復活を望んで、次のゴジラ映画 を待ちます。

(この掲示板、3月31日終了予定です)
814
Re:ゴ ジラの未来 ルー等級 つつ大臣

2005/03/26 21:07


男性 33歳 AB型

人間意外のものに憧れ る・・・。
それは人間が誕生してからずっとあると思います。
現に原人の壁画に恐竜と戦ったという従来の学説を覆す代 物が発見されたのですから(ということは紀元前百万年や 恐竜百万年のあの世界感は出鱈目とは言えなくなった)非 力なる人間が強大な力を持つ恐竜や怪獣に憧れるのは当然 遺伝子レベルであるでしょう。
そんな中、終戦から九年後ゴジラが日本に誕生しました。
当時の日本は敗戦の記憶が生々しく希望に満ちながらも 人々はまだ絶望かつアメリカに対し無力でした。内心では アメリカを憎んでいたと思います。ゴジラが誕生したのは まさにアメリカを凌駕したいという円谷監督および受け入 れた当時の人々の力としての希望でしょう。
反戦映画としての作品ではなく(厳密にはそれも含めるが それだけという単純なものではない)アメリカ映画のコン プレックスを払拭したいという情熱の産物だったのです。
そのゴジラが今回の作品で終わる・・・。ファンとして複 雑な心境であります。
今回の北村監督は勢いはあるのは私も認めます。しかしゴ ジラを見せたいのか人間のアクションを見せたいのか両者 が破綻し反撥した作品が最後の作品とは・・・。
815
Re:ゴ ジラの未来 ルー等級 つつ大臣

2005/03/26 21:51


男性 33歳 AB型

思うにギドラ氏のいう 通りミレニアムや平成VSシリーズのゴジラは対ゴジラで のストーリー構成ばかりで窮屈な代物でした。
それにこれらの作品は主役はゴジラではなく人間が主役で したしそれのみのパターンでストーリーに破綻を生じる結 果となってしまったと思います(もっともそればかりでな く基本的作劇法が怪獣映画であることを忘れている。)
もし仮にゴジラがまた復活するとなると今度こそ円谷監督 のスピリットを忘れない外側に向かった力強いゴジラが見 たいと思います。
817
Re:ゴ ジラの未来 KJ

2005/03/26 23:19


男性 37歳 B型

まあ、色々と書かせて 頂きましたが、どんなに裏切られても、腹が立っても
「いつか出来るんじゃないか」という、一種バカ息子を 持った親の気持ち
に近い感情で、半分あきらめながらも結局はゴジラ情報を 今後も追っていく
であろう自分がここにいます(笑)

演出・演技・映像技術・脚本・編集・美術・音楽・・・ etc.

「巨大生物」が、「人の生活空間」に現れ、猛威を振るう という「怪獣」
スペクタクル映画を創る為に、映画製作における全ての要 素を、もう一度
徹底的に練り上げて欲しいと切に願います。もちろん、現 代観客が観る事を
大前提に。

私は、突飛なアイデアや斬新なストーリーを必ずしも望ん でいる訳では
ありません。
過去の作品へのオマージュのような内容でも良いんです。
まずは、「今の一般観客が納得できる完成度の作品」これ が見たい!。
ここに尽きます。映画製作アプローチから、徹底的に見直 して頂きたい。

「通常の科学が通用しない大怪獣が、山に・海に・都会に 現れ、その巨躯で
もってビルを、橋を、道を破壊し、炎に包まれた大惨事と 化す。」

怪獣映画ではありふれたこんなシーンの数々も、「本当 に」50m~
100mもの巨体に「見える」怪獣が、リアリティたっぷ りに「大迫力の」
破壊を行う映像が大スクリーンに描き出されたら・・・

理屈じゃなく我々は圧倒され、息を呑んで子供のようにド キドキ
(ワクワク?)しながら、食い入る様に画面にのめり込む でしょう。

人の心理の奥底に潜む「巨大化願望」「破壊欲求」「理屈 を超えた大いなる
力への憧れと畏怖」「人類の叡智」「生物・自然への憧 憬」「サイエンス
ロマン」etc...

「怪獣映画」は、これら全てを満たしてくれる可能性を 持ってるんです。

本当に満足できる「それ」が現れるまでは、「見果てぬ 夢」と思いつつ
今後も国内情報は追っていく事でしょう。

***素晴らしきかな、「怪獣映画」! そして「ゴジ ラ」!**



・・・別にこれっきり現れない訳ではありませんので悪し からず(笑)
819
Re:ゴ ジラの未来 レグルス

2005/03/27 00:29


男性 29歳 A型

> まずは、「今の一般観客が納得できる完成度の作品」これが見たい!。
> ここに尽きます。映画製作アプローチから、徹底的に見直して頂きたい。

私も、ゴジラ映画、怪獣映画をまだ作るとすると、
第一に挙げるのがこの条件です。
『ULTRAMAN』は”デートムービー”狙いで、当た りませんでしたが、
狙いそのものは必ずしも間違っていないと思います。
(怪獣映画の魅力としてはおいといて、作品の完成度の方 向性として)

少なくとも
1 特撮/VFX的に普通に見られるものにしてほしい
2 物語的に普通に見られるものにしてほしい
この2点はクリアしてほしいですね。
(技術的、金銭的、時間的に無理なら2だけでも)

> 本当に満足できる「それ」が現れるまでは、「見果てぬ夢」と思いつつ

いや、初代『ゴジラ』がそれなんですけど(^_^;)私 にとっては。
だからそれ以降の怪獣映画は全て余談、おまけ、付録、延 長戦、ボーナストラックであって、
平成ガメラ3部作とか、当たりがあればラッキー、という 感じがあるんですよね。

初ゴジのリメイクを望んでいた私ですが、
最近のゴジラ映画の現状を改めてみて、よく考えたら
今作るとオリジナルよりショボくるなる可能性大ですね… (^_^;)
リメイクというより、脚本は当然、音楽も伊福部曲を 5.1chに加工し、
全カットを構図もタイミングもそのままで”再撮影”した だけのほうがいいかも…。
もちろん特技監督は樋口監督で。
820
Re:ゴ ジラの未来 KJ

2005/03/27 18:08


男性 37歳 B型

> 少なくとも
> 1 特撮/VFX的に普通に見られるものにしてほしい
> 2 物語的に普通に見られるものにしてほしい
> この2点はクリアしてほしいですね。
> (技術的、金銭的、時間的に無理なら2だけでも)
>
>
> いや、初代『ゴジラ』がそれなんですけど(^_^;)私にとっては。
> だからそれ以降の怪獣映画は全て余談、おまけ、付録、延長戦、ボーナストラックであって、
> 平成ガメラ3部作とか、当たりがあればラッキー、という感じがあるんですよね。
>
> 初ゴジのリメイクを望んでいた私ですが、
> 最近のゴジラ映画の現状を改めてみて、よく考えたら
> 今作るとオリジナルよりショボくるなる可能性大ですね…(^_^;)
> リメイクというより、脚本は当然、音楽も伊福部曲を5.1chに加工し、
> 全カットを構図もタイミングもそのままで”再撮影”しただけのほうがいいかも…。
> もちろん特技監督は樋口監督で。

・・・上記レグルスさんのご意見内容、基本的には全て同 意します!

初ゴジ以降、時代と照らし合わせてその域をクリアしてい るものは
わたしにとっては「空の大怪獣ラドン」ですね。作品とし て好き・嫌いは
別として。
816
Re:ゴ ジラの未来 ねろんガ ボラ

2005/03/26 22:55


男性 21歳 A型

> ゴジラやそれに類する怪獣たちが主役であるということは、劇中の人類が「相対化」されるということです。
ファンや制作者を含め、こういう優れた発想を怪獣映画か ら見出せる人はほとんどいないのでしょうね。ほんとギド ラさんの怪獣映画考察は凄いです。
シリーズ休止のこの期間にゴジラ観の見直しがされるとい いんですが。見直しがされなかったら復活したところで永 久にゴジラ撃退劇の繰り返しになりますな。なんだかな あ。

> 幼児向けの絵本には動物を(擬人化させているとはいえ)主役にしたものが多数あります。
 大部分のファンや制作者はキンゴジからの昭和ゴジラが 「幼児向けの絵本」にしか見えないのでしょうね。もっと おおらかな考えを持ってほしいものです。暗くて重苦しけ れば名作と呼ばれるこの世界ですが、昭和作品の娯楽主義 が今に通用しないとも限りませんし。

 それにしても何で最近のゴジラってこんな世界観がせ まっくるしいんでしょうか。画面に映っている部分以外に 世界が広がっている感じがしないといいますか。時間や予 算の節約のため?単に制作者の力量不足?謎です。

 手塚監督のFW案があったって話ですけど、やっぱ対ゴ ジラ組織が人工的に歴代怪獣軍団のクローンを作って戦わ せるも、異常が起こってピンチになり、主人公が事態改善 に奔走する・・・って感じの「メガギラス」や機龍二部作 とぴったり同じ作りになったんでしょうか(笑)。
818
Re:ゴ ジラの未来 YS

2005/03/27 00:10


男性 47歳

怪獣は善でも悪でもな いが、ストーリーの展開上結果的にどちらかの役回りを演 ずることになります。
そのためには、人間側の事件と怪獣の登場を関連性を持た せる設定や工夫が必要で、それがストーリーに厚みとヴァ リエーションを持たせます。
そ んな中で、「怪獣の巨大さを人間の視線で実感できるシー ン」「建物が壊れていく(なんでもかんでも爆発ではなく て)シーン」「感情移入できる登場人物に怪 獣が迫ってきてハラハラドキドキするシーン」「怪獣同士 の戦いのシーン」「怪獣がかっこいいと思えるシーン」 「怪獣に親しみを感じるシーン」、そんなシー ンを過不足なく見てみたいです。
昭和40年前後のゴジラ映画はそれが上手く行っていたの ではないかと思います。

今の時代に当時の設定を再現してもそれが時代にマッチす るのかどうかはわかりません。
でも、平成以降そういう実験はないのですから、是非やっ てみて欲しいですね。
あえていうと、「対メガギラス」と「GFW」で多少そん な面はあったのかもしれませんが、「対メガギラス」は惜 しいところで、「GFW」はそれとは別の要素で失敗した と思いますから、まだまだ通用する可能性はおおいにある と思います。

何年か先にそんなゴジラ映画を見てみたいですね。
821
Re:ゴ ジラの未来 殿様ギド ラ

2005/03/28 13:29


男性 42歳 O型

みなさま、熱い書き込 みありがとうございます。
この掲示板の読者層は掴めませんが、どこかの誰かが読ん でいるのは間違いないので発言していただいたことは決し て無駄ではないと信じます。

このごろは怪獣映画の面白さを考え抜いているとは思えな い作品ばかり横行しています。
ファン上がりのスタッフが増えているのに、何でこんなこ とになるのか。
あまり物事を考えない人が増えているのか、あるいはファ ンだファンだといいながら、それは一種のリップサービス でしかなくて実はそんなに好きなわけではないのか???
さっぱりわかりません。

いま、40代~50代のファンなら円谷直撃世代のはず。
それなのに、円谷英二風の特撮映画が皆無なのはどうし て?
石膏のミニチュアや着ぐるみを使えば円谷的というわけで はないです。
ストーリーや演出というレベルで本多・円谷コンビの追随 者がいないのが不思議でしょうがないです。
(私の作品考察がすごいんじゃなくて、本多・円谷コンビ 作がすごいんですよ。なんでこんなにおもしろいんだろう と30年以上考えてくれば、私が気が付いたことぐらい誰 でもわかると思いますよ。考えない人が多いのかもしれな いけれど)

円谷時代の怪獣映画はひょっとすると凄すぎるのかも知れ ません。
本物の芸術は気取らない「顔」を持っていると言われま す。
いかにも立派なことをやってますよという「体」(てい) のものは、とっつきににくくて広く受け入れられません。
かといって間口を広げた結果、深みを失ってしまうことは よくあります。
広さと深さを両方兼ね備えた作品が理想形でしょう。
しかし、その広さには落とし穴があります。
表面的な楽しみだけで満足することも可能なのです。
怪獣映画で考えれば、異形の巨大生物が近代兵器とドンパ チやるだけで派手な楽しさが生み出されますから鑑賞がそ こで止まってしまう人もいるでしょう。
(上記の魅力も無視できない大事な要素ではありますが、 それだけでは足りない)

怪獣映画ファンのみなさん、どうでしょう、円谷英二監督 が関わった怪獣映画を見終わったときと同じような「充実 感」を目指したと思える作品が他に何があるでしょう?
(ひとつ挙げれば日活の『大巨獣ガッパ』はその系列で しょう。大映のガメラはちょっと違うと思う。84年以降 では「vsモスラ」がかすっているか?)

怪獣映画がすべて円谷流でなくてもいいのかもしれませ ん。
でも、ゴジラはそうはいきません。
ゴジラのネームバリューは何によるのか?
円谷流を離れたところにゴジラはない!!(と、アジる)
822
Re:ゴ ジラの未来 ルー等級 つつ大臣

2005/03/30 21:31


男性 33歳 AB型

全くです。
やれゴジラの復活とかいいながら「怪獣映画」という映画 の一ジャンルの愛情に満ちた作品がなさすぎであります!
円谷、本多監督作品にあった充実した精神のスピリッツが 皆無です。
(というか着ぐるみとミニチュアさえ使えば同じのが出来 るだろうという安易さはあるが)
マニア上がりのスタッフはどうしてそのスピリッツを継承 せずにやれ設定や怪獣やゴジラに無関係とでもいうべきさ さいな事にしかこだわらずマニアにしか理解出来ないハー ドとは勘違いの一般の観客を無視した作風のストーリーに するのか?
どうしてゴジラや怪獣を無視した演出をするのか?不思議 でならないけど見終わったあと「怪獣映画やゴジラってこ んなに面白い!」という作品と出会いたいものです。
表面的なものではなく円谷監督のスピリッツを内包した作 品を新作で見たいのです。
思想かぶれのストーリーでなく例え単純で馬鹿馬鹿しくて もいいからそれが一つの思想になる力強いゴジラが見た い!
今は亡き渡辺氏の怪獣デザインは今でもいや今だからこそ 魅力を感じます。
怪獣がきちんとドラマの核になって社会に挑戦する作品が 見たいと今度復活するであろうゴジラに期待します。
823
最後に 殿様ギドラ

2005/03/31 17:53


男性 42歳 O型

昨年11月から5ヶ月にわたり 続けてきたこの掲示板も投稿受付は今日で終わりです。
予定では今夜0時をもって書き込み停止とします。
掲示板自体はそのまましばらく残しますので閲覧は可能となりま す。
その後、表示順を変えてログ整理作業を行い、「ギドラの巣」コン テンツとして再掲します。
最終的に掲示板を削除するかどうかは未定です。

1984年の『ゴジラ』以来、いや、正確には『ゴジラ対ヘドラ』 以来でしょうか、心底楽しめる新作ゴジラ映画には出会っていませ ん。
ゴジラ映画の現状を憂えているのは私だけではないにせよ、ひょっ としたら、もしかしたら、私が間違っていて、内実を変えながらフ ラフラと変転していくことでゴジラ映画は命脈を保っていくのかも しれません。
しかし、私にはそんなあり方の利点が見えませんし、ゴジラという 名前だけが受け継がれても嬉しくも何ともありません。

「大怪獣総攻撃」公開から毎年開設してきた新作ゴジラ映画限定掲 示板で話し合われたことが、怪獣映画の向上になんらかの役割を果 たせたのかどうか。
いや、結果を求めるのはやめましょう。
語らねばならぬと思った人の声を集めたことには十分価値がありま す。
発言内容はweb上に残していますから、今後もどこかの誰かが読 み継ぐ可能性はあります。
それでよしとしましょう。

特撮映画というと範囲が広すぎますが、怪獣物やヒーロー物の行く 末には不安だらけです。
内容が伴わず、「デザイン」や「仕掛け」だけを見せるものが横行 していないでしょうか。
また、特撮物はそれでいいのだと積極的に無内容であることを許容 する空気がないでしょうか。
あるいは、無内容であることに気が付くことも出来ず、表面的に取 り繕われた「テーマ性」を鵜呑みにして作品を「読んだ」つもりに なっている場合もありはしませんか。
(名指しはしないけれど、「東京SOS」に真摯なテーマがあると 書いていた評論家氏は引退したほうがいいでしょう。あの映画がい かに無内容であるかは昨年のログを参照のこと)
それでも、特撮物の一番の「核」は映像の驚異ですから、日常性か ら離れた「絵柄」さえあればストーリーの破綻も演出の破綻も許さ れがちです。
楽しめればそれでいいのでしょう。
問題は何に楽しみを見いだすか。
特撮ファンが、特撮しか問題にすることが出来ず、合成の仕上がり だのミニチュアの作り込みだのキャラクターデザインだのしか眼中 になく、
特撮映画評論家(ライター)が特撮映画を一般映画とは違う物とい う扱いにして作品の映画作法の不備を問題にしないなら、特撮映画 はどんどん袋小路へ入っていきます。
それは特撮に特に興味があるわけではない人々から乖離していく方 向であり、マニアだけで引きこもる方向です。
特撮(それも技術面)にしか力が入っていないものを広く一般の人 が好んで見るわけがありません。
最終的には商売にならなくなるでしょう。
そして特撮映画が死ぬのです。
(まー、イケメン俳優だのの起用でそのときそのときの商売にはな るのかも)

劇映画の「核」とは何だ?とここでもう一度問いかけます。
それを考えずにいい映画が作れるわけがありません。
(なんでストーリーがあるの?なんでカメラポジションを変えなが らフィルム編集で繋いでいくの?BGMはどうして必要な の?・・・・・)

なんでもありだよ、と言ってしまうのは楽なことだし、何でも受け 入れる姿勢は一見かっこいいかも知れません。
それでも、それぞれに「好き嫌い」や「正邪の判断」があるでしょ う?
真に何でもありだと思っている人なんかいるわけがないのです。

また、映画を作る過程では常に「善し悪し」の判断をするわけで す。
アップで撮るのか、ロングで撮るのか、より正しい方法を選び取っ ていくことで作品が出来上がっていくのです。
シナリオ作りも同じこと。
取り扱う題材に合わせた人物、劇展開というものが取捨選択される のです。

特定のキャラクター(ゴジラ)をどう扱ってもいいのだ、というこ とは絶対にない!

(以上822番ルー等級つつ大臣さんの記事への同意も込めて)

さあ、最後の最後は柔らかく行きましょう。
今日までのアクセス数はすでに21000を超え、もうじき 22000に届きそうです。
投稿数も800以上。
やっぱりゴジラは大したものです。
不人気になったとかいわれてますが、50周年となると私ごときが やっている掲示板でもこれだけたくさんのリアクションがある。
投稿くださった方はもちろん、お読み頂いた方にも深く感謝いたし ます。
なにしろこのギドラの巣特撮祭は、わきあいあいと楽しいおしゃべ りをするというようなノリとは100万光年も離れてますから読ん だり書いたりするのは相当に疲れることだったんじゃないかと推察 します。
(正直にゲロっちゃいますと、私自身、かなり疲れました)

はたしてゴジラ復活があるのかどうか、復活なら嬉しいけれど別物 になって登場だとイヤだな。
いずれにせよ、そのときはまた「語る掲示板」をやります。
あるいは、語らにゃならぬと思う作品が登場したら特撮祭と称して やりますよ。
この世に円谷特撮映画があったことで「生かして」もらっていると 心底思っていますから、特撮なんかもういいや、なんて言わないよ 絶対~。

名残惜しい気持ちもありますが、何事にも終わりはあります。(ど んな風に終わるかが問題なんだ、とはあまり好きじゃない映画のセ リフだけど)
GFWを語る掲示板はこれまで!(映像作品掲示板で継続的に映画 やテレビの話は書きますけど)

では、いつかまた。
明日の特撮のために!!