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ゴジラの進行方向 [No.330]

投稿者:ghidorah(管理者)

2002/01/09 (水) 14:29

 

ということで、みなさんは、ゴジラが明確に東京を目指していることを

この作品から感じられましたか?

 

セリフでは、ゴジラは東京を目指している、と語られますが、

それを感じられたかどうかという意味です。

 

どうも作品を見ている間はゴジラがはっきりした目的地を持っているようには

思えなかったので、セリフによって東京に向かっているとか、東京に何があるんだ、

とか言われても、もうひとつ実感が伴いませんでした。

 

なーんでか。

考えてみました。

 

最初にゴジラが確認されるシーンでは、その背鰭が画面上右から左へ移動します。

つぎに孫の手島に現れたときもそのつま先の方向から右から左へ移動していることがわかります。

そののち、いよいよ焼津上陸となるのですが、

海から姿を現すところでゴジラの体はほぼ正面向きではあるものの、画面右側を向いていたはずです。

つぎに港のロングでかなりはっきりと右向きのゴジラが見えます。

 

ここまでで、画面上のゴジラの進行方向が一定していないことがわかります。

さらに焼津では基本的に左から右へ移動しているはずのゴジラが、

倉庫の影から現れるときには右から左へ動くのです。

そういう画面上の移動方向の変化はそのあともたくさんあります。

 

バトルシーンなら怪獣同士のくんずほぐれつなので、ゴジラの動きも方向を統一する必要が

ないのでしょうけど、

なにかに向かって歩いている、という様子を見せるなら画面上の方向は常に一致させるべきではないで しょう か。

カメラポジションを正しい位置におけば、中間的な方向(画面奥から斜めに進行するとか)でも左右の方 向性が

狂うことは無いはずです。

ゴジラが東京を目指すことがドラマを動かす動機になっているなら、

ゴジラと東京の間にイマジナリーラインが発生するはずです。

カメラがこの線をまたぎ越さないようにしていれば、画面上の方向統一は果たされるわけです。

由里がゴジラを追いかけはじめてからでも、ゴジラの進行方向が逆転するカットがあったはずですし、

さらには画面上の由里の移動方向とゴジラの移動方向が逆転しているカットが多いです。

これでは、感覚的にゴジラと由里が同じ方向へ動いているとは思いにくいのでは?

(カメラをゴジラと由里の間において切り返しているのでこのような逆転が起こっている)

 

ゴジラが気ままにうろうろしているというなら、そんな映像構成にも問題ないでしょう。

しかし、東京を目指しているということが重要なポイントなのではないですか?

それとも、東京に向かっているということも登場人物の勘違いで、本当はそうではなかったという

映像側からの主張なのでしょうか。

 

まさか、由里とゴジラの物語だからゴジラと東京の間にはイマジナリーラインを引く必要がなかったとい うこ と?

それにしても、自転車で移動する由里の画面上の方向性にも統一がなかったと思われますが・・・。

 

このような、感覚を裏切るような映像構成も画面に引きつけられない原因のひとつではないかと思いま す。

(いや、引きつけられた人がいるというのは重々承知なんですけどね)

 

バトルでの映像構成はまた別の問題をはらんでいると思いますので、別項で。

子記事

 

 

 

ゴジラの進行方向 [No.334]

投稿者:K4

- 2002/01/09 (水) 20:13

個人的にはグアム沖の発見、孫の手島は南から北へ向かっている

ということでここは気になりませんでした。

上陸後のゴジラは西から東の動きを陸側から海側を見れば右から左へ(ゴジラやや左正面側)。

海側から陸側を見れば左から右へ(ゴジラやや右斜め後ろ背中向き)になるのですが、

ghidorahさんがおっしゃっている通り、ゴジラがひとつの方向へ

むかっている、ということを観客側が感覚的につかまなくては

いけないのに、ゴジラの向きにあわせ画面の中の移動が変わるのは

観ている側に混乱を招くと思います。

ゴジラと一緒に進む由里の視線にとらわれてしまっていて、

映像の中の情報を整理しきれていない、ということでしょうかね。

>自転車で移動する由里の画面上の方向性にも統一がなかった

小田原から中伊豆、国道1号という道程の山岳地帯を

そのまま撮ってしまった(カメラアングルが限定される)

という感じは否めませんね。

 

私がバトルでの映像構成で気になったのはデジタル合成による弊害、

「空間」を感じさせない空間が気になっていたのですが、ghidorahさんの

指摘される点を楽しみに待ちたいと思います。

 

 

細かいところの積み重ねが全体の印象になりますから [No.337]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/09 (水) 23:54

K4さんもご存知の某ライターさんの評論も多少ヒントになっております。>進行方向の件

それとは別に、

映画カメラポジションの原則から考えても、ドラマを支える映像構成にはなっていなかったのではないか という 気がしています。

 

バトルについては、またちょっと違った観点から考えていますので、ご期待下さい。(なんて間抜けなこ とを書 いちゃったら、突っ込

んでくださいね)

 

 

狙いかもしれません。 [No.351]

投稿者:イカ課長

- 2002/01/12 (土) 09:08

ご無沙汰しています。遅まきながら、今年もよろしくお願いします。

 

さて、私も「ゴジラ」や「モスラ対ゴジラ」の上手下手の考察には感化されたクチなので、GMK初見の 際には 同じ疑問を観じまし

た。疑問を抱く価値があると思ったのは、自在なアングルから切り取られたゴジラに対して、並行して描 かれる バラゴンは、右から

左へと常に進行方向が統一されていたからです。この外し方には何か意図があるんだろうなと感じたし、 なによ り私はGMKを思い

っきり楽しめたので、負けず劣らず楽しめた過去の名作の方法論と違った構成でも、なぜ面白さが生まれ るの か、それぞれの長所

を考えて見たかったからです。

そういうわけでその点を気にかけつつ、GMKを合計8回見ました。いや、そればっかり考えて見たわけ ではあ りませんが。

 

で、ゴジラの進行方向はバラバラでいいのだと言う結論に、今の所は達しています。

 

まずは至極当たり前なことなのですが、焼津から清水への侵攻シーンは市民のパニックを描くのが主眼な ので、 ゴジラがどちらか

ら迫ってくるかわからない恐怖を描いた方が効果的ではないでしょうか。もっと言えば、不特定多数の市 民の視 点でゴジラを捉え

たショットを積み重ねることで生まれる臨場感。それを優先した結果かと思います。観客が画面から感じ る混乱 は、そのまま市民

が感じた混乱となっています。わかりやすいのは鮮魚市場の職員、タクシーの運転手、スーパーの主婦な どな ど。といっても監督

の意図は単にビジュアルショック、鬼面人を驚かす体のものではありません。GMKで金子監督が描きた かった のは、「関係ないも

のから襲われる恐怖」のようです。「パーチャス!」という情報誌のインタビューで、監督がそう語って いま す。

「ゴジラには日本を襲う理由があるかも知れないけど、襲われる我々には関係ないよっていう、そういう ゴジラ を作ってます」。

 

ゴジラが日本のどこを襲うつもりか。これは逃げ惑っている最中の市民の意識の埒外であるのはもちろ ん、大方 の解釈どおりゴジ

ラが向かっていたのが千代田区の某所(あの世界にあるか不明ですが)だとするならば、ゴジラがそこに 抱いて いる怨念もまた一

般市民には縁が薄く「関係ない」ものです。監督の「我々には関係ないよ」は、そのあたりまで含めて、 現在 の、そして現実の日本

人の感覚を端的に語っているのだと思います。すいません、話がズレました。とにかくゴジラの進行方向 が整然 と統一されていた

ら、大方の市民の意識とは遊離した視点で事態が描かれることになる、つまりゴジラの悪意の理由が物語 世界の 中で理解されて

いるような誤解が生じ、監督の意図はボケてしまうと思います。

 

GMKで金子監督が描こうとしたのは、私の解釈では「襲う側と襲われる側の断絶」です。これって凄い 悲劇だ と思います。いきな

り平成シリーズを引き合いに出せば、ゴジラと人間の核施設を巡る攻防が良く描かれていましたが、この 場合、 襲う側と襲われる

側の意識にズレはありません。人間はゴジラを攻撃こそすれゴジラの理解者です。ある意味ゴジラは幸せ かもし れません(笑)。

GMKに同じ図式を当てはめようとするなら、防衛軍が守るのは某所だという描写がわずかでも必要にな ります が、「この宝石のよ

うに美しい夜景を、戦場にしてしまうとは…」というセリフから察するに、防衛軍の行動原理は民間人と 同じ感 覚に根差すようです。

誰からも怨念の動機を「関係ないよ」と無視されてしまったゴジラ。その意味では、GMKゴジラは歴代 ゴジラ の中で最もかわいそう

なヤツであり、その悲劇の強調には、監督からも突放され、進行方向さえ無視された方が、理解されない 徹底的 な異物としてのキ

ャラが立つのだと思います。

乱文すいません。

http://www.h3.dion.ne.jp/~tacopost/index.htm

 

 

意図はわからないでもないですが [No.353]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/12 (土) 11:19

イカ課長さん、丁寧なご投稿、ありがとうございます。

 

私もそういう方向のお話をしたかったのです。

 

イカ課長さんの分析もわかります。

確かに、ゴジラに襲われる側の混乱を伝えるにはゴジラの画面上の進行方向が

乱れていたほうが有効だと思います。

(焼津港でのロングでは、左から右へ進行するゴジラを見せておいて、

人間の視点に降りたところでは人物が右を見て驚いている。

次のカットで画面右から進行してくるゴジラとなる)

 

しかし、そうなるとゴジラによる破壊を丁寧に描かないと被災者の混乱が

主軸にならないのではないでしょうか。

GMKでは、ゴジラによる都市蹂躙というほどの描写がありません。

ゴジラはただ歩いていて、神経に障った群集に放射火焔を吐いただけ。

そしてクレーンみたいなものを腕でなぎ払うことと、意図的かどうかもわからない

尻尾の動きで病院を崩したに過ぎないのです。

 

作品の意図として、ゴジラによる都市破壊を描く気がなかったなら、

被災者の混乱という要素を取り入れるのは蛇足ではないでしょうか。

(疑問は残るものの)ゴジラが残留思念の集合体であり、

東京を目指すというのがストーリーの根幹なら、その要素を確実に伝える努力を

すべきです。

 

焼津から清水へ移動するゴジラ(背景に富士山が見えているカット)などは

上陸時と同じく左から右への移動で、病院の前を通りすぎるときもその方向を守っています。

そこを見れば、被災者の視点から離れたときは左から右=東京を目指すという表現なのか、

とも思えます。

しかし、戦闘機隊の攻撃を受けるシーンではどうでしょう。

これは山の中であり、すでに避難民の姿もありません。

ここでのゴジラはただ東京に向かって歩いているという状態なのではないでしょうか。

ところが、その画面上の進行方向が右から左に変化しているのはどういうことか。

これも戦闘機視点(防衛軍=大衆と同じ立場)だから進行方向を乱しているのでしょうか。

 

やはり映像構成を見る限り、ゴジラが目的地を持っているとは感じられにくいのでは?

 

ゴジラは一直線に進んでいるけれど、襲われる側にとってはいろんな方向からゴジラが見える、

という感覚を伝えるような巧みさはなかったと思われます。

 

(イカ課長さんが、観客にもゴジラの目的性を伝えるべきではないとおっしゃっているのは

わかるのですが、そこまでやってしまうと、ゴジラが東京を目指しているという設定に

なんの有効性もなくなりますよ)

 

そして、ゴジラと人間の断絶を観客に伝えるなら、作品の視点(これはカメラポジションという意味では

ない)がゴジラ側と人間側を等分に描かないといけません。

本多・円谷コンビの作品では本多監督の本編がきっちりと人間側に寄り添った演出を施し、

円谷監督の特撮は怪獣側に寄り添った演出を行い、

本編・特撮が連携する部分では怪獣側と人間側の両面をストーリーの要求に合わせて描き分けていたはず です。

 

観客が怪獣に感情移入出来なければ、観客は劇中人物の視点を通すことでしか怪獣を受け止められず、

被災者の感覚しか印象に残らないという結果になります。

これでは、怪獣と人間の断絶を伝えることにはならないですよ。

GMKがフランケンシュタイン対地底怪獣へのオマージュをちりばめている、なんて感想を

目にすることもありますが、表面的な道具立てを拝借しているだけです。

円谷監督があのフランケンシュタインをどれほど愛情を持って丁寧に描き、フランケンシュタインの

心がわかるように演出したか。

あの作品ではフランケンシュタインの孤独が観客にしっかり伝わるからこそ、

フランケンシュタインと社会の断絶が伝わるのです。

そういう演出・構成の技を盗まずになにがオマージュか、と言いたいです。

GMKに置きかえれば、観客にゴジラの意思・目的がちゃんと伝わって初めて

襲われる人との断絶が見えてくるはずなのです。

観客のみがゴジラの理解者でならなければならないはずです。

あるときは人間に悪意を持っているように見え、あるときは人間を意に介さないようにも見え、

刹那の感情は見えても行動原理があるのかないのかもわからないのでは、

ただわからないという印象にしかならないです。

円谷監督のゴジラでは、特に目的がないときにはちゃんとゴジラが「何の気無し」であることがわかりま した よ。

 

しまった。進行方向の話から大きく外れてしまいました。

 

 

移動方向 [No.355]

投稿者:祝 二十郎

- 2002/01/13 (日) 01:24

初代ゴジラがその登場カットのうち殆どが上手から下手への移動を行っている、というのは

「山の手に逃れた人々からの視点」に意識してカメラポジションを決めているからですよね。

 

キンゴジもまた、北から日本に上陸して東京方面を目指していたので、移動するカットは、

上手から下手ではなかったでしょうか?

 

「移動」という事で言えば、「モスラ」におけるモスラ幼虫の移動カットも、きちんと法則

がなしてあったように思います。

 

GMKのゴジラは西から東へ向かって移動しているのですが、「ゴジラを見ているもののポ

ジション=設定」が定まっていないので、そのへんが混乱しているのではないでしょうか?

立花由里と並走しているシーンでは、ちゃんと下手から上手へ移動していましたが。

 

 

全体を統括した映像設計をしているかどうか [No.357]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/15 (火) 11:30

あ、どーも。祝二十郎さん。

 

怪獣の進行がドラマを動かしているなら、

その画面上の進行方向を守ることで緊張感を維持することが

出来るのだと思います。

 

怪獣が迷走しているのか、目的地を持っているのか、

あるいは、対抗怪獣との闘いを控えているのか・・・・。

全体のドラマとの兼ね合いで映像を設計すべきですよね。

 

別のドラマなら、方向性を乱すことが緊張感につながる場合もあるでしょうし。


 

GMKは完成した「映画」なのか? [No.335]

投稿者:丹木たぬき

2002/01/09 (水) 20:41

 

前回は、一怪獣の事をウダウダ愚痴ってしまったので、その穴埋めに映画としての「GMK」について思 うとこ ろを。

まず良かったところを言ってしまうと、

第一に、見ている時に一瞬で醒めてしまうほど酷いくだりが無かったこと。(vsギドラの早回しで走る サイ ボーグとか、vsデストロイヤの特

殊部隊のレーダーとか、ミレニアムのエレベータ一気降りとか....)この点は前作GXMから改善さ れてい たようにも思えます。前作の

手塚監督や今回の金子監督の良いところは、その辺のセンスがしっかりしていて、はずさなかったところ でしょ うか。

そして二番目に気に入ったところとは「見たかった、再現して欲しかった映像がいっぱい見れたこと」で あるの です。....でもです。実は

それが欠点と表裏一体なのに最近気づきました。つまり「ひとつつながりのお話」としては疑問ありなの です。

初見からしばらく考えていて最近思い当たったのですが、この変な不満は大昔、学生時代にたくさん見た オリジ ナルビデオアニメーション

=OVAを見た時のそれと良く似ている。散りばめられたかっこいいメカニック、可憐な美女、大胆な構 図、ト リッキーな動き等々。見ている

時は桃源郷なのだけど、見終わってしばらくすると何かむなしくなってくるのです。

「破邪大星ダンガイオー」「戦え!イクサー1」「バブルガムクライシス」etc.....これらに共 通する のは、ファンの人に怒られるかもしれ

ませんが、あまりにもメカデザインや画面の構図やキャラの動きなど「映像」を中心に企画されているの で、舞 台設定や人物造形、ストー

リーがお座なりになっていることなのです。ストーリーなどは一時期ワンパターンであることが逆にもて はやさ れたりしました。複雑な設定

や、物語は作画を純粋に楽しむのに邪魔になるという考え方です。物語による驚きは否定され、より新し い表現 法を競う方向に進化する

OVAは、しかし、すたれてしまいました。当然かもしれません。映像しか記憶に残らないのです。語る ことの 出来るものが残りませんでし

た。新しい表現が出てきてしまうと以前のものは急激に色褪せてしまったのです。ストーリーで勝負して きた TVアニメに勝てなかったので

す。

GMKはこの時代のOVAに良く似た考え方で作られているように思えます。見たかった絵、やりたかっ た映像 のために、ストーリーも設定

も犠牲にする。もしかしたら作業しているうちにどうでも良くなっているのかもしれない。その為に物語 部分の 尺を切りつめる。いや、物語

自体を整理することすら放棄してしまっているような気がします。やりたい場面のために、主題であるは ずの 「凶暴な恐いゴジラ」ですら、

腰砕けになってしまいます。(ミサイル直撃の後、頬をボリボリ。人間さながらにギドラを背負い投げ)

 

かっての怪獣映画は、怪獣登場部分の尺をつめて編集されている傾向があります。子供には少し物足りな いぐら いでした。では、このよう

に怪獣中心になってしまっているのはなぜなんでしょう。金子監督の演出と編集はあまりに直感的で衝動 のまま にみえます。私には昔、

怪獣映画を見終わった「もっと怪獣がみたい」と思った子供たちが大学ノートに書き記したオリジナルマ ンガそ のまんまに見えます。(もっ

ぱら怪獣しか出てこない)ストーリーがお座なりになっているせいで、肝心の「見せたかったシーン」の 自然さ やカタストロフが、バラバラに

切り刻まれている気がします。

良いカットが次のカットへと相乗効果的につながらないのです。

 

あれだけ怪獣を出すのなら、「恐いゴジラ」などあきらめて次回まわしにするべきだったのではないで しょう か?「護国聖獣」を納得させる

にはシュチュエーションもディティールも足りません。いっそ説明しない方が消化不良が無くて良かった かもし れないと思います。今回のG

MKのストーリーはせいぜいティガ1話分のクオリティしかないような気がします。

 

映画というよりは良質のオリジナルビデオのような気がする。

サービスが過多で、特撮と脚本と演出の達成度が極端に差があって、

まとまった映画としての完成度が極端に低い気がする。

だから、そのような作品を手放しで喜んだり褒め称えてはいけないような.....

かなり長くなってしまいましたが、以上が私の今のところのGMK総括です。

子記事

 

 

 

おお、なんと鋭い [No.338]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/10 (木) 00:11

>物語による驚きは否定され、より新しい表現法を競う方向

確かに、そんな考え方で製作されたとするなら、物語の仕掛けなどは二の次になって、ストーリーの骨格 や芝居 がおろそかにされ

てしまうのも仕方ないのかもしれません。

そして、物語を映画作品の夾雑物と考えてしまう鑑賞法があるとなると私に理解できるはずがありませ ん。

 

丹木たぬきさんが示してくださったGMKのあり方からは、どうして楽しめるのか、という疑問に答えが 見つか りそうです。

それが劇映画として正しいことなのか、感動に普遍性があるのかという部分には問題があるとしても、 今、現 在、楽しめたという人

がいることは説明できそうです。

 

>肝心の「見せたかったシーン」の自然さやカタストロフが、バラバラに切り刻

>まれている気がします。

>良いカットが次のカットへと相乗効果的につながらないのです。

まさに私もそれを感じていました。

実は、そのあたりがバトルシーンでの映像構成のまずさにも通じていると思います。

 

シーンごと、カットごとのつながりにあまり気を配っていないのも全体の印象を散漫にしている原因だと 思いま す。

 

 

明日の特撮の為にっ! [No.341]

投稿者:Lans

- 2002/01/10 (木) 11:01

丹木さま

私、Lansは貴官のご意見に全くもって「完全に激しく同意」いたします!

画像的、部分的に見たかったシーンが多いのも事実なわけで

(観たくなかったシーンも多々ありますが・・・(汗)

大抵の人は、今まで見たくても見れなかったシーンが見れた事により

その時点の興奮と欲求が満たされた満足感で激賛してしまうのでしょう。

 

でも、それでは次第に画像だけが突出し、その画像に限界がきて

さらに同じようなシーンが多く見られる事によって

当初の感動も薄れ、最後には飽きられてしまいます。

 

今のこの方向は絶対にマズイです。

 

明日の特撮の為にっ!

 

 

ポン!ポン!ポン! [No.343]

投稿者:兄貴(赤)

- 2002/01/10 (木) 18:31

丹木さん、膝を三回叩いてしまいました。

全くもってその通りだと思います。

イメージ映像の連なりでしかないとの分析、なるほどおっしゃる通りです。

だから、映画全体としては支離滅裂なんですよね。

しかし、1シーン単位でみると、華やかな映像が観るものを楽しませてしまう。

もっとも私の場合、1シーン単位でもさほど楽しめたり、満足のいく映像はなかったのですが…

 

この様な映画は、最近多いですよね。

ハリウッドのパニック映画は、ほとんどこのパターンです。

映像の迫力と大きな音で観客を楽しませているだけで、内容が薄い作品がなんと多い事か!

それも映画の一つの形ではありましょうが、ゴジラでそれをやられるのは辛いです。

昔のゴジラが実に良く練り上げられた脚本だっただけに、こういったスカスカの脚本では納得できませ ん。

この様なイメージ先行タイプの映画は、プロモーションビデオやテーマパークで楽しんだ感覚でしかない ので す。

本来映画を鑑賞した時は「視覚」「聴覚」「理性」(又は感情)にインパクトが与えられるべきなのに、 「理 性」に訴えるものが無く、そ

のため感動を呼ぶ事はできないと思います。

 

丹木さんはOVAを例に挙げられております。

考えてみれば、金子監督も元はアニメ監督ですからね、そーゆー感覚が持ち味なのかもしれませんね。 (ポルノ も、おやりだった様

ですが)

 

私が金子監督作品を始めて目にしたのは「うる星やつら」の1編です。

ラムちゃんの従兄弟のテンちゃんが、鬼星(おにぼし・ラム、テンの故郷)のおやつを地球のツバメに食 べさせ たら巨大化してしま

い、東京タワーに巣を作る話しです。

このイメージがそのまま、平成ガメラ1作目のギャオスが東京タワーに巣を作る話しに結びつくのです。

 

話しが横道にずれました。

私はアニメも好きではありますが、やはりイメージ優先の内容の無い作品は好きになれないですね。

逆にGMKを絶賛されている人達は、イメージでしか映画を観ていないという事になるのでしょうか?


 

悪いところは、見当たらなかったが・・・ [No.344]

投稿者:どーどー

2002/01/10 (木) 20:28

 

初めまして、どーどーと申します。

実は1月の5日に例のGMKを子供と一緒に見に行って来ました。

さて、感想はと言うと、確かに丹木たぬきさんが仰るとおりなのですが、

私としては、「良いシーンは多い、でも、新しい事なにもやってないな」

につきました。

特撮は良い、各映像の出来も悪くない、

でも、軍の描写はガメラ2みたいだし、護国聖獣はガメラ3のノリだし、

例によってうっとうしいマスコミ人が出てくるのはなんか「首都消失」

みたい。軍によるゴジラ迎撃の雰囲気はビオランテみたいだった。

CGにしてもガメラ3ギャオスが逃げ回るネタとモスラのそれはそっくり、

かつ、それを超えるものではない。

まぁ、のろのろした東宝スタンダードのステージ特撮よりは良いが。

なんか、既存のあらゆる怪獣映画のパロディを見さされた感じがする。

パーツ一つ一つ(造型も良かった)は良いものが多いだけに惜しい。

これを叩き台として、もっと新しいものを見せて欲しい。

ちなみに、一番気に入ったのはバラゴンだったりします。

面白いゴジラが見たい(私としてはビオランテはベストではなかったが

楽しい映画でした。)と思ってる人は私だけではない。そんな気がします。

次はもっとがんばりましょう。○。

子記事

 

 

 

ようこそ [No.347]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/11 (金) 15:11

そして初めまして。

 

やはり一人の作家がそれほどいろんな味を出せるものではないので、

演出に関しては平成ガメラに似てくるのはしょうがないところだとは思っています。

うーん、しかし、平成ガメラにはあった脚本の論理性が失われていることと、

ガメラ3で如実だったカットつながりの手際の悪さががそのままで、

1カットずつ見ればよく仕上がったものがあっても、

カットの連なりとしての1シーンに見るべき物がなかったように思います。

 

以前バラゴン絡みのシーンにはよい部分が多かったと書いたのですが、

繰り返し見てみると、なんのことはない、デジタル合成の進歩で驚いていただけで、

有機的にカットをつないでドラマを感じさせる技がほとんどないのではないか、と思っています。

 

 

レスありがとうございます。 [No.358]

投稿者:どーどー

- 2002/01/15 (火) 12:49

管理人さん、丁寧なレスありがとうございます。

う~む、そのとおりですね。

イメージビデオみたいな感じでしょうかね。

あとは、脚本。もっと練るべきだったと思います。

センス自体は悪くない感じだけに、なんかちょっとという。

借り物が多い感じでした。

良い脚本、良いコンテ、センスの良い特撮、リアルな造型、

絵空事なのだから俳優は渋い方で固める。

そして、オリジナリティ。

がんばってほしいものです。では。


 

GMKが支持される理由?とされない理由 [No.346]

投稿者:atuchang

2002/01/10 (木) 22:22

 

やっぱりキングギドラはゴジラより1.5倍大きいほうがいいと思わない。

あれくるうように足をバタバタさせながら飛ぶギドラすきじゃなかった?

なんかね!怪獣總進撃以後かたまった飛び方して人形つってるだけって感じ、いまの時代なんでもできる んだか なんかやってほしいね。

それ以外は

いままでの80年代以降の(いや70年代かな?)なかではかなり好きです。

 ぼくは平成ガメラシリーズ大好きでした。ですので金子さんには3部作ぐらいとってほしいな!樋口さ んくわ えてね!ちなみに僕は43才

地球最大の決戦ぐらいからは自力で映画みにいきましたよ!幼稚園だったけど。僕は映画の無理な現実感 と科学 の説明が大好きです。

堅いこというなよ~って感じ、だってゴジラ対バラゴンのシーン一番好きだったもん。 ということでい ままで のより数段よい「怪獣映画」と

思います。最後にそしてされない理由?ハムたろうと同時上映したこと、いままでにきっとかいた人いる よね!

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こんにちは [No.349]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/11 (金) 15:36

GMKを楽しんだんですね。

よかったですね。

 

それで、ひとつ教えてくださいな。

どうしてハム太郎と同時上映だと、支持されなくなっちゃうのかな?


 

ハム太郎好きの人ごめん! [No.350]

投稿者:atuchang

2002/01/11 (金) 22:20

 

ごめんね!僕はハム太郎がどれだけ人気があるかしらない、当然のごとく

会場は僕以外親子ずればかり。これじゃゴジラ好きの人ひかないかな、なにげに怪獣映画好きな人とか特 撮好き な人もいるだろうし。  

       今回の話は戦争がバックボーンであり

 ガメラシリーズよりはうすかったが現代に怪獣があらわれたらどうなるだろう、などという設定もあ る。よう はこれだけシリアスな部分もあ

るのだからSF映画のロードショウとして

他の映画と勝負してもらいただけ!なにせ世界のゴジラなんですから。

 

ハム太郎終えたあとに館に入った人僕の他にいないのかな?

 ところで管理人さんは僕のキングギドラの感想どうおもうの?

そういう単純な話したいな。

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単純な話をご希望ですか [No.352]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/12 (土) 10:06

ゴジラはみたいけどハム太郎は見たくない、という人もいるんでしょうね。

私は同じ金額で2本映画が見られるなら、それはそれで嬉しいですけど。

ハム太郎が邪魔だと思っている人だと「劇場で」ちょっと引いたりするのはわかりますよ。

でも、それってGMK自体の評価とは別でしょ。

ハム太郎と同時上映だからといって、GMKを支持しないなんていうのは、

作品の内容を見ていない人ですね。

 

atuchangさんのキングギドラ評には異論ないですよ。

今回のキングギドラはダメダメです。

 

 

じゃ、簡単な話し。 [No.361]

投稿者:兄貴(赤)

- 2002/01/16 (水) 18:48

ギドラ、かっちょ悪すぎ!

ずん胴、短首、デブ、おまけに動かないし。

折角、空飛べる様になっても、わざわざゴジラと四つに組むし・・・

情けないっちゃ!(byラムちゃん)

 

ハム太郎は、好き嫌いの問題では無く、ダメ過ぎ。

作り手が子供向けという意識が強いのか、手抜きしたんじゃないかと思われるほど、

ストーリー無いし、派手な色彩と音楽でごまかしたと言う感じ。

子供向けであっても、ちゃんと子供が楽しめるものは、大人でも楽しめるものであるはずです。

宮崎作品や昭和黄金期のゴジラがそうであった様に、ちゃんとした映画を作ってもらいたかったです。


 

GMK見ました♪ [No.354]

投稿者:ザク?

2002/01/12 (土) 20:26

 

初カキコです。皆さんシビアな事言ってますねぇ。青二才の私はついていけません。(苦笑) 映画館は ハムス ター野郎の影響もあって、

もう子供だらけ。

三時間ぶっ通しで叫びとおしてました。何の理由があって同時上映にしたんだか・・・。それだけでこの 映画は 落ちますね。

映像はなかなかのものだったけど、なんか空回りしてるよなシーンも多いと感じました。多くの怪獣が登 場した のはうれしい事ですが、ちょ

っと影薄いですね。

全体的に。今回のゴジラは、なんだかやたら強い気がします。背後に忍び寄る

モスラを尻尾で叩いたり、振り向きざまに放射能など・・・。なんとなく、ゴジラっぽくないなと感じま した。

 一番気になったのは主演の新山千春さんですかね。パンフには「演技派女優」

と書いてあったのですが、はっきり言うと、どこがだって感じです。

佐野史郎さんのワケわかんないヘアースタイルや、今更なんだと言いたくなるようなチューヤンの出演。 篠原さ んとか山寺さんもでてまし

たけど・・・。特別出演多すぎ。でもまぁ映画自体は割とよかったんじゃないかと思います。以上!

子記事

 

 

 

いらっしゃいませ [No.356]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/15 (火) 11:20

ザク?さん、初めまして。

 

私が見た(ている)劇場では、子供たちが大騒ぎということもなかったのですが、

場所によっては落ち着いて鑑賞出来ない雰囲気のところもあるんでしょうね。

 

これまでは、この掲示板であまり人間側の演技については話題になっていませんでしたので、

気になる点がおありでしたらもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。

 

新山千春さんの演技は、滑舌の悪いところがあったように思わないでもないですけれど、

そんなに外していたわけでもなかったのではないかと・・・。

 

 

出演者の演技について [No.373]

投稿者:ザク?

- 2002/01/20 (日) 14:14

お返事ありがとうございました。僕はGMKを一度しか見ていないので、

あのシーンのここが変だった、というような具体的な説明はしづらいですが、

主演の新山千春さんは、たまに台詞が棒読みになっていたように感じました。

最後にゴジラがやられて、皆で喜ぶシーンも、ちょっとわざとらしくて嫌です。

主役が女性なのもいいですが、配役が全体的にB級だったように思います。

佐野史郎さんはミレ二アムにも出ていたので別に気になりませんでしたが、以前にも書かせていただいた 様に、 特別出演らしき人

が気になりました。

卓球してた人が篠原さんだとはしばらく気付きませんでしたが、チューヤンの

出演は、見苦しい限りでした。はっきり言って。あきらかに意味のない前田愛、

前田亜李の出演も気になります。×メガギラスの際の、極楽とんぼの出演はまだ

許せる範囲でしたが、ちょっと特別出演が多すぎるのではないでしょうか?

せっかく作り込んだ作品も、ふざけているだけの様に感じられてしまうのが残念

です。どなたか意見があれば是非聞かせてください。

 ゴジラは怪獣映画なので、人間の演技ばかりにこだわるのも変な話ですけど。

 

 

演技は大事ですよね [No.374]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/21 (月) 10:23

ザク?さん、お答えありがとうございました。

 

怪獣映画もまた人間の演技が大事だと思います。

どうしても怪獣が見せ場になってしまうので、

人間側のドラマを掘り下げるわけにはいかないからこそ、

一瞬の表情とか微妙なセリフの言いまわしが大事になるはずです。

 

そして、人間たちの関係性や心理に納得出来て初めて

怪獣が存在するというウソの世界に現実感がもたらされるのだと

思っています。

 

(キングコング対ゴジラでは、最初ファロ島取材に消極的な

桜井(高島忠夫)が島に着いてからどんどんやる気を出してきて

コングを日本に持っていこうとまで言い出します。逆に

藤木悠さんのほうは初め積極的ですが、事態が大ごとになるにつれて

どんどん引いていきます。

劇中、高島さんがやる気を出すきっかけになった出来事とか、

藤木さんがびびるきっかけなどは特に描かれていませんが、

二人の性格の描き分けが場面場面での二人のリアクションの違いに

表れていて、ごく自然に変化を感じさせてくれます)

 

GMKでは・・・・・。

なんかシーンごとに細切れの芝居だったような・・・。

南果歩さんをもっとうまく使っていればなぁ、とか佐野さん浮いてるなぁ、とか

立花准将の昔語りでは泣けないよなぁとかとか。

 

ザク?さんがおっしゃる通り、ゲスト出演の使い方も小うるさいだけだったと

思います。

やはり大はずしは、前田姉妹の使い方ということになりましょうか。

なにもあんなにわざとらしくなくてもいいのに・・・。


 

バトルシーンがどうだったのか [No.359]

投稿者:ghidorah(管理者)

2002/01/15 (火) 13:26

 

さて、それではバトルでの映像構成。

と考えてみたら、ことは映像面だけでなくもうちょっと広い内容も含むことになりました。

 

比較的評判のよいバラゴン戦も改めて見なおすと、

闘いの流れがなんだかよくわからなかったのでした。

 

ゴジラとバラゴンが出会って互いに吠えあい対峙したところで、しばらくヘリコプターの様子や

軍の反応などが挿入されます。

続いて、逃げる群衆の向こう側に画面右上方からバラゴンが落下するようにフレームイン。

(ここで、すでに戦端が開かれていてゴジラに「やられた」バラゴンが落下したのかと思った)

そして、バラゴンは斜め左下方向に穴を掘って地中に逃れるような動きをします。

そのあとカメラが引くと、

ゴジラは下手(画面左側)にいるではないですか。

で、バラゴンの穴掘りで立ち上ったと思われる土煙が上手(右側)なのです。

(え?まだゴジラとバラゴンは手合わせしてなかったの?と戸惑う私)

 

次に崖上からゴジラに跳びかかって腕に噛みつくバラゴン。

ゴジラの前方から跳びかかったのですから、まずはゴジラとバラゴンは顔を向き合わせた方向になってい ます。

このあとゴジラがバラゴンを振りほどこうとするアクションが少しあって、

由里と武田の本編カットが挿入されます。

次にゴジラとバラゴンが画面に登場すると、バラゴンの体は180度向きが変わっているのです。

そりゃあ、由里と武田が解説セリフを語っている間になんらかのアクションがあって、

バラゴンが引きずられるような格好になったのだ、と想像は出来ますよ。

しかし、闘っているもの同士の向きが変わっているのに、その変化を描写しないとなるとゴジラ対バラゴ ンを

目撃している気がしません。

 

そのあと、ゴジラがバラゴンを投げ飛ばします。

ここで駐車場を逃げる人々、その向こうから手前へ落下しながら飛んでくるバラゴンという印象的なカッ トがあ ります。

これは良かったのです。

しかし。

次にバラゴンが映ると、崖に頭を当てている状態です。(そのバラゴンにゴジラが踏みつけ攻撃を行う)

おそらく、駐車場に落下して、地面をすべり、崖にぶつかって止まったのだと想像は出来ます。

でも、その過程を見せてくれないのです。(由里と武田のカットが挿入されて省略している)

バラゴンがすっ飛びながら落下したのはわかりました。

そんな大きなアクションがあるのに、それを「受ける」カットがないのです。

さらにはゴジラの踏みつけ攻撃でヘリコプター視点となり、上空からの「引き」になりますが、

ミニチュアセットにバラゴンが落下したと思われる駐車場が見当たりませんでした。

実景とミニチュアの連携もうまくいっていなかったのでは?

 

このあとの、跳びかかったバラゴンを尻尾で打ち返す?一連のアクションも位置関係や動きがよくわから なかっ たです。

バラゴン下手、ゴジラ上手で向き合い(ゴジラは左を向いている)正面から飛んでくるバラゴンを体を回 転させ ながら

尻尾を振り出して打ち返しているようですが、

打撃の瞬間がバラゴンのアップであり、

次にカメラが引くと、ゴジラは相変わらず左向きで、その後方へバラゴンが飛んでいっています。

景色もその前の「引き」とは見え方が違うので、カメラが真逆へ移動しているような気もしますが、

やはり崖は下手(画面左側)にあるようにも見え・・・・。

なんだかさっぱりわからないです。

 

最初に見たときには合成カットが非常に細かく仕上げられていたのでそこに感心(これって、特撮マニア の観方 ですね)してしまい、

怪獣バトルの芝居をちゃんと見ていなかったようです。

 

対バラゴン戦を細かく書いてみましたが、

ラストのモスラ・ギドラ戦になるとカット割りのリズムや(やはり)カメラポジションの乱れがバトルの 興奮を 殺いでいたと

思われます。

ゴジラ対モスラでは丁丁発止とやりあっていることを表現するようなすばやいカットつなぎがなくて、

なんだか間延びしていましたし、

対ギドラ(キングギドラ)戦ですごく気になったのは、

放射火焔をギドラが跳ね返して同時に光の塊をゴジラにぶつけるくだりですね。

ゴジラは上手から下手へ弾き飛ばされて、激しい爆発を起こしながら海に落下します。

(カメラは海側にある)

ゴジラが海中を泳ぐカットなどあって、浮上するゴジラへギドラが飛んでいくのですが、

ギドラがカメラへ向かってまっすぐ飛んでくるカットがあり、続いて海面を見下ろすカットでギドラは画 面右後 方からフレームインするので

す。

どうもこの瞬間カメラが対岸へ移動して、逆向きになっているみたいです。

カメラに向かって飛んでくるギドラと次のカットでカメラが切り返しているわけですが、

このカット同士が「つながっていない」のが問題です。

カット同士を違和感無くつなぐやり方にはいくつか方法がありますが、この場合は迫るギドラと飛び去る ギドラ のつなぎ目で、

画面上の位置と大きさを一致させるのが理想です。

これによって観客はその動きの前後方向が変わっても一続きのアクションであることを認識できるので す。

うまくやれば、ギドラのアクションに乗じて自然にカメラを切り返せたはずのカット割りですが、

あれでは位置関係の混乱を招くだけのように思います。

(手前に海があって、向こうに陸地があるというシチュエーションがカメラを切り返しても変わらないこ とも問 題かも。

それならそれで、燃えている側とまだ燃えていない側という具合に差別化して見せる努力があれ ば・・・)

 

もちろん、映画のカメラは客観的なもの(登場人物に寄り添う必要はない)ですからその位置や向きを自 由に変 えられるものです。

しかし、観客の意識を誘導するという使命を忘れてはいけないのではないでしょうか。

あるアクションをある方向から見せておいて、別の方向へ切り替えるなら、切り替わりを「わかるよう に」示さ なければ

混乱を呼ぶことになります。

特に、バトルシーンでは闘っているものの「動き」が重要になりますから、その方向や位置関係を正確に 伝える ことを

おろそかにしてはいけないはずです。

よほどの演出意図がない限り、闘いの流れをわかりにくくするような編集やカメラポジションの変化は慎 むべき ではないでしょうか。

 

また、ラストバトルでは怪獣と共闘するためにじっと攻撃を我慢していたはずの防衛軍が、

怪獣たちが集結してももたもたしていて攻撃をかけず、ギドラやモスラが一旦動きを止めてから単独で攻 撃する というのも

どういう演出なんだかさっぱりわかりません。

 

あ、最後に訂正。

No.353の私の投稿で、

>焼津から清水へ移動するゴジラ(背景に富士山が見えているカット)

と書いてしまいましたが、これは、清水からさらに東進するゴジラの間違いです。

大意に変化はありませんが、間違った情報はいけませぬ。

 

それと、変なことを書いていたらどんどん突っ込んでください。

己の間違いは正したいです。


 

お久しぶりであります。 [No.360]

投稿者:き

2002/01/16 (水) 13:12

 

拝啓 義銅鑼(ワープロのいたずら)様じゃなかったギドラ様

映画の古代聖獣伝説ではどんな当て字だったでしょうか?

ところで大変ご無沙汰しております。まだ生きております(笑)。

 

GMK掲示板、さすがですね。私は映画を3回観ましたが、Gの白目以外は

基本的に気にいっており、また特撮のレベルが非常に高くおもいました。

印象的なのが箱根の山の上からGが顔を出す場面、Gが孫の手島に上陸し小

便をしている男(薬のCMで西田敏行と共演している俳優さん)ごと屋根か

ら押しつぶす場面....明らかに大戸島のGの再現ですね。Mの繭が湖上に浮か

び周辺を囲むシーンはモスラ対ゴジラだし、バラゴンが最初にトンネルで顔

をだすのは明らかにウルトラQの記念すべき第1回作品の”ゴメスとリトラ”じゃないですか。篠原とも えが病 院ごとぶっ飛ばされる場面.....

しっぽでビル

を壊すのはもう定番ですね。金子監督の本多猪四郎監督、円谷英二特技監督

(最近誰も使いませんが、いい響きですね)へのある種の敬意が感じられま

した。オマージュといったほうがいいかも。

さらにいうならラストで宇崎竜童がこちらへ歩いてくるのはアルマゲドンか?

 

自衛隊でなく防衛軍なのは実は未知の化学物質で毒殺されたのを隠すため防

衛軍を非難する場面があるため、自衛隊ではまずかったのでしょうか?

それとも小林よしのりの影響でも受けたのかな?やまたのおろち伝説とキン

グギドラは容易に推察されるけど、バラゴンは狛犬伝説だったわけですね?

なるほど。

 

前作の星由里子のときも思ったのですが、大物俳優、中堅俳優がおおぜいで

て、照れることもなく堂々と演技してますね(当たり前かもしれませんが)

ある意味、ゲテ物映画といわれかねないわけですが....映画というのは所詮は

虚構の世界でありまして、それなら怪獣映画ほどの大きな虚構はないわけで

........大いなる嘘を楽しめばいいわけです。ある意味俳優冥利につきるでしょ

うね。ギドラ様もひさしぶりに出演すればよかったのに。ところで俳優とい

えば、久しぶりに天本英世観ましたね。マタンゴじゃなかったMJを思い出

します。さあことしこそMJ復活を期待しましょう。ゴジラvsMJ.....ちょっ

とシュールかな(笑)。

子記事

 

 

 

あら~ [No.362]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/16 (水) 20:03

きさん、お久しぶりです。

 

GMK、お気に召しちゃいましたか。

わりと世代が上の方には受け入れがたい内容ではなかったかと思ったんですが。

それは、有名怪獣を設定から性質まで変更してしまったこともさることながら、

劇映画のドラマ性まで放棄してしまっているあたりが、映画が「本当におもしろかった時代」を知る人に は物足 りないのではないか

と・・・、なんてーのは私の感覚でしかないってことなのでしょうか。

 

昨年は円谷英二監督の生誕100年だったわけですが、

とうとうスーパーメカものの新作の話が聞かれませんでしたね。

円谷監督は動物好きだったと推察しておりまして、それが怪獣演出の冴えに表れたのではないか、なんて ことを 昨年の須賀川円

谷英二展で考えたのではあります。

とはいえ、やはり円谷監督が燃えたのは飛行機であり、ロケットであり、

メカであったのではないか、というのもみなさん認めるところだと思います。

かっこいいメカ特撮の登場が待たれますね。

マイティジャックは残された作品のクオリティ(おもに脚本の出来ということになりましょうか)がいま ひとつ なので、リメイクするには

うってつけだと思うのですが。

あのMJという組織の設定は今日的なテーマを扱うにはちょうどいいはずです。


 

肯定派、ささやかな言い訳 [No.363]

投稿者:GMK好き

2002/01/17 (木) 16:43

 

初めまして。映画の本質を理解しないらしいGMK肯定派の一人です。

今回の作品を含む一連の新作ゴジラが気に入らない方は

いつまでも古い作品のビデオを見て永遠に懐かしんでれば良いと思います。

ギドラやモスラの属性変更が不満の方は多いですが

金子監督としては当初はバラゴン、バラン、アンギラスの属性を変更したわけです。

まあ、どちらにしても変更は変更なんですが、この3怪獣に関しても

属性変更は不可なんでしょうか?

ゴジラとこの3怪獣とのドラマで準備を進めていた金子監督は

偉い方の「ギドラとモスラを出してや」の意見をTプロデューサーから突然

聞かされ、15分の沈黙の間にバランとアンギラスの位置にモスラ、ギドラを置き替えられるか

必死で考えたそうです。当然、モスラはインファント島から、ギドラは金星から来ると

いう設定で。

しかしどうしてもまとまらず降板も考えたそうですが、すでにスタッフを集めた状態でそれもできず

最後の条件がモスラとギドラの属性を変える、だったそうです。

当然非難の声が上がることを予想した上での苦渋の選択だったそうです。

バラン、バラゴン、アンギラスでの風、炎、氷の攻撃のフォーメーションで

ゴジラとの戦闘シーンを作る予定だった監督がモスラ、ギドラに変更して一番苦労した点は

この二体では当初予定していた攻撃のフォーメーションがまったく使えなくなる

ということだったそうです。

ファンは好き勝手いってれば良いですが製作サイドはそれなりの事情があるモノです。

金子監督の中にはギドラは遠い過去に金星からやってきて

地球において当時の人類に封印されたという設定もあるそうです。

以上は先日ロフトプラスワンのトークライヴにおいての金子監督のお言葉です。

ライブに参加したスタッフや俳優の方々はみんな本当に怪獣が好きなんだなと

十分に感じさせてくれる素敵な人達でした。

子記事

 

 

 

否定派ささやかな言い訳 [No.364]

投稿者:Lans

- 2002/01/17 (木) 20:48

ども、GMK非難派、GODZILLA肯定派のLansと申します。

 

>当然非難の声が上がることを予想した上での苦渋の選択だったそうです。

 

であるならば、非難してあげる事が礼儀だと思います。

その理由は・・・

 

>ファンは好き勝手いってれば良いですが製作サイドはそれなりの事情があるモノです。

 

私もクリエイターの端くれとして飯を食っております。

(特撮ではありませんが、エンターテインメント業界です)

よって、事情その他はわが身のように理解できます。

であるからこそ非難するのです。

 

これは、監督が非難を覚悟で行なった変更・・・

つまり監督自身が納得しきれていない変更という事ですよね。

 

であるならば我々は作品を非難して監督を援護しなければなりません。

そして無粋な変更を命令した上層部に監督が・・・

「ほら、あなたたちの無茶な命令のおかげでファンから非難されていますよ」

と伝えてもらわねば・・・

 

そうしなければ、間違いを指摘しなければ

会社上層部は毎回、毎回、口を出してきます。

それを阻止する為には上層部にわからせるしかない。

つまり、上層部の命令による変更部分が評判悪いという事実を突きつけなければならんのです。

 

そして作品を非難する一方で上手い部分にはおしみない賞賛を与えねばなりません。

(この部分は監督の範囲でしょうから、上層部にくらべ監督範囲が賞賛されれば相対的に監督の発言力も あがり ます。)

 

また作品を劇場で観て、グッツや書籍を買いあさり

商業的に成功させなければなりません。

 

そうすれば、成功は監督のものであり、

上層部の口出しは機会損失を生んでいると持っていけるのです。

 

その為にも、作品を分析し、なにが根本の原因であるかを究明しなければ・・・

 

そしてその原因が上層部の無理な命令にあったと証明しなければならんのです。

 

(ちなみに、ここを含め某サイトに連動した事のあるサイトはなんらかの形で東宝関係者が閲覧する可能 性があ ります。)

(だから、書くのです)

 

明日の特撮の為にっ!

 

 

内輪の事情は内輪の事情であって・・・ [No.365]

投稿者:祝 二十郎

- 2002/01/17 (木) 21:55

今の世の中はインターネットという便利なものがあるし、種々の媒体(今回のトークライブ含む。ちなみ に

私も行きました)で所謂「内輪の事情」というものが、昔と比べて容易に耳に入ってくるようになりまし た。

 

でも、その「内輪の事情」を知ったところで映画の評価そのものには実は全然関係無いんですね、これ が。

「監督をはじめスタッフの皆さんがこれだけ頑張ったんだから、多少の粗には目を瞑って、誉めてあげて

ください」ってのは、「ひいきの引き倒し」に過ぎないような気がしますが・・・。

 

ここでいろいろ論じている人たちだって、「金子監督らスタッフ一同が遊ぶ半分でゴジラ映画を作ってい

る」なんてことを考えてはいないですから。

 

ま、オールドファンほど「新しいものは常にダメ」という冷ややかなものの見方をしている、というのは

まったく否定はできないですけどね(笑)。

 

 

たとえ人に嫌われても正しいと思うことは言わねばならぬのです [No.366]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/18 (金) 11:14

GMK好きさん、初めまして。

勇気を持って書きこんでくださったことに感謝します。

 

しかしながら、Lansさん、祝二十郎さんのご意見に私も賛同いたします。

 

付け加えて、GMK好きさんのご質問その他にお答えします。

 

私が円谷監督の特撮映画にこだわるのは、懐古趣味ではなく、

非常に優れた映画作品だからです。

そのストーリー、映像に「美」があるからです。

 

また、架空のキャラクター(今回のお話では怪獣ということになります)は

実在しないがゆえに作り手の胸先三寸(臍下じゃないですよ)でいくらでも作り変えてしまうことが可能 です。

しかしそれをいいことに作るたびに変更してしまっては、アイデンティティが失われ、

その名が表わす内容が「なんでもあり」=「どれでもない」になってしまいます。

バラゴン、バラン、アンギラスであっても、すでに生みおとされ、「存在」しているキャラクターです。

それを名前(とおおよその形も?)だけ借りて作り変えるのは芸術に対する犯罪です。

 

私は作品をあれこれ考えるときに、出来るだけスタッフインタビューとかメイキング本は読まないように してい ます。

それは作品の成立過程を知ることであり、作品そのものの評価が裏事情を知ることで左右されるのはまず いから です。

しかし、今回のGMK好きさんの書きこみで知らなかったことを知ってしまいました。

金子監督は怪獣を差し換えられたときに、ストーリーを変更することを考えなかったのですね。

用意していたストーリーにモスラ・ギドラを当てはめることしか考えなかったのですね。

(それともシナリオ決定稿が仕上がっていて、ロケハンも終わってからの無理やりな変更だったのでしょ うか)

そして、バラゴンが炎を使うのはいい(もともと熱線を吐く怪獣ですから。それにしても完成したGMK では

一度も吐きませんが)としてバランが風?アンギラスが氷? 初めて知りました。

どうしてそういう発想が出来るのか理解出来ません。

すでに存在している怪獣を使うなら、その属性を尊重するのは当然でしょう。

そうでなければ、その怪獣を使う意味がないです。

また、いままでいなかったタイプの怪獣を出したいなら新怪獣を創造すべきなのです。

 

そもそも、ゴジラはどうなんでしょうか。

まずはゴジラ映画の一本として企画されたのがGMKではありませんか。

「自分なら」ゴジラをこうする、というやり方が正しいのでしょうか。

そういう行為は、正統なゴジラシリーズがしっかりと正しいゴジラを描きつづけているときに、

「素人」が同人誌や自主映画でパロディとしてやるべきものです。

 

正しいゴジラは、円谷監督が演出したゴジラの中にしか見出せません。

これからゴジラを手がけるクリエーターは「常に」円谷ゴジラはどうだったのかと考えながら、それを基 本にし て演出しないと

糸の切れた凧状態になってゴジラがあらぬ方へ飛んでいってしまいますよ。

クリエーターが100%わがままを言えるのは、手がける作品のすべてを己がクリエートしている場合に 限りま す。

円谷監督であっても、ゴジラを演出するに当たっては香山滋さんの意向を尊重したと思われます。

(香山滋さんの「ゴジラざんげ」というエッセイを読むとキンゴジ以降のゴジラがちゃんと香山滋さんの 意向に 沿っていたことがわか

る)

 

 

正しさにこだわらない私 [No.370]

投稿者:レグルス

- 2002/01/19 (土) 22:46

私もゴジラを始めとする怪獣は“役者”だと思っているので、

属性変更が全然気にならないタイプの人間です。

 

皆さんが例示されているウルトラマンや仮面ライダーは

そんなに詳しくないので別の例を挙げます。

それはアニメの「ガンダム」シリーズです。

 

初代のあまりに大きな遺産を食いつぶす方向で

新作を制作し、それを消費し続けるというのは

送り手(商売)としてはラクかもしれません。

毎回原点に忠実に作るのは(悲観的ですが)無理としても、

時に過剰なこだわりとエネルギーを注ぎ込んだ作品を作らないと、

結局屋台骨を食い尽くして共倒れになってしまいます。

(この下の2行は分からない人は無視してください)

「ガンダム・センチネル」「ガンダム0083」のような

作品にどれだけのパワーが注ぎ込まれたか…。

もう少し別の例では江戸時代の中だるみの時期に現われて

侍魂を見せたとされる赤穂浪士四十七士。

 

このあたりで本腰を入れた正当な継承作品を作らないといけないのですが、

映画は大人数・大予算の共同作業であるだけに、

いくら本気の人がいても、上の理解がないとどうしようもない面があります。

(だから、せめて時間だけでも与えてくれ、と願っているのですが)

 

>ghidorahさん

 

「正しいゴジラ映画」とは何でしょう?

正しいゴジラ像なんて万人が一致するものでもないですし、

現在ゴジラ映画を作る以上、時代や監督に合わせて

変わるものではないでしょうか?

 

もちろんゴジラ映画にも歴史があり、

過去の作品とそれを応援したファンがいなければ

今の作品もないわけですが、

やはり古き良き~に固執しているようにも感じるのです。

 

(ここから下、一読、誤解を招きかねない書き方になってます)

私も敢えて極論を言わせて頂くと、

“私にとっての”正しいゴジラは初代ゴジラだけ。

それ以降のゴジラは全部ダメです。

金輪際ゴジラ映画を作る必要もありません。

初代ゴジラは初めて人間の前に現われたからこそ、

人類(観客)にあれだけのインパクトを与えることができました。

(映画としての構造もそうです)

ゴジラ映画としてのエッセンスは何度も映画を作ることが不可能なもの。

(敢えて断言させてもらいますが)

続編を作ろうとすれば、良い悪いは別にして、平成ガメラ的な

閉塞状態に陥ってしまいます。

 

よってリメイク的な意味も込めて最後に打ち止めの集大成を作るか、

開き直って色々なクリエイターに各人の

アプローチでゴジラという魅力的な素材を料理してもらうか、

そのどちらかしかないと思います。

 

現在は後者の状況になっています。

つまり、怪獣なども含めて、全ては“素材”ですから、

どう切り刻まれようが、バラバラにされようが、

上層部も黙認しているのでしょう。そこそこのカネさえ入れば…。

 

「VSビオランテ」や「GMK」はかなり好きなゴジラ映画であることは

一応、補足しておいたほうがいいですかね。

http://homepage2.nifty.com/st_reguls/

 

 

すばらしい [No.371]

投稿者:もりいくすお

- 2002/01/20 (日) 10:04

ちょっとクチを差し挟んで恐縮ですがたいへん言い話し合いだな~と思っております。

GMK好きさんの「当然非難の声が上がることを予想した上での苦渋の選択だったそうです。」

にはへえ、そうなんだと膝を打ちましたし

Lansさんの「「ほら、あなたたちの無茶な命令のおかげでファンから非難されていますよ」と伝えて もらわ ねば・・・」

にも納得!!

この掲示板の意義を知りましたな。

ファンの熱い気持ちとしては

「作るたびに変更してしまっては、アイデンティティが失われ、」

これまたなるほどと。

 

とりあえず、このサイト、制作者さん達、いっぺん見たらいいなあ。

http://www.kusuo.com

 

 

レグルスさんに感謝 [No.372]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/20 (日) 11:44

年寄りたちが、こうでなければならぬと規範を示しているとき、

若者はそれを圧力と感じ、反発し、変化の中にしか価値はないと

考えたがるものです。

しかし、すべての変化が優れた価値を持つわけではないことに

思い至らなければなりません。

 

また、現実世界には存在しない架空のキャラクターは、その作り手が

「意識的に」一定の設定を守らないと名前だけの中身のない存在に

成り果てます。

 

ゴジラ(そして、その他のすでに生み出されている怪獣たち)は、

役者が演じるべきキャラクターです。

決して一匹一匹の怪獣が役者であるわけではないのです。

これは解釈の問題ではなく、事実です。

怪獣を役者と考えるのは、怪獣キャラクターがころころ変わっても

気にならないことを説明するための方便ですよ。

 

繰り返します。

ゴジラは、現実には存在しない動物なのですよ。

その意味をもっとよく考えるべきです。

ゴジラがGMKの撮影のために、目に白いコンタクトレンズを入れているという

「事実」はありえないのです。

 

正しいゴジラとは、円谷英二監督が関与したゴジラです。

私がどうして正しいゴジラは円谷監督が関与した作品の中にしかいないと

考えるかは、すでに詳しく述べています。

No.191「昨日劇場にて」という兄貴(赤)さんのスレッドとその前後、

また国際映画祭以前の書きこみを丹念に読んでください。

(ゴジラ映画にはさまざまなバリエーションが可能であるとは思っていますよ。

ただし、ゴジラをころころ変えてはいけないのです)

 

映画『ゴジラ』について。

この映画は、「戦争」「核兵器」「人類と科学技術」「科学者の責任」といった

テーマを含んだ作品です。

ストーリーが要求したゴジラ像は、核兵器と同等の破壊力を持つ破壊者であり、

同時に核兵器の被害者であるという「原因と結果」を一つにまとめた両面性を持つ

ことだったと思われます。(それと大自然の力の象徴か)

それがクリアされていれば、映画『ゴジラ』におけるゴジラは過不足なく機能したのでは

ないでしょうか。

しかし、実際に登場するゴジラはどうだったでしょう。

ストーリーに従属しただけのものだったでしょうか。

あの独特の哀愁や愛嬌は、生物としての実在感を与えるための演出だったと思いますが、

それは『ゴジラ』のストーリーの枠からははみ出しているのです。

ですから、映画『ゴジラ』以外のゴジラストーリーを作ることが可能になったのです。

初代ゴジラはすでに続編を作りうるだけの広がりを秘めたキャラクターだったのです。

 

ゴジラは、人間ではない不死身の巨大生物であるゆえに、人間社会の価値観が変わろうと、

作品のストーリーが一個人の問題だろうと社会的広がりを持っていようと、

なんら影響を受けることなく不変のキャラクター性で機能することが出来るのです。

 

架空のキャラクターは作り手によってころころ変わってもいいのだという考えを

認めたとしても、ことゴジラに関しては、変える必要もないと申し上げます。

円谷ゴジラのキャラクター性を変えなければならないとしたら、

その根拠を示して欲しいです。

 

変えればいいというものではないのです。

GMKに関して言えば、

セリフでしか表明されないので、劇中での真実かどうかはわからないですが、

ゴジラもバラゴンもモスラもギドラも(ある種の)人間の意思の代表に成り下がったことで

「つまらない」怪獣になってしまいました。

この怪獣たちがまったくの新怪獣だとしても、私の中での番付は最低ランクになります。

 

さて、平成ゴジラが閉塞状態になり、死ぬことでしか幕を閉じられなかったのはなぜでしょう。

私は平成vsゴジラは、常に「怒る」ことを強いられ、戦う姿しか見せなかったからだと思っています。

物語の構造も打倒ゴジラというストーリーしか作らなかったから、

人類が滅ぶかゴジラが滅ぶか、という選択肢しか残らなかったのではないでしょうか。

これはファンにも責任があるでしょう。

ゴジラ対自衛隊(ないし防衛隊)の攻防のみに楽しみを見出す人が結構多いみたいです。

本来ゴジラ映画はもっと広がりのあるものだったはずです。

確かに自衛隊の対ゴジラ作戦も楽しみのひとつです。

それ以外にもゴジラと対戦怪獣がどんな戦いを見せてくれるか、

怪獣出現事件を背景に人の営みがどんな影響を受けるのか(キンゴジ・モスゴジ・三大怪獣・南海の大決 闘・

息子あたりにその要素が強いと思う)

それどころか、宇宙人が侵略してきたときに怪獣がどうなるかという楽しみさえ創造出来たのです。

ゴジラのキャラクターを狭いところに押し込めたのは84年以降のこと。

閉塞したのは平成vsゴジラ。

原点に立ち返れば、まだまだイケるのがゴジラです。

GMKゴジラは初代の続編みたいな粉飾をしていますが、実際は84ゴジラの後継でしかないです。

なんで、原潜の核物質で強力になっているかも、なんてセリフが出てくるかっ!

 

もし、元祖ゴジラがキャラクターとして行き詰まっているとお考えの方がいらっしゃるなら、

どうかその理由を説明してください。

 

>もりいくすおさん

おおっ、お読みいただいてますね。

わたしゃ、物分りのいい好々爺のふりはしたくないです。

頑固ジジイで結構。

大抵は年を取ると物事が面倒くさくなって、なにごとにもあきらめやすくなるみたいですが、

ここで口をつぐんでは、円谷監督に申し訳ないです。

これまで、円谷作品でどれほど心が救われたことか・・・。

その円谷キャラクターの代表選手たちが名前を盗用されているに等しい事態を見過ごすわけにはいきませ ん!

なんつって。

先日、妻が私にレザーパンツを買ってきたのですが、サイズを間違えて29インチを買ってしまったんで すよ。

私は28インチなんですよ。

しょうがないので、一ヶ月暴飲暴食して1インチ太りました。(ウソ)


 

お返事有難うございます [No.367]

投稿者:GMK好き

2002/01/18 (金) 13:13

 

非難派の方々、貴重なご意見ありがとうございました。

多分こう言われるだろうな・と予感したとおりの

ご意見ではありましたが。

私としても、たまたまライブできいたことを

自慢げに書いたようで少々気恥ずかしいものでした。

ひとつだけお断りしたいのは、私はそんな事情など

まったく知らずにGMKを初見で楽しんでしまったある種の方々には

「ちょっと困ったヤツ」なんですね。所詮内輪の話、まさにそのとおりです。

内部の事情など観る側にはまったく関係のないことです。

今回の私の場合、内輪の事情を後で知って、そんな状況の中で

コレだけ楽しめる(私は)作品を作ってくれたスタッフに感謝してしまったり

したわけです。頭をかかえてますか?

よく言われる属性変更など最近のM78星雲人じゃないウルトラマンや

改造人間ではない仮面ライダーでも同様(と思ってます)にありますし、

まったく気になりませんでした。むしろ既存の怪獣に

新たな可能性(私はそう思った)を見せてくれたことを

純粋に楽しみました。私は怪獣を東宝の役者だと考えています。

非難、おおいに結構(すみません、エラそうな言い方で)

見た人の数だけ意見があるのは当然です。

個人的には数学の問題ではないのだから確定した「間違い」が

あるのかどうかは疑問ですが、それは私が無知なせいかもしれません。

ただ、こちらの掲示板では無用な心配かも知れませんが、

映画を非難(これも妥当ではなさそうですね)するのは自由、

でもGMKを好きな人を非難するのはやめて・コレは言いたいです。

私は試写を含めGMKを五回観ています。どの回も

すべて楽しんでいます。この先時間があれば何回か劇場に

足を運ぶつもりですし、DVDが発売されれば購入して何度でも

楽しむつもりです。そう言う人も少なくはないと思います。

個人的には今回の作品はゴジラをダメにするどころか

最近、萎えかけていたゴジラ映画を再び盛り上げてくれる

良い作品だと思っています。

ただし、観客動員は増したとはいえ、それは併映のハムちゃんの力も

小さくはないのは事実のようです。

実際ハムちゃんが終わってゴジラを観ずに席を立つ親子連れが

かなり多かったのを目撃していますし。

 

失礼ともとれる文章を書いてしまったことを深くお詫びいたします。

子記事

 

 

 

始めまして。 [No.368]

投稿者:兄貴(赤)

- 2002/01/18 (金) 15:13

GMK好きさん、こんにちは、兄貴(赤)と申します。

過去ログを読んで頂ければ分ると思いますが、私はかなり過激にGMK批判をしております。

ですが、けしてGMK好きさんの様に「GMKを楽しめました」という意見の方を否定するつもりはあり ませ ん。

むしろ、今回の貴殿の書き込みを好意的に受け止めております。

(ただし、何度も言いますが、盲目的、病的、感情的に「GMK最高!」と言っている人は馬鹿だと思っ ていま す)

 

作品を楽しむ、あるいは批判する、楽しめない、などは各個人の自由であり、それを他人がとやかく言え るもの ではありません。

ですが、私は円谷監督が作り上げたゴジラを、別物に仕立ててしまったGMKに非常に危機感をもってい ます。

これを「良し」としてしまうと、今後どの様な変更が加えられるか分らない、そうなってしまうとゴジラ として 存続不可能であると思っ

ています。

それに、ゴジラとは確立されたキャラクターであり、そのキャラクターの魅力が世界から大きな支持を受 けたの に、それを勝手にイ

ジルのはゴジラの魅力を損なう危険が大きいと思っています。

 

ウルトラマンや仮面ライダーを引き合いに出されておりますが、ちょっと違うのではないかと思います。

ウルトラを考えますと、初マン、セブンは別物です。

「帰ってきた」も別物です、以降の新シリーズは全て新いウルトラマンです。

ですから、それぞれの属性が違っていてもそれほど問題ないと思います。

タローにおいて、全員兄弟になってしまったのは、いかがなものかと思いますが…

平成シリーズも、ウルトラマンという名前は付いていますが、ティガ、ダイナ、コスモなど別名であり、 別物で あることを表明していま

す。

つまり、ウルトラシリーズは、初代ウルトラマンが何度も地球にやってきた話しではないので、その度に 改変が あっても問題ないの

だと思います。

 

しかし、GMKでの怪獣達は明らかに過去から存在する怪獣であります。

それを改変することは、ダメだと言っているのです。

GMKの怪獣が「なんちゃってジラ」「レッドバラゴ」「イモモスラ」「キンキラドラ」といった名前で あたな ら、パロディー映画として認め

るのですが…

 

 

いや、いや、そうじゃないんです [No.369]

投稿者:ghidorah(管理者)

- 2002/01/18 (金) 16:30

GMK好きさんの書きこみには、なんら失礼な態度はなかったですよ。

意見が対立したからといって謝っちゃいけません。

 

と、いいつつ、GMK好きさんだけでなくここをお読みのみなさんへ。

 

作品を誉めるも貶すも、その根拠を示した上のことならどんなにきついことを言ってもいいんじゃないで しょう か。

当然、その意見が突っ込まれる可能性もあるわけですが、突っ込みは対話の基本です。

そういう風に他人の考えとすり合わせることが出来れば、もっとものの観方が広がりますし、真実に近づ けるは ずです。

 

ところが、一部の人は徹底した個人主義に走ってしまい、

作品の良し悪しは個人個人の心の中にしかないのだと言い放って対話を拒否しています。

もちろん、ある個人がある作品を楽しめたかどうかは個々人の問題でしょう。

しかし、人間の脳の構造にさして個人差がないことを考えれば、多くの人が心を打たれる名作の存在を認 めなけ ればなりません。

芸術(もちろん映画を含む)作品を論じるときには、(自分が)楽しめたかどうか、という基準のほかに よく出 来ているかどうかという

基準も持たなければならないのではないでしょうか。

この、よく出来ているというのは、より感動に普遍性がある、より多くの人に同じ感情を共有させること が出来 るということにつなが

ります。

他人がどう感じるかなんか関係ない、という考え方に立てば考慮に値しない基準ということになってしま います けど。

(これも難しい部分なのですけどねぇ。大ヒットを記録して、お客さんがたくさん入り、多くの人がおも しろ かった、と口にしても5年も

経てば忘れられてしまうような作品ってありますよね)

 

そこでGMKに関して私が主張したいのは、GMKは決してうまい出来の作品ではなかったということで す。 (怪獣たちを書き換えて

しまったことも作品を普遍性から遠ざけている原因です)

その根拠はこれまでたくさん書いて来ましたので、どうぞログをご参照下さい。